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1988年7月24日ー自殺と梅雨の関係ー

有名な作家や小説家の中には自殺する人が多い。

川端康成、三島由紀夫、最近では田宮虎彦。

なかでも芥川龍之介と太宰治(だざい・おさむ)の2人は、世間を騒がせた。

太宰が女性とともに玉川上水に入水自殺したのは昭和23年6月13日。

芥川龍之介が田端の自宅で睡眠薬を飲んで死んだのが昭和2年7月24日。

梅雨の初めと、終わりというのが、妙に符合する。


芥川の場合、前日の23日は朝から蒸し暑く、最高気温は35.6度。

ところが翌日は、朝から「戻り梅雨」のひんやりした雨が降ったという。

梅雨、とくに明けるころ、自殺しやすい気分になるようだ。

ことに「戻り梅雨」のような異常気象はよくない。

変な事件がつづくのも、そのためかな。


1988年7月23日 ーパソコン通信ー

きのう、ワープロで「実演」してあげたのが「パソコン通信」の一例だ。

パソコンとは、パーソナル・コンピューターの略。

「個人用コンピューター」とでも、いったらいいのかな。

本格的なコンピューターは、一つのビルが必要なほどに大きい。

それを家庭でも使えるように小型化したものと思えばいい。

ワープロはパソコンではないけれど、最近は、お父様が持っているもののように

パソコン通史ができるようになっているのだ。

これを電話回線を使って、ホストと呼ばれるパソコン通信会社につなぎ、

そこにある大型コンピューターに入っている様々な情報を取り出したり

(例えばヒットチャートのように)、また、これを通じて、他人と通信したりする。

外国ともできるんだよ。いつかやってみよう。


2010年7月23日

22年前。パソコン通信にはビックリした。

父は、過去の新聞記事をデータベースから取り出したりしていた。


それから、8年後に大学入学祝いにマッキントッシュを買ってもらった。

父が、「共通の話題ができた」と喜んでいたのを

今でも覚えている。


その頃も、まだパソコン通信が主流だった。

ニフティに加入して、楽しんだものだ。


でも、その頃に、すでにインターネットは存在していた。

銀座のソニービルの中にできたネットカフェに入って、早速試したが、

外国のサイトにアクセスしようとして

(その頃日本のサイトはほとんどなかった)

10分以上かかって、やっと表示された覚えがある。


それから、3年後にはめざましくインターネットは進化していた。

就職活動は、すでにネットを使用していたし、ネットがなければ

活動が制限された。

しかし、まだ自宅ではネットできない学生もいたし、今ほどでは

なかったのだろう。

これから、どんな方向に進んでいくのだろう。

なんか怖い気がする。


1988年7月22日ー湿舌ー

せっかく、夏休みになったのに、うっとうしい天気が続く。

気象庁の天気相談所には、子供たちから、問い合わせの電話が、

ひっきりなしにかかってくる。

「何日から、山に行きたいのですが、いつ晴れるんですか」

相談所の人も、ぼやいている。

「耳が疲れた」

広島や島根では、がけ崩れなどで15人も死者、行方不明が出ている。

子供たちは、山や海へ行くどころではないだろう。

この大雨は、梅雨の末期によくおこる「湿舌」が原因。

日本の本州から日本海にいってしまったはずの梅雨前線が、

オホーツクの海の高気圧に押し戻され、湿った空気を含んだ前線が

舌の形のように、おおいかぶさる現象だ。

お天気が意地悪いベロを出している。



1988年7月21日ー福岡ー

福岡はいい町でした。

もちろん、東京・六本木にはかないませんが。

夜も、遅くまで人々が、男の人が女の人が歩き、さんざめいています。

屋台が多いのも、この町の特徴です。

百㍍も歩くうちに、4件も5件もあるのです。

それも、銀座のような大通りに。

けれども、食べ物は、どれも高いのには驚きます。

千円以下の料理など、ほとんどありません。

19日には、海の中公園に行ってきました。

博多湾に突き出している細長い半島にあります。

新しくできたホテルh、なかなかモダンで、海辺に建っているので、眺めも抜群です。

その先に鹿の島があります。

江戸時代の末期に、金でつくった判(金印)がみつかったところです。

千年ほど前の中国のもので、難破した船にあったのでしょう。中国との近さを感じました。



2010年7月

私は、未だに福岡にいったことがない。

男性に、「博多はいい!」と言う人が多い。

どんな町なのだろう。

以前勤めていた会社で、全国会議で福岡の方がくるが、

美人が多かった。

男性に博多好きが多いのは、そんな要因もあるのかもしれない。

1988年7月17日ー夫婦別姓ー

○○○ちゃんの時代には、多分、間に合わないだろうが、日本もいつか、

結婚しても、女性側が姓を変えなくても、すむようになるかも知れない。

これを夫婦別姓という。

中国では、むかしから別姓。名前を聞いただけでは、

二人が夫婦かどうかわからない。

日本でも、夫婦は、妻の姓を使ってもよいことになっている。

しかし、98%が、夫の姓を名乗っている。

男の家に、嫁ぐという意識が強いからだ。これは欧米でも同じ。


ところが、女性が働き出し、権利意識を持つようになってから、

別姓を主張する女性が増えてきた。


大体、名前を変えると、働いている人にとっては、

相手に知らせるのが大変。名刺も全部、刷り変えなくてはならない。

○○○ちゃんも、○○のままでいてほしい。



2010年7月17日

20年以上たった今も、夫婦別姓は認められていない。

少し、動きはあったものの、やはりなかなか進まない。

私は、お父様の願いをきいてあげることはできなかった。

結婚式の時にもらった手紙を読んで、少し胸が痛んだが、

こんな昔から、姓が変えてほしくないと思っていたとは・・・。

私自身、できることなら姓をかえたくなかった。

今まで生きてきた証を、すべて否定されるような、

違う人間になれと言われているような感覚があったからだ。

特に、名前ではなく苗字で呼ばれることが多かったから

かもしれないが、とにかく悲しかった。

夫の姓を名乗るようになってから、数年たった今でも、

とにかく違和感を感じる。

本当の自分ではない、そんな感じ。


でも、選択制になったら、どうなるのだろうか?

男性側は、結婚する女性が自分の姓を名乗ることで

満足感を得られるのだとすると、夫婦別姓を主張すると

また、夫婦間の争いの種が増えるのかもしれない。

1988年7月16日ー板垣退助ー

日本人にも、ときどき、ずいぶん、カッコのいいことを、言う者がいる。

「板垣死すとも、自由は死せず」

明治15年、岐阜の演説会場で、何者かに刺されたとき、時の自由党総裁の

板垣退助が叫んだ言葉といわれる。

(つくり話、という説もある)

彼は高知県(当時の土佐藩)の武士。明治維新の時、政府側につき、

会津攻略に手柄をたてた。

しかし、その時、会津藩の悲惨な最後をみて、民衆が権力を持った

政治をしなくてはならないと思った。

これを自由民権思想という。

いまでいえば民主主義だ。だから、あの言葉が出てきた。

しかし後に伯爵となった。変節だ。けれども、死ぬ時には、

「華族は一代でよい。伯爵を受け継ぐな」と子供には遺言、

一応筋を通した。

大正8年7月16日、没。

1988年7月15日ー生物季節観測による猛暑ー

毎日、寝苦しい日がつづく。

気象庁の長期予報によると、ことしの夏は猛暑だそうだ。

これは、科学的なデータを調べた結果、でてきた予報だけれど、

動物や植物の様子を見ても、大体わかる。

気象庁が、昭和28年から始めた「生物季節観測」によると、こんな目安がでている。


サルスベリの花が早く咲き、アブラゼミが早く鳴き出したら猛暑。

イチョウの落ち葉が早い冬は雨が少なく、遅いと暖冬。

東京のサルスベリの平均開花日7月18日。

アブラゼミの初鳴き日は7月19日。

お父様は、まだどちらも見たり聞いたりしていないけれど、○○○ちゃんはどう。

いずれも、平均日前。

猛暑になる可能性は生物観察の上でも残っている。

1988年7月14日ー乳母ー

「乳母」。

「うば」と読む。

母親の替わりに、その赤ちゃんや子どもに自分の乳を飲ませたり、

世話をする女のひとのことをいう。

むかしは、ある程度の家庭では、たいてい乳母をやとっていたものだ。

一つには、いまのように、粉ミルクなどがなく、

赤ちゃんが吸うのは母乳だけ。

けれども母乳の出ない人も多く、

乳のよく出る人にきてもらうほかなかったのだ。


お父様も乳母に育てられた。写真を見ただろう。


日本の新聞の求人広告の第一号も「乳母求む」。

「乳母を雇いたし。心当たりの者は呉服橋、丹波守邸にられよ。

乳さえよろしければ、給金は世上(一般の世の中)より高く進ずべし」

明治5年7月14日の東京日日新聞。

けっこうこれが、いいアルバイトになった。


2010年7月

息子は完母で育てた。

出産した「愛育病院」は、母乳があたりまえ。

退院するころには、そこそこ母乳が出るようになっていたし、

母乳を飲ませ終わって、一息つけると思った頃には、

息子は泣き出し、またしても授乳。

1日17回、ひどいときは20回も授乳していたので、粉ミルクを

作っている暇がなかった。

粉ミルクの作り方がよくわからなかったというのもあるが・・・。

結局、そんなに頻繁に飲ませていると、

2,3ヶ月もすると母乳はよく出るようになる。

そこまでが大変だったが・・・。

寝る暇もなく、まるで自分が乳出しマシーンになった気がしたものだ。


1歳2カ月で、私の病気を機に断乳したが、

助産師さんに断乳ケアをしてもらっていた時、

「質の良い母乳が出ていて、もったいないわね」と言われ、

うれしいやら、悲しいやらで複雑な気分になった。

「前世は、乳母だったのかも」なんて冗談をいって

自分の気持ちを紛らわせたが、時代が時代だったら、

乳母のアルバイトなどしていたのかもしれない。


1988年7月13日ークチナシー

将棋盤や碁盤の中に、四本の足つついた、りっぱなのがあるだろう。

あの足は、真ん中あたりが太くて、独特の形をしている。

お父様も知らなかったけれども、あれは、クチナシの実の形をまねたものだそうだ。

つまり、見物人が、わきから、あーしろ、こうしろという口を出すなという意味が、

こめられているのだという。

つまり「助言無用」のしゃれ。

ずい分、気がきいているね。

いま六弁の白いクチナシの花が、雨の中さわやかなニオイをただよわせている。

一重と八重の二種類があるが、香りは一重の方が、まさるといわれる。

そのニオイの流れはジャスミン。しかしフランスでクチナシから香水を

つくろうとしたが、ついに失敗した。香りは自然のままの方がいい。


LETTER-クチナシ

1988年7月12日ー勲章ー

勲章。

日本には大勲位を最高として、その下に勲一等から勲八等まで、

様々な勲章が5種類27階級ある。

昭和21年、つまり敗戦の翌年の5月、この勲章制度のうち、

生きているうちに出す生存者叙勲は停止された。

戦前は、役人になると、えらくなるごとに

自動的に一段上の勲章が与えられた。

しかし国民に奉仕する役人に、勲章を出すのはおかしいということと、

人間に等級をつけるのはけしからんという2つの理由からだ。


しかし17年後に復活した。

昭和38年7月12日のこと。

そのとき、これを反対する人々も多かった。

市川房枝という婦人運動のリーダーも勲二等を断った。

「私は二等が妥当と政府が勝手に決めるなんて失礼」。

お父様も勲章には反対。特に同じ勲章で一等から八等まで

階級があるのは日本くらいだ。