武田信重は信玄の5代前の甲斐武田氏当主であり守護大名でしたが、一生を安泰に送った人ではありません。

 父信満の敗死という不測の事態が運命を狂わせ、西国に流浪した異色の存在です。

 ”武田信重”(2010年5月 戎光洋出版社刊 磯貝 正義著)を読みました。

 国を逃れ国外に20余年隠忍自重し漸く帰国し守護となった数奇な運命を辿った、甲斐武田氏14代当主の生涯を紹介しています。

 磯貝正義さんは1912年岐阜県生まれ、第八高等学校を経て、1936年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し大学院へ進み、1938年に満期退学し、文部省に勤務しました。

 文部省宗務局保存課・宗務課に所属し、戦後、1946年に山梨県へ移り、山梨師範学校教授、山梨大学教育学部教授を歴任しました。

 1978年に名誉教授となり、山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編纂委員会委員長と務めました。

 武田信重は、1386年に第13代当主・武田信満の長男として甲斐国都留郡に生まれました。

 武田氏は甲斐源氏の棟梁であり、甲斐源氏は名門清和源氏の一流です。

 甲斐源氏は新羅三郎源義光を祖とし、甲斐と清和源氏との関係は義光の祖父頼信の時代までさかのぼることができます。

 1029年に頼信は甲斐守に任ぜられましたが、在任中平忠常の乱を平定し、束国に活相源氏の勢力を植えつけました。

 後年、甲斐が甲斐源氏によって制圧される素地は、この頼信の時代に築かれました。

 頼信の子頼義は父に従って甲斐に下向しましたが、のち陸奥守兼鎮守府将軍となり、陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子の反乱を、前後12年にわたる苦闘の末に平定しました。

 頼義の長子義家は父に従ってこの役に参戦しましたが、後年、陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられ、出羽の豪族清原氏一族の内訌に発する大乱を悪戦苦闘の結果平定しました。

 義光はこの義家の弟で、兄を助けて乱の平定に大きな貢献をしました。

 義光には数子があり、義業が常陸佐竹氏の祖となり、盛義が信濃平賀氏の祖となったのに対し、義清は甲斐に土着して甲斐源氏の直接の祖となりました。

 義清の子清光は峡北の逸見方面の経営に主力を注ぎ、子供たちを国内の要地に分封することによって甲斐源氏の勢力は一層強大化しました。

 清光には大勢の男子があり、それぞれ国内の要地を占拠し、その地名によって氏を称え、甲斐源氏は幾多の分脈を生ずるに至りました。

 逸見・武田・加賀美・安田・平井・河内・田井・八代・奈胡・浅利・曽根などの諸氏が生れました。

 それらがさらに一条・甘利・板垣・秋山・小笠原・南部など無数の分脈を派出し、甲斐源氏は天下に名高い大族となりました。

 これらの中で、後世とくに繁栄するのが信義の子孫と遠光の子孫です。

 信義は武河荘武田に拠って武田氏の祖となり、兄の逸見光長を凌いで甲斐源氏の総領的地位に立ち、後世甲斐の守護職はその子孫が独占することになりました。

 一方、遠光は加賀美に拠って加賀美氏を称しましたが、その子長清は小笠原氏などの、光行は南部氏などのそれぞれの祖となり、子孫は国外の大族として栄えるに至りました。

 信義には忠頼・兼信・有義・信光などの諸子があり、それぞれ活躍します。

 鎌倉幕府草創期の困難な時代を生き抜き、最後に武田の総領職を継いだのは、石和の御厨を占拠した石和五郎信光です。

 かれは甲斐の武田・大井・穴山氏などのほか、安芸・若狭の武田氏や松前氏など、国外の大族の祖ともなっています。

 信光の活動期間は長く、源家が三代で滅ぶと、後鳥羽上皇は朝権の回復を図って北条氏追討の軍を起こしました。

 信光は一族の小笠原長清、関東の雄族小山朝長・結城朝光とともに、東山道大将軍として西征、戦勝後、恩賞として安芸の守護に任ぜられました。

 信光の子孫が代々安芸の守護となり、その一族が安芸に移り住むようになりました。

 信光のあとは、信政・信時・時綱・信宗と続いて鎌倉時代の末期に及びました。

 元弘の乱から鎌倉幕府の滅亡、建武の中興、南北朝の争乱と、14世紀の中葉以降は動乱の世紀でした。

 甲斐の一族も両派に分かれて争い、とくに南北朝期には両派に分属して相抗争しました。

 武家方が圧倒的に優勢で、信武・信成・新春と続く武田の総領家は、終始一貫して武家方であったため、その地位はまず安奏でした。

 とくに信武は尊氏の信任が厚く、尊氏の姪を妻とし、兵庫助・甲斐守・伊豆守・陸奥守等に任ぜられました。

 また安芸守護のほか九州探題や甲斐・若狭の守護を兼帯し、後世武田家中興の祖と称せられました。

 信武の子信成は安芸守・刑節大輔で甲斐守護となりました。

 信成の手信春は、修理亮・伊見守・陸奥守等に叙され、甲斐守護を継ぎました。

 南北朝の動乱期を無事に切り抜けた武田総領家が、一転して不幸のどん底に落ち込むのは、信春の子信満が上杉禅秀の乱に加担して敗死したからでした。

 この信満の長子が信重であり、武田守護家の嫡流でありながら、20余年間も国外を流浪した末に、ようやく入部できた悲運の守護でした。

 1416年10月の上杉禅秀の乱に際して、父の信満や弟の武田信長は上杉禅秀方に与しましたが、翌年1月に禅秀が幕府軍に敗れて自害しました。

 続いて領国の甲斐国に逃れた信満も2月に敗死しました。

 信重は高野山に逃れて出家し、光増坊道成と号しました。

 信満敗死後の甲斐守護には同じく高野山に逃れていた叔父・武田信元が補任されて1418年2月に帰国していました。

 1421年には信重も幕府より甲斐国への帰国を促されましたが、このときは帰国を拒否しています。

 1423年6月に室町幕府4代将軍・足利義持から守護に補任されていましたが、鎌倉府がこれを承認しなかったため入国は果たせませんでした。

 1425年6月にも、逸見・穴山等打出として帰国を拒否し、在京のままでの守護就任を望みました。

 その後、信長の子で信元の嗣子となっていた武田伊豆千代丸が、実父の信長や甲斐守護代の跡部氏らの助力を得て、反武田勢力と抗争して優勢でした。

 逸見氏の後ろ盾となっていた鎌倉公方・足利持氏の介入によって戦況は後退し、1426年8月に信長が鎌倉府に降伏、さらに台頭してきた跡部氏が専横を揮いました。

 その跡部氏が信重の帰国を要請したこともあって、1438年8月に、信濃守護・小笠原政康の支援を得て帰国を果たしました。

 1439年の永享の乱には出陣しませんでしたが、1440年の結城合戦に参陣して、結城七郎を討ち取る武功を挙げました。

 1450年11月に、一族の黒坂太郎を討つために出陣したところ、小山城主の穴山伊豆守がその隙を衝いて攻め、前後を挟撃されて自害したといいます。

 墓所は館のあった山梨県東八代郡石和町小石和の成就院で、跡目は子の武田信守が継ぎました。

1 父祖の遺業
2 武田信満と上杉禅秀の乱
3 武田信元の守護補任と帰国
4 武田信長の活動
5 武田信重の流寓
6 武田信重の帰国
7 守護武田信重の活動
8 武田信重の信仰と修養
9 武田信重の死
10 武田信重の後裔
11 武田信重館跡と成就院