平将門の乱(戦争の日本史)(感想)
承平天慶の乱は平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称です。 関東では平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大し、やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになりました。 そのこじれから国衙の戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至りました。 ”平将門の乱(戦争の日本史)”(2007年4月 吉川弘文館刊 川尻 秋生著)を読みました。 いまだに各地に残り今なお人々の絶大な信仰を集める平将門の、知られざる実像とその時代を紹介しています。 瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成しました。 そして、京から赴任する受領たちと対立し、西国各地を襲撃して、朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛けました。 まず、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて平将門の乱が収拾され、その後、西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされました。 二つの乱は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられました。 実際には両者の共同謀議の痕跡はなく、むしろ自らの地位向上を目指しているうちに武装蜂起に追い込まれた色合いが強いようです。 川尻秋生さんは1961年千葉県香取市生まれ、1984年早稲田大学第一文学部日本史学卒業、同大学院文学研究科修士課程修了しました。 千葉県教育庁文化課博物館準備室、千葉県立中央博物館学芸研究員を経て、2007年早稲田大学文学学術院准教授、2011年早稲田大学文学学術院教授を務めています。 平将門の乱は、藤原純友の乱とともに、日本古代における最も大規模な反乱でした。 ”将門記”によれば、将門は新皇=新しい天皇と称し、坂東に独立国家を建設しようとしました。 もしこれが真実なら、長い日本史上を見渡しても、このような構想を待った人物はほかにいないでしょう。 将門は桓武平氏高望の孫で、父は鎮守府将軍良将です、なお、良持だという説もあります。 若いとき上京して一時期、摂関藤原忠平に仕えたこともありました。 志を得ず本拠地の下総国に戻って勢力を養い、いまの茨城県の豊田、猿島、相馬の3郡を支配しました。 935年に父の遺領の配分と女性問題をめぐって、一族と争いが生れました。 おじ国香やその姻戚の常陸の豪族源護の子らを殺したことで、おじ良兼、良正や国香の子貞盛の攻撃を受けることになりました。 将門はこれを打ち負かしましたが、護がこの事件を朝廷に訴え出たため召喚されました。 運よく恩赦に浴し許され帰国しましたが、以後もおじたちとの争いは激しさを加えましたが、これを抑えこみ国司の抗争に介入しました。 939年武蔵国において権守の興世王、次官の源経基、郡司の武蔵武芝との争いの調停に当たりましたが,経基によって朝廷に訴えられました。 その矢先、常陸国における国守藤原維幾と土豪藤原玄明の紛争で、将門を頼ってきた玄明を庇護して国府を襲撃し官物を奪って放火しました。 そのため、この段階で国家に対する反乱とみなされました。 将門は興世王にのせられ、下野、上野、武蔵、相模の諸国を配下におき、八幡大菩薩の神託を得たとして新皇と称しました。 坂東八カ国の独立を宣言し、下総国猿島郡石井に王城の建設を始めましたが、940年に朝廷の追討軍との争いに破れ、飛んできた矢が額に命中して討死しました。 言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされましたが、何ヶ月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれています。 中世、将門塚の周辺で天変地異が頻繁に起こり、将門の祟りと恐れられました。 時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ、1309年に神田明神に合祀されました。 現在、東京都千代田区には将門の首塚があり、壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間将門は逸話や伝説が語り継がれてきました。 戦前まで国家から逆賊の熔印を捺され、表向きの歴史からは忌み嫌われてきました。 しかし、武士の信仰や民間信仰には全国各地に将門伝説が残り、将門の後裔を称する氏族も少なくありません。 こうした将門人気は衰えることを知らず、小説などの題材としてもしばしば取り上げられてきました。 学問的にみると、近年、平安時代の貴族の日記や儀式書などの基本史料の研究が進み、10世紀の社会システムについての研究が急速に発展してきました。 10世紀を古代国家から中世国家への転換点と見て、この時代の歴史を研究することが前近代の日本列島の成り立ちを解明する鍵になると考えられるからです。 こうした研究によっても、10世紀の社会、とくに在地についての具体的なイメージはつかみにくいというのが実状です。 9世紀末まで編纂されていた正史が、”日本三代実録”を最後としてなくなり、以後まとまった史料がほとんど存在しないためです。。断片的な史料や研究成果をいくらつなぎ合わせても時代像を描きにくいのです。 ”将門記”で詳細な史料が残されている将門の乱は、総体的に10世紀の実相を描くのに適しているといえましょう。 将門の乱研究は行き詰まった分野ではなく、逆に10世紀研究に新たな息吹を吹き込むことのできる材料です。 そこで、 第一に、最近の10世紀研究の成果を十分に吸収しながら、記事をできるだけ丁寧に読み込むこと、 第二に、丁寧に各種の史料をみていくと、これまで将門の乱研究に用いられたことのなかったものや、写本調査によって、新たに読めるようになってきた史料が判明してきたこと、 第三に、将門の乱のみならず、将門の乱が後の歴史に与えた影響を、明らかにすること、 第四に、武力の意味をもう一度考えてみたいということをもくろんでいるといいます。 なぜ、今、平将門の乱なのか1 平将門とその時代 『将門記』とは何か/治安の悪化/将門の本拠地と営所2 将門の乱を探る 事件のはじまり/武蔵国への介入/常陸国府との対立/新皇将門3 独立国家の夢 藤原純友の蜂起/国家の対応/将門の最期/失われた文字を求めて/戦後処理4 後世への影響 平安貴族からみた将門の乱/武士の成立/伝説のなかの将門 将門の目指したもの[https://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]