第一高等中学の同窓生である子規と漱石は、意見を闘わせながら新たな表現を模索しました。
しかし、1902年に亡くなった子規からの最後の手紙を、漱石は返事をせずに放置したといいます。
”子規と漱石 - 友情が育んだ写実の近代”(2016年10月 集英社刊 小森 陽一著)を読みました。
夏目漱石のいちばんの理解者であった正岡子規の生き方を中心に、二人の関係を紹介しています。
小森陽一さんは、1953年東京生まれ、1976年北海道大学文学部卒業、1979年同大学大学院文学研究科修士課程修了し、大学院在学中に札幌の予備校講師を勤めました。
その後、成城大学勤務を経て東京大学に着任し、現在、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授を務めています。
子規は1867年9月に松山藩士の長男として伊予国・温泉郡で生まれ、明治という時代の新しい活字メディアである新聞と雑誌を舞台に活躍しました。
短詩型文学としての俳句と短歌を革新する運動を展開し、日本の近代文学に多大な影響を及ぼしました。
死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていました。
漱石は1867年1月に江戸・牛込馬場下の名主の家の末子五男として生まれ、第一高等学校卒業後、東京帝国大学で英文学を学びました。
卒業後、松山中学校、熊本第5高等学校の英語教師を経てイギリスに留学し、帰国後、東京帝国大学で英文学を教えました。
子規の弟子高浜虚子の勧めで、子規と虚子が刊行していた俳句雑誌に小説を執筆しました。
小説家としての能力が高く評価され、1907年に朝日新聞専属小説家として入社し、独自の小説世界を構築しました。
子規は、1872年に父が没したため家督を相続し、大原家と叔父の後見を受け、外祖父の私塾に通って漢書の素読を習いました。
翌年、小学校に入学、後に、勝山学校に転校し、1880年に旧制松山中学に入学しました。
1883年に中退して上京し、受験勉強のために共立学校に入学しました。
翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門に入学し、常盤会寄宿舎に入りました。
第一高等学校では漱石と同窓でした。
1890年に帝国大学哲学科に進学しましたが、後に文学に興味を持ち、翌年、国文科に転科しました。
この頃から子規と号して句作を行いました。
大学中退後、叔父の紹介で1892年に新聞日本の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点としました。
1893年に俳句の革新運動を開始しました。
1894年に日清戦争が勃発すると、翌年、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡りました。
その2日後に下関条約が調印されたため、5月に帰国の途につきました。
その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院し、7月に須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷しました。
1897年に俳句雑誌”ホトトギス”を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献しました。
そして、漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開きました。
短歌においても、古今集を否定し万葉集を高く評価して、形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催し短歌の革新につとめました。
漱石と子規の交友が始まるのは、二人が第一高等中学校本科一部に進学してしばらくしてからの、1889年1月頃でした。
この年の5月9日に常規は突然喀血し、翌日50句近い俳句を作った際に子規と号しました。
漱石は13日に子規を見舞いに行き、その日のうちに手紙を書きました。
兄が同じ日に吐血したことを打ち明け、自分の身内と同じように、あるいはそれ以上にの心配をしていることを、さり気なく子規に伝えました。
子規は喀血する前の5月1日、7種の異なった文体、漢詩、漢文、和歌、俳句、謡曲、論文、擬古文体小
説で編んだ文集を脱稿し、友人たちに回覧しました。
この文集の末尾に、漱石は漢文で評を書き、最後に七言絶句九篇を付けて、5月26日に病床の子規を見舞い返却しました。
このときはじめて”漱石より”と署名しました。
後に、漱石の文字に誤記があったかもしれないという手紙を出して、子規に再確認を促しました。
自分の書いた文章に、相手の注意を向けさせ、自分もまた相手の書いた文章を注意深く批評するという関係を、漱石は子規と結ぼうとしていたのです。
この日から、子規と漱石という二人の文学者の交友が始まりました。
漱石は生前の子規を、自らの俳句の宗匠として位置づけました。
そうすることが、当時は不治の病だった結核を悪化させていく子規に、精神的な生命力を与えようとする、漱石の友情の表明でした。
東京と松山、あるいは熊本という形で離れていた子規と漱石は、活字印刷と郵便の制度を媒介として、作者と読者の役割を転換し続ける言葉のやり取りを続けました。
子規は漱石の手紙の読者であり、俳句については読者兼添削者でもありました。
子規は、ときに編集者となりときに批評家になりました。
地方都市に暮らしていた漱石は、新聞や雑誌の読者であると同時に、編集者予規に俳句を選ばれることにより、活字媒体における作者ともなっていきました。
二人の文学的関係は、1900年に漱石がロンドンに留学した後も継続しています。
二人が最後に会ったのは、漱石がイギリス留学に出発するに際して、子規に別れをいいに行った時でした。
その時、子規は餞別として”萩すすき来年あはむさりながら”の句を贈りました。
子規が漱石にあてた生涯最後の手紙には、”僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居るやうな次第だ”と書かれています。
本書は、こうした子規と漱石の間で生み出された、近代日本語の表現の水準を探っています。
第一章 子規、漱石に出会う/第二章 俳句と和歌の革新へ/第三章 従軍体験と俳句の「写実」/第四章 『歌よみに与ふる書』と「デモクラティック」な言説空間/第五章 「写生文」における空間と時間/第六章 写生文としての「叙事文」/第七章 病床生活を写生する『明治三十三年十月十五日記事』/第八章 生き抜くための「活字メディア」 /終章 僕ハモーダメニナツテシマツタ