五社英雄と言えば、”鬼龍院花子の生涯””極道の妻たち””陽揮楼””吉原炎上””三匹の侍””人斬り”など、異色の映画を作った極彩色のエンターテイナーでした。

 テレビでも、ひらけ!ポンキッキの企画に携わり、三匹の侍は続編も作られるほどの人気となりました。

 ”鬼才 五社英雄の生涯”(2016年8月 文藝春秋社刊 春日 太一著)を読みました。

 時代劇映画ややくざ映画で活躍した、五社英雄監督の評伝です。

 春日太一さんは1977年東京生まれ、日本大学芸術学部卒業し、同大学大学院博士後期課程修了、芸術学の博士号を取得した映画史・時代劇研究家です。

 五社英雄は1929年東京都生まれ、明治大学商学部卒業後、ニッポン放送プロデューサー、フジテレビ映画部長、五社プロダクション社長を務めました。

 草創期のテレビは新しいメディアとしての可能性に満ち溢れていました。

 作り手たちは、テレビだからこその表現方法を探って多くが芸術家・思想家のような小難しいことばかりを述べていました。

 そうした中で一人異彩を放っていたのが五社でした。

 満足でない制作環境への文句、映画界への嫉妬、そして徹底した観客へのサービス精神がありました。

 テレビドラマでは刑事ものやジキルとハイドなどではプロデュースも担当し、原作・脚本・監督をこなす映画監督でした。

 テレビ出身の映画監督の先駆けとして活動していきましたが、テレビ界出身ということで、長らく日本の映画評論界から不当に無視に近い扱いを受けてきました。

 また、その言動は常に毀誉褒貶の対象でした。

 しかし、現在の時代劇やアクションは五社の存在なくしては語れません。

 真っ白なジャケットとズボンで敵だらけの現場に乗り込み、水たまりがあればそのジャケットを脱いで女優にその上を歩かせて周囲の度肝を抜きました。

 また、こういう話をすれば相手は喜んでくれるだろうとの想いから、相手に合わせてエピソードを面白おかしくでっちあげたこともありました。

 父親は鳶職をしていて、その世界に入る時は誰もが彫り物を体に彫り込むことになっていた、と言ったことがあったそうです。

 彫ったらこの子の人生は変わると、彫り師はなんとか止めさせようとしたそうです。

 父親は聞かなかった、これで人生が変わるようだったら、もうそんな奴はいらんと言った、といいます。

 青年は父親に言われるまま、背中に彫り物を入れることになりました。

 しかし、背中に彫り物があったことは確かですが、実際に彫り物を入れたのは50歳を過ぎてからのことでした。

 ちなみに、五社の父親は鳶でもありませんでした。

 五社は作品を通してだけでなく、常日頃から、いかにして周囲の人間を楽しませるか、そのことだけを考えていました。

 そのために彼は、自らの人生をも脚色していたのでした。

 1980年には銃刀法違反で逮捕され、一時は映画界を追放されてすべてを失いました。

 フジテレビを依願退職し、オファーされていた映画”魔界転生”の監督もなくなり、妻にも逃げられました。

 生活していくため”五社亭”という店名の飲み屋の開店の準備をしていましたが、それを見かねた岡田茂・佐藤正之の尽力により映画界に復帰しました。

 1982年の映画”鬼龍院花子の生涯”で復活し、以降は女優たちの濃厚な濡れ場やヌードに彩られた極彩色の映画を連発して、低迷する日本映画界を牽引しました。

 今では当たり前の、刀がぶつかり合い、肉を斬り骨を断つ効果音を、最初に生み出したのも五社でした。

 テレビの小さな画面でいかにして映画に負けない迫力や殺気を出すか、に悩んだ末に辿りついた発想でした。

 1985年に五社プロダクションを設立し、映画”世界最強のカラテキョクシン”の総監修や、映画”陽揮楼ⅡKAGERO”の脚本監修も手がけました。

 1992年8月30日に、呼吸不全のため死去しました。

 根強いファンに支えられながらも映画賞には縁が薄く、キネマ旬報ベストテンには一度も入賞しませんでした。

 ”陽暉楼”では日本アカデミー賞において、監督・脚本・主演男優・助演男優・助演女優の主要5部門で最優秀賞を独占しました。

 しかし、作品部門では優秀賞に漏れるという珍記録を作りました。

 ハッタリ入り乱れた生涯に翻弄されながら、著者は渾身の取材で鬼才の真実に迫っています。

第1章 情念/第2章 突進/第3章 転落/第4章 復活/第5章 未練

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 Last updated  2016.12.27 07:01:36