不思議戦隊★キンザザ -3ページ目

デジタルアートでダリを体験

さてコタツ席でゴールデンカムイを見終った我々は、次にところざわサクラタウンの角川武蔵野ミュージアムを目指した。公共交通機関ではちょっと面倒そうだったのでサクッとタクシーで。

 

地元民をざわつかせたという外観のミュージアム

 

2020年の角川本社の移転は出版界に激震を起こした。なぜなら飯田橋から所沢というありえない移転だからだ。普通、移転っつったら都内だろ。所沢なんて遠すぎる。どーしていきなり所沢?と話題になったのである。通勤可能者が一気に減少するのでは?という心配の声もあがった。しかしリモート体制をコロナ禍以前から準備してきた角川、あっさり所沢に引っ越して現在普通に稼働できているっぽい。

 

大魔神がいました

 

神社もあります

 

ということで現地に到着した我々はまずランチで腹ごしらえである。少々遅めの時間だったのでマダムが所望したサバの味噌煮定食は完売であった。なので次点のオムライスを選ぶとオマケがついてきた。

 

期間限定だったような

 

オマケのハガキ

 

お友達の頼んだ豪華な魚介カレー

 

ドリンクは別料金でした

 

さて、なぜここを訪れたのかというとちょうどダリのデジタルアート展が開催されていたからである。デジタルアートをどう説明すればよいのか迷うのだが、壁と床を全てスクリーンにしてアートを映写する没入型展覧会、といえば分かるだろうか?え、分からない?ですよね~~~~。

説明するより画像を見てもらったほうが早い。ということで飯を喰ったらいざデジタルアートへ突入だ!

 

撮影スポットがいっぱい

 

まず最初のエリアはフォトスポットとなっており、例えば卵の中に入って撮影することが出来る。小道具にダリのヒゲやスマホ用三脚が用意されているという親切設計。

 

平日だったのでガラガラ

 

聖アントニウスの誘惑を背景に

 

ダリの写真を背景に

 

思う存分撮影したらメインのデジタルアート劇場だ。

 

結構広い

 

ぬるぬる動くんですよ

 

こいつがね、近づいてくるんですよ

 

象が歩くのですよ

 

すっごくクリアなのです

 

広いエリアは壁床全てがスクリーン、シームレスでダリの作品がデジタルアートで映写されていく。

 

静止画像じゃ面白さが伝わらないなあ

 

サイケデリックでいい感じなんだよなあ

 

ポップだったりシュールだったり

 

壁に映る影もアートの一部のようだ

 

ひとつひとつのイメージが

3メートルくらいあるんですよ、これ

 

幻想的でもあり

 

次々と移り変わる作品の洪水でトリップ感満載。しかもBGMはピンク・フロイド!なんというサイケデリック!自分は留まってるのに壁の画像がグングン大きくなるだけでこっちに近づいてきている錯覚を起こして脳味噌がバグる感じ。エンデの「鏡の中の鏡」みたいな。

 

デジタルなので色彩が綺麗

 

デジタルすげーな

 

好きなひとはハマるかもね

 

ダリの作品はデジタルアートに

「使われている」だけで

 

ダリの作品を観賞しているわけではない

 

著名人の作品をデジタル化して

勝手に動かしていいものだろうか

 

堪能したけど、いろいろ考えてしまった

 

会場の広さが分るでしょうか

 

会場説明にはこうある。

 

鑑賞のしかたに決まりはなく、場内を歩き、立ち止まり、時には座り、来場者が自由に動くことで、その人だけの展覧会を楽しむことができます。

 

ってなことで会場にはビーズクッションがいくつか設置されているので寝そべりながらの体験が可能。ただし数は多くないので早い者勝ちである。

開始から終了まで約35分、どっぷりダリにハマることが出来る。いやあ、初体験だったけど確かに没入できますね。新感覚のアート観賞というか、浮遊感のある不思議な感覚。アートというよりクラブ的なレジャーに近いか。クラブなんて行ったことないけど。

 

ここはまた別エリア

 

ダリについての説明など

 

遊び心がある

 

以上、初体験のデジタルアートであった。今展覧会のメインはあくまで「デジタルアート」であり、ダリの作品を観賞できるワケではない。まあ、これはこれで一種のレジャーとして良いのかもしれない。

さてここ角川武蔵野ミュージアムはサクラタウンという一帯にあり、サクラタウンとはポップカルチャー発信拠点にしようと目論んで角川が企画した場所である。ミュージアムのほか書店、ハンモック付き休憩所、土産屋、カフェ、神社などを集めて「日本のポップカルチャーを一日で体験」できることを目指しているようである。インバウンドでどーのこーのってやつか。確かに一日遊べると思う。日が暮れると鳥居が光ってゲーミング鳥居になるし。

 

なんで光ってんの

 

色気づきやがった

 

駅までの道すがらにあるマンホールの蓋も薄っすら光を帯びたゲーミングマンホールであった。蓋のデザインがアニメっぽいし。もしかして街をあげてゲーミングタウンに化けるつもりか。駅は普通だったけどそのうちゲーミング駅になるかもしれん。駅だけではなく、ゲーミング道、ゲーミング畑、ゲーミング電線、ゲーミング木、ゲーミング信号と次々にゲーミング化するのであろうか。ゲーミングの意味がイマイチわかってないけど。全てがゲーミング化された頃に、もう一度訪れてみたい。

あっ、ってゆーか仮面ライダー展が始まってるじゃん!!

 

年寄りが集まりそう(マダム含)

 

行きたい!でも遠い!ところざわまで遠出する気力がまだ養われていない!ゲーミング人間に改造すべきか。

 

 

 

 

 

 

デタラメ映画批評 Vol.45

どーも久しぶりであります。全然デタラメ映画批評してねーからなんも観てねーのかというと特にそんなこともなく、日々なにかしらの映画をちまちまと観てることは前と同じなのですが、もういちいちレビュー書くのが面倒になってきちまって、そもそもブログをどーにかする時間がなくなってきて、あーどうしようあーどうしようと思うだけでなにもせず今に至るワケであります。

そんでですね、アレですよ、脚本賞を受賞した「落下の解剖学」を見たのでありますよ。会社の映画男子に最近なに見た?って聞かれたので「落下の解剖学」と答えたら「え、ラッコの解剖?」と言われ、サキちゃんに落下の解剖学を勧めたら「ラッコの解剖?いくらなんでも」と言われ、ムッシューにも「ラッコの解剖?どうして」と言われたであります。もしかして自分が観たのは落下の解剖学ではなくラッコの解剖だったのだろうか?なにこのデタラメ。

というわけでデタラメ映画批評であります。

 

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

 

実話ベースだがシリアス過ぎずノワール過ぎず、重くなくテンポが良い。BGMはゴキゲンな60年代のヒット曲、主人公のフランクはパイロットや医者のなりすまし詐欺で大金を稼ぐ。父親が事業で失敗し一家離散、カネさえあれば元の幸せな家族に戻れると信じた子供らしい理由である。普通(というのも変だが)ならカツアゲや万引きなどのセコイ悪事へ走るものだが、フランクはいきなりパイロットに成りすまして成功するのである。あまりにも派出な詐欺っぷりからFBI捜査官に目を付けられる。

 

名作ですね

 

当時28歳のディカプが16歳から20代前半の主人公を演じて完璧である。いやもう、いちいち「その年頃」の演技がスゴイ。天才か。タイトルがこれ以上ないほど相応しい。最高の娯楽作品。

 

ディパーテッド

 

ディカプはチンピラを装ってギャング組織へ潜入する警官役。全体的にノワールフィルムの体裁でシリアスに進む。いつバレるか、誰にバレるか、黒幕に辿り着くのと身分がバレるのがどっちが先か、どうやって落とし前をつけるかという緊張感がありサスペンスとしてのレベルが高い。

 

ディカプって演技上手いんすね

 

日本では囮捜査、潜入捜査は確か御法度のはずである。潜入先のメンバーと犯罪を起こす可能性があるし命の危険もあるからだ。そのかわり尾行と監視の能力が高い。これが文化の違いというものか。

 

ブラッド・ダイヤモンド

 

ダイヤモンドを巡る紛争が後を絶たない。ダイヤ産出国はだいたい貧乏なので不当に人員を雇って(主に誘拐)ダイヤを掘らせ、高く買う業者に売りつけて武器を購入、武装して独裁政権を狙う。って、よくもまあ飽きもせず同じよーなことを何度も何度もやってるなあ、と呆れるけど、呆れるのは当事者ではないからで、貧乏な国は教育よりも武器購入と汚職に精を出す。どうしてかというと教育がないからである。かといって国連が下手に手は出せない。貧乏国家にも主権があるからだ。じゃあどうすればいいんだよ?ってなことを無限に考えてしまって疲れる。

 

面白くないこともない

 

で、内容は、まあそういう話で、ディカプはダイヤ密輸入業者でカネにさえなればダイヤが汚れていようが血まみれだろうが意に介さない。はずだったが、実際に現場の当事者になってしまって目が覚める。やっぱ当事者にならないと厳しい問題なのか。

 

シャッター アイランド

 

連邦保安官のダニエルは同僚とふたりで離島の精神病院を訪れる。行方不明となった患者の捜査のためである。患者に聞き取りを行ううち、なにが本当なのか誰が嘘をついているのかわからなくなってくる。確かに嘘があるはずなのに、嘘をついているのが誰か、どれが嘘なのか分からない。ダニエルの記憶が徐々に混濁していく。

 

サスペンス要素が効いてる

 

良くできたサイコサスペンス。重厚な雰囲気が精神病院というシチュエーションに合っている。正気に戻ったかに思えた患者が、また狂ったのか、それとも正気のまま狂人を演じているのか不明なラストがまた良い。

 

ウルフ・オブ・ウォールストリート

 

デカい家に住んで高い車を乗り回したい。ブランドのスーツを着ていい暮らしがしたい。金持ちになりたい。そう願っている悪知恵の働く無鉄砲男がやることはただひとつ。詐欺である。ただの詐欺ではない。投資会社をつくって会社ぐるみで金融詐欺に精を出す。

 

文句なし!

 

ディカプが演じる主人公フランクにはモデルがいる。実話ベースの作品である。実話だとただのメリケン成金のテンプレートに過ぎないだろうが、そこはスコセッシ&ディカプの黄金コンビ、軽やかに成り上がり情けなく凋落していくさまをイキイキと下品に演じるディカプが、まさにエンターテインメント。

ディカプはこういった現実離れしてノリの良い作品が一番似合うと思う。

 

レヴェナント: 蘇えりし者

 

熊に襲われ息子を殺され仲間に見捨てられた山岳ガイド(?)が、過酷なサバイバルを生き抜いて復讐する話。実話ベースのフィクション。

最初から最後までシリアス。いいヤツ、いやなヤツが役割分担され、最後にきっちり復讐で終わる。好きなひとには琴線に触れるかも知れんが、重すぎるのと意外性のなさでマダムの好みではなかった。

 

途中で寝てもーた

 

ユージュアル・サスペクツ

 

麻薬密輸船の爆発炎上事件から浮かび上がる組織の黒幕カイザー・ソゼ。誰も彼の素顔を見たことがないという。なぜなら素顔を知った人物はことごとく殺されているからだ。手がかりは爆発事件で生き残った詐欺師の証言のみ。カイザー・ソゼはいつから密輸船爆発を計画していたのか?計画はどこまで拡がっていたのか?計画に終わりはあるのか?果たしてカイザー・ソゼの素性を明らかにすることは出来るか?

 

これも名作

 

面白かった!カイザー・ソゼの謎が最後の最後まで続く。カイザー・ソゼの素性が一気に明らかになるラストが小気味よい。おわあ、やられたああああ!というどんでん返し。良作。

 

ファンタスティック・プラネット

 

カルト作品として名高い1973年のフランス製アニメ。フランス国内ではもう伝説。フランス語教室で今作品のことを口走っただけで講師どもが喰いついてきて如何に素晴らしいか、どれほどの影響を与えたかということをフランス人特有の早口とオーバーアクションで力説させるほどの偉大なるアニメ作品。

 

これはもうアートの範疇

 

なにがスゴイってヒエロニムス・ボッシュのようなシュールで幻想的な画風であろうか。とにかく目の保養になる。いつまでも見ていられる。レベルが高いとか、そういう次元じゃない。ステージが違う。現代でも全く古臭くない。他に比較できる作品が見当たらない。アニメだけど、ちゃんとアートをバックボーンにしている深さが見える。後世に残そうと思わなくても、勝手に後世に残る力を持った作品。マジ素晴らしい。

 

義足のボクサー GENSAN PUNCH

 

義足のボクサーが日本ではプロのライセンスが取れないので、フィリピンでライセンス取得を目指す話。ドキュメンタリーかと見紛うほどの完成度の高さ。大した事件は起こらないように見えて、そこそこ山場はある。しかしそれを必要以上にドラマティックに描かないところがドキュメンタリーのような本気度を感じさせる。

大げさなBGMがないのが良い。淡々さが良い。フィリピンの日常生活の中でボクシングをしてるのが良い。誠実な作品だと思った。面白かった。

 

フィリピン映画の実力

 

エクスペンダブルズ ニューブラッド

 

最強の消耗品軍団が帰ってきた!ガバガバプロットなんて気にしない!筋肉と爆発と銃撃戦で大暴れ!それでいい、それでいいんだ!

 

有名どころでカネ稼ぎ感は否めない

 

前作からほぼ10年を経ての新作。みんな歳を取った。シュワちゃんはいないしブルースも引退、でも大丈夫。スタローンさえスクリーンで拝めれば。ただし最初と最後だけ。中盤のずっと続く作戦にスタローンはワケあって出てこない。でも大丈夫。ここぞというときに登場するから!その登場も「やっぱりな!生きてると思ったぜ!」というファンの期待に応える完全ご都合主義!これが娯楽映画ってもんだ!

次回作は厳しいかな・・・。この手が使えるのは一回限りだよな・・・。

 

落下の解剖学

 

雪山の山荘で男が転落死、男の妻に殺人容疑がかかり、唯一の証人は視覚障害のある11歳の息子。というポスターに書かれた文句通りだが、内容は事件そのものではない。法廷劇であり心理劇である。

殺人容疑を受けた妻は法廷で私生活が暴かれていく。いままで隠していたもの、自覚なき害意が露見する。無実を勝ち取っても、それまでの事実を消すことが出来ない。

 

見応えがあった

 

ひとがふたり以上集まると、そこには必ず軋轢が生じる。カップルであれば猶更だ。軋轢の理由は様々あるが軋轢の深さは日によって深くなったり浅くなったりする。力関係も一方向ではなく、今日は自分、明日は相手といったように揺れる。愛情だって同じで、片思いだったり両想いだったり無関心だったりする。ずっと同じ感情愛情レベルを持続するのは難しい。良い関係を保つにはお互いに努力が必要なのだ。それは夫婦間であってもだ。

相手の落ち度を担保にして、常に自分に選択肢が優先されることは絶対にない。しかし我々はそれを忘れがちである。忘れたふりをして計算している部分もある。どこかで修復できれば最悪な展開は回避できるかもしれないが、そこにもまた努力が必要なのである。人間関係とは、かくも難しいものなのだ。感情の匙加減ひとつで関係は簡単に崩壊する。

 

観賞しながら皮膚が剥がされていくようなヒリヒリした感覚がハンパない。なぜなら夫婦間の感情の揺れにマダムも覚えがあるからだ。たぶん、誰にだって覚えがあるはずだ。静かで恐ろしい作品であった。

今作品を観賞したのは週末の午後だったが客層に年配のご夫婦が多く、これ観た後にどんな会話をするのかと思って背筋が凍った。夫婦での観賞はおススメしない。

 

ゴールデンカムイ

 

漫画原作の娯楽作品。漫画未読、事前情報なしに観賞したが良く出来ていて面白かった。邦画にありがちな湿っぽさ、間合いの長さ、説明調の独白が一切なかったのが素晴らしい。代わりにテンポの良さノリの良さがあり、近年稀にみる出来の邦画作品であった。ついでに舘ひろしがカッコ良すぎてビックリした。いやあ、邦画もやれば出来るじゃねえか。ただto be continuedとなったのに肩透かしを食らった。原作が長すぎるからか。読んでないけど。

 

全く長さを感じさせない良作

 

ところで今作品を観賞したのは新所沢レッツシネパークである。こたつ席があるということで遠かったけど行ってみた。

 

コタツは電源入れる代わりに湯たんぽが

 

レッツシネパークの閉館前日、ギリギリこたつ席に間に合った。初めて行ったが手作り感溢れる映画館で地元の方々が名残惜しそうに写真を撮ったりしていた。地元に愛された映画館だったことが伝わってきて行って良かったと思う。

 

映画愛溢れるエントランス

 

スタッフの手作りらしい

 

作品に合わせて作成してきたみたいです

 

壁画の中央にゴジラさんが!

 

作品で使用されたアイテムも展示

 

味わい深い

 

アーガイル

 

スパイ小説家とスパイ組織とスパイ組織を裏切った元スパイが入り乱れてどこかに誰かが隠したUSBを狙う椅子取りゲーム。小説のスパイと現実のスパイのギャップが微笑をそそる。小説のスパイはスタイリッシュでカッコ良いのに、現実のスパイはなんか微妙だよね、みたいな。そこがたまらなく良い。気を抜くことなく、しかし適度に笑いを取りつつ最後まで飽きさせない巧みな構成がまた素晴らしい。

 

痛快アクション、英国風味

 

マシュー・ヴォーンが戻ってきた!それもキックアス、キングスマンあたりのノリが!前作のキングスマン ファーストエージェントでは少々シリアスなプロットで社会派に色気を出してきたかと思われたが、今作品にシリアスは皆無。荒唐無稽なポップさを前面にしてゴージャスでエキサイティング。あ、監督はいつだってゴージャスでエキサイティングだったわ。

スパイ小説のスパイ役にヘンリー・カヴィルを充てた監督に敬意を表したい。やっぱ監督は英国人だけあってポリコレにかぶれて内心の自由にまで踏み込み始めたハリウッドとは一線を画すわ。そこに英国人の矜持を感じるわ。クラウディア・シファーを嫁に持つだけあるわ。監督の全ての作品には監督の人柄が現れてる気がする。好き。

 

さてそろそろオッペンハイマーが公開される。前売りも買ったし準備はいつでもオッケーだ。あっ、その前にDUNE2も観ないとな。あっ、その前に前作のDUNEも見直しておいた方がいいかな。あとアフリカン・カンフーナチス2と温泉シャークも封切られたら観ないとな。映画館でやってくれるかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

愛×義務×因習の三つ巴 ジャンヌ・デュ・バリー

ルイ15世時代のフランスは宮廷文化の最高潮にあった。何事も秩序付けられ厳格なルールがヴェルサイユを支配していた。王は起床したときから人目にさらされる。なぜなら近親者取り巻き官僚に囲まれてお着換えするからである。お着換えを手伝う人物、順番も大切だった。

今日も今日とていつも通り面倒なしきたりに沿ってお着換えするルイ15世だったが、気持ちは弾んでいた。新しい愛人を手に入れたからである。愛人の名はジャンヌ・ベキュといった。のちにジャンヌ・デュ・バリーと呼ばれることになる女性である。

 

トウが立ってる感じがジャンヌっぽい

 

ジャンヌは貧乏人の私生児として生まれた。というか宮廷文化が最高潮に達した裏で市井の民衆はそこそこ貧乏が普通だった。王や貴族は民衆に対してなんの感情も抱かず自分らだけで悦楽を消費し続ける。そんな時代である。

 

絢爛豪華ヴェルサイユ宮殿

 

一般民衆ながらも野心ある母親に育てられたジャンヌは、持って生まれた美貌を武器にしてのし上がる。もちろん美貌だけではダメで、言葉遣いや会話術、美術文芸、秀でたセンス、優雅な立ち振る舞いなども習得しなければならない。そして最も大切なのが閨房術である。ジャンヌは自らを商品とすることを厭わなかった。

だって貧乏なんていやだもの。清廉潔白に生きた結果が餓死なんて絶対いや。

 

ドゥミ・モンドのクルティザーヌ

(裏社会の高級娼婦)

 

美しく磨かれた売春婦にはあらゆる男どもが寄ってくる。売春婦に惚れたからではない。楽しい遊び相手として、自慢できるアクセサリーとして、そして強力なコネクションを得るための貢物として手なずけようとするのである。

ジャンヌは相棒の女衒バリー=セレ伯爵を通して高級娼婦の階段を駆け上る。その階段の頂点で、ジャンヌはルイ15世と出会った。

 

頂点にジョニデ

 

ふたりの出会いは仕組まれたものだった。それでも15世はジャンヌを気に入った。宮廷の空気に染まっていないジャンヌが新鮮だった。ジャンヌは自由奔放だった。ジャンヌは自由奔放に王を愛した。

 

ルイ15世なら仕方ないな

 

しかしふたりの蜜月は5年で終止符を打つ。ルイ15世が病に倒れたからだ。天然痘であった。献身的に看病するジャンヌだったが、とうとう王の居室から追い出される。ジャンヌは神聖な家族ではないからである。王が回復する見込みはない。そのためジャンヌは宮廷からも出ていかなければならない。庭にはジャンヌを修道院へ連れていくための馬車が既に用意してある。ジャンヌの愛した王はベッドで苦しんでいる。そう思ったジャンヌは踵を返し、再度王の居室の前に戻る。

最後にもう一度だけ彼にあわせて。さよならを言わせて。泣きながら訴えるジャンヌを、居合わせたひとびとは冷たい目で見る。なんて浅ましい女だろう。この期に及んでまで王を汚すつもりか。

「彼女を通してやれ」と命令したのは15世の孫、ルイ16世であった。ジャンヌは次期国王の優しさに感謝しつつ、死にゆく王に最後のキスをしてさよならを告げた。

 

―略―

 

デュ・バリー夫人が映画化されたと知ったとき、「は?映画にする要素なんてあるんか?」と思った。そしてルイ15世役がジョニデだと知ったとき、「絶対観なきゃ!」と思った。

サブタイトルは「国王最期の愛人」である。間違っていない。その通りだからだ。次期国王のルイ16世は妻アントワネット一筋というフランス王にあるまじき正直で実直な性格だったので愛人をひとりも作らなかった。そんで実質ジャンヌが「国王最後の愛人」となったのである。

フランス宮廷は昔っから爛れていたが、フランス王きっての女好きと言えばルイ15世であろう。女好きというより病的なヤリチンに近い(非嫡出の子供多数あり)。結婚当初から皇后のマリー・レグザンスカを毎年孕ませつつ愛人を数人囲い、皇后が「もう妊娠したくない」と王を断ってからはポンパドール夫人を公妾とした。王の惚れやすく飽きやすい性格を知ったポンパドール夫人は飽きられる前に娼館「鹿の園」を経営し、王に女をあてがった。それほどルイ15世は女遊びが大好きだった。否、女遊びをするか狩りをするか、それ以外にやることがなかったのである。

王なんだからそんなことより国を治める方が先だろ、と思われるかもしれんが、もうこの頃のフランスは王自らの責任において政に手を出す覚悟など微塵も持ち得ていなかった。自分のことしか考えない官僚どもが王に国を治めさせなかった側面もある。ルイ15世は煌びやかに飾り立てられた神輿に過ぎず、決められたスケジュール通りに儀式が終われば狩猟か娼館通いで時間を潰す。ルイ15世が最も恐れていたもの、それは「退屈」であった。

 

退屈王、ルイ15世

 

そうやって退屈を潰していた王の前に現れたのがジャンヌである。

 

デュ・バリー夫人肖像画

画家がヴィジェ・ルブランだからロココ調

 

といっても簡単に出会えるワケではなく、それなりの計画を立てなければならない。そもそもジャンヌを王の愛人にすることを目論んだのはジャンヌの愛人でもあり女衒のバリー=セレ伯爵である。しかし伯爵は王と親しい間柄ではないのでリシュリュー公爵を味方に引き入れる。バリー=セレ伯爵は王とのコネクションを、リシュリュー公爵は女を紹介することで政敵よりポイントを稼ぐという下心あっての計画だ。もちろんジャンヌはその計画を知った上で受けて立つ。

この頃の王はポンパドール夫人を亡くし、「鹿の園」も解散させられ女日照りが続いていた。極上の女を用意すればきっと王は飛びつくだろう。

 

女漁りを娘たちに戒められ中の15世

 

ジャンヌは一時期ポンパドール夫人の娼館のメンバーであったとされる。美貌を持ち閨房術にも長けているということだ。あとは宮廷のマナーを覚えるだけである。

 

髪を下したヘアスタイルは商売女の証

 

王との初夜は密会であった。いくらルイ15世といえども出自の怪しい商売女と遊ぶとなると人目を避けなければならない。ジャンヌは黒いローブを着せられ、夜の闇に紛れて裏口から王の部屋へ案内された。

 

ここまでさせて王はやりたいのか

王「やりたい」

 

たった一夜の関係のはずであった。ところが王はジャンヌを公妾に欲しがった。そのためには貴族の称号がいる。ということでジャンヌはバリー=セレ伯爵の弟、ギヨーム・デュ・バリー伯爵と結婚させてデュ・バリー伯爵の妻ベアルン伯爵夫人とした。

かようにジャンヌが宮廷で公妾となるためには面倒な手順が必要だった。こういったところにも良く分からんルールが適用されるのである。それが宮廷という場所なのである。

 

お披露目は鏡の間で

 

ジャンヌの宮廷入りは宮廷側にとって大事件であった。一夜の相手と公妾では意味が違い過ぎる。なぜなら私生児の商売女が正式に宮廷に入ることを王が認めた形になるからだ。宮廷側としてはやっとポンパドール夫人がいなくなったと思ったのに、また次の公妾に好き勝手やられてはたまったものではない。ポンパドール夫人は貴族ではなかったがブルジョワだった。ところがジャンヌは父親不明の貧乏私生児である。これならポンパドール夫人の方がまだマシだった。

 

長年15世のお気に入りだったポンパドール夫人

 

史実のジャンヌは機知に長けた朗らかな女性であったという。それに加えて男性服を着る、馬に跨る、ストライプのドレスを着る。ストライプは男性だけが身に着けていた柄である。これらは当時としては破格の不作法であった。

 

女性が馬に跨るなど言語道断の時代

 

こういったジャンヌの不作法を、劇中では性差を超えた革新性としてポジティブに描いている。そこが今作品の見どころのひとつになっているようだ。ジャンヌが卓越したファッションセンスを持っていたことは間違いない。いつの時代でも女性はファッションアイコンを真似る。ジャンヌのストライプドレス事件のあと、多くの女性がストライプ柄をドレスに取り入れるようになった。これはマジな史実である。

これだけだと「ジャンヌスゴイじゃん」みたいな感想で終わりそうだが、15世がジャンヌの不作法に目くじら立てず許していたのは公妾といえども中身はただの愛人で遺産や政治になんの影響がなかったためで、もし自分の娘が同じように振る舞ったら怒髪天をついていたであろう。逆説的だが、15世はジャンヌの尊厳を認めているようで実は認めていない。というところにまでどーせなら踏み込んで欲しかった。

 

ストライプ模様のドレスが流行った

 

ルイ15世の娘たちとの確執、輿入れしてきたマリー・アントワネットとの一連のエピソード、小姓として迎え入れたアフリカの少年ザモールの存在、15世が崩御して消されるバルコニーの蝋燭、礼拝堂で祈っていた16世とアントワネットの元に臣下が集まり「ルイ16世陛下、万歳!」と叫ぶなど、ちゃんと史実に沿っていてなかなか骨太な作品であった(出典はたぶんツヴァイク)。

 

黒人少年ザモール君

 

参考:ベルばら1巻

 

参考:ベルばら2巻

 

史実に沿っているようで、所々にフィクションが散りばめられている。それがまた上手い入れ方で、ジャンヌが最後のお別れの際に部屋の入室をルイ16世が許すエピソードはフィクションである。フィクションであろうともルイ16世だったらジャンヌに押し切られて入室を許すかも知れないな~と思わせる絶妙な匙加減。ザモール君と初対面したときに躊躇なく握手したシーンもルイ16世っぽかった。次期国王が家臣と握手なんてするワケないけど、これもルイ16世だったらやりかねないと思わせる。しかもルイ16世がイケメン。調べたらジャンヌを演じた(脚本・監督も)マイウェンの息子だそうだ。

 

ルイ16世が男前!

 

ザモール君と握手する男前

 

撮影はヴェルサイユ宮殿、15世が公妾としてジャンヌを披露する場所は鏡の間。絢爛豪華な衣装はシャネルである。んも~~~目の保養!目の保養!

 

いつか行きたい

 

デコルテがステキ

 

宮廷ファッションも似合うジョニデ

 

ジョニデのルイ15世も素晴らしい。薄化粧に宮廷ファッションが違和感ない。ほぼ無能の女好き、信仰心を持たず娘たちから嫌われている(ちなみに若くして亡くなった息子のルイ・フェルディナン(ルイ16世の父親)からも猛烈嫌われていた)ルイ15世を、退屈に苛まれる孤独な王として好演。ちゃんとフランス語使ってるのが高得点!まあ、前妻がヴァネッサ・パラディでフランスに住んでたことあるもんな。

 

貫禄出てきてたまりませんな!

 

さて、ジャンヌの最期はギロチンであった。革命の始まりとともに英国へ亡命したはずが、自分家に泥棒が入ったと聞き及んで宝石類が心配になってフランスに戻ってきたところを捕まったのである。タイミング悪いなあ、と思ったら、なんと元小姓のザモール君がジャンヌをジャコバンに売ったのである。ザモール君は熱心な共和党員となっていた。「小姓時代にジャンヌに弄ばれた」との証言があったともいわれており、その真相は不明だがザモール君がジャンヌを裏切ったのは本当である。

 

ザモール君の肖像画(画家不明)

 

よくよく考えると可哀そうな女性である。15世の公妾でさえなければ生き延びていたかも知れない。野心など持たずテキトーな貴族の庇護を受けて亡命していればそれなりに天寿を全うできたかも知れない。でもそんな生き方を選ばないのがジャンヌなのかも知れない。

ジャンヌはギロチンを前にして泣き叫んだと、処刑人のサンソンが回想している。

 

 

 

 

 

いつも心にアルパカを

最近体調が良くない。疲れがたまっている気がする。気分が優れない。寝つきが悪くて寝起きも悪い。通勤電車で座れなかった。仕事が捗らない。人生も捗らない。ファミレスでまた注文を間違えられた。天気が悪くて洗濯物が渇かない。インスタントコーヒーをぶちまける。冷え性。日経平均株価が最高値を記録したのに給料が最高値を記録する見通しは暗い。幸せになりたい。そんなあなたに!!

 

アルパカのご紹介です。アルパカは穏やかで優しい性格をしており、その毛皮を撫でるだけであなたを癒してくれるでしょう。

 

もふもふしたいです!

 

ちょっと待って!アルパカは南米の動物でしょう?そんなに簡単に会えるわけないじゃない。地方の牧場にでも行けってこと?日々の生活で疲れ切って気力も体力も残っていない氷河期万年平社員にアクティブなレジャーはもう無理なのよ。

 

心配ありません!なぜなら今回ご紹介するアルパカふれあいランドは大東京のど真ん中に位置する神楽坂にありますので、東京近郊にお住いのみなさまでしたらどこからでもアクセス可能です。

 

新宿区にいきなり現れるアルパカ

 

30分単位で定員10名、事前予約が安心です。スペシャルイベントとして早朝6時から1時間のアルパカとお散歩コースもございます。初夏の早朝にアルパカと一緒に神楽坂をお散歩出来るなんて最高のレジャーではありませんか。

まあこの時期の早朝はまだ暗いし寒いってんで我々妙齢女4人組は営業時間が始まる10時に予約を入れました。アルパカふれあいランドの隣のアルパカショップが受付となっておりますので、まずそちらで入場カードを借りて首から下げます。エサもここで買います。

 

アルパカショップが侮れない

 

5分程度の注意事項動画を確認したらアルパカランドへ突撃しましょう。

 

モノホンのアルパカです!

 

きゃー!かーわいい~

 

さあ、思う存分アルパカを愛でましょう!エサをやったり撫でたり写真を撮ったり動画を撮ったり、全てあなたの自由です。

 

ごはんをあげてみましょう

 

ごはんもらうまで付きまとってきます

 

毛がものすごく厚いです

 

でも柔らかいんです!

 

訪問した日は2頭のアルパカさんがお出迎えしてくれました。白いのがバニラちゃん、茶色いのが葵ちゃんです。ずっとここで飼っているワケではなく、長野の牧場で何頭か飼っていてローテーションで2頭ずつこちらに出張されているとのことです。

 

バニラちゃんの尻

 

葵ちゃんの尻

 

どちらも魅力的です

 

ああ、アルパカさんさえ長期出張でコンクリートジャングルで頑張ってるのに・・・。自分ときたら寒いとか部屋が狭いとか寝癖が直らないとか小さいことでイライラして・・・。こんなことではアルパカさんに申し訳ない。アルパカさんに恥じないように生きなきゃ。といったように、アルパカさんと触れあうだけで心はグングン前向きになります。アルパカさんの効能はスゴイです。

 

ありがたいです

 

良い子です

 

アルパカさんはモフモフしてて冬は暖かそうだけど、夏はどーなの?暑いのではないですか?その通りです。アルパカさんは日本の夏特有のド亜熱帯気候は苦手です。なので夏はオシャレなサマーカットでキメるそうです。

 

味わい深い

 

趣がある

 

エサをあげてアルパカさんを撫でまくって妙齢女4人組は自分を取り戻しました。取り戻したところでアルパカさんと記念撮影。

 

30分で全体力を使い果たした4名

 

アルパカさんにお付き合いいただいて光栄です

 

30分はあっという間です。延長をお願いしたい心境でしたが、次の予約時間のお客が既に柵の外で待っています。我々は涙を呑んでアルパカさんとお別れしました。

 

またね!

 

しかし我々はアルパカ以前より気力が漲っていることを実感しました。精神が浄化され明日への希望を取り戻していたのです。いまこの瞬間、世界で一番幸福なのは我々であるという確信さえ持ちました。アルパカさん、ありがとう!また逢う日まで!自分ら、頑張って働いてまた会いに来ます!

このとき、アルパカランド回数券(5回分の料金で6枚つづり)の意味を心の底から理解しました。気軽にアルパカさんとランデブーするのに回数券は心強い味方ではないでしょうか。

さて、お楽しみはアルパカランドだけではなく、隣のアルパカショップも一見の価値ありです。アルパカの毛を使用したニットや人形、アルパカ雑貨が勢揃いしています。日本で一番のアルパカ製品が揃っているのと言っても過言ではありません。

 

このくらいが手頃かしら

 

すっごく軽いの

 

暖かそう

 

どっから突っ込んでいいのか

 

アルパカボールペン

誰が、なぜ、これを作ろうと思ったのか

 

クリアファイルは土産にGOOD!

シュール過ぎるぜ

 

アルパカ生首キーホルダー

 

アルパカのお昼寝マット

 

目玉はアルパカ人形。アルパカの毛をそのまま使っているので大変柔らかく優しい手触りです。お値段は優しくありません。まあ、値段まで優しかったらアルパカさんに失礼です。

 

けっこうデカかったです

 

手触り最高です!

 

アルパカ帽子もありました。おススメされたので被ってみたら軽くて暖かい!実用品ですが、観賞用、触って楽しむ用として癒し効果が絶大です。

 

誰が、なぜ、これを(r

 

現地でかぶってるヤツはいるのか

 

それではアルパカさんを体験した方々の証言を集めてみましょう。

 

・朝、起きられるようになった

・悪夢を見なくなった

・リズム感を習得した

・積極的に掃除をするようになった

・宝くじがあたりそうな気がする

・曲がり角で富豪とぶつかって知り合いになる気がする

・図書館でイケメンと同じ本を選んで伸ばした手が触れる予感がする

・空を飛べそうな気がする

・真実に目覚めた

 

ほかにもたくさん証言はありますが、怪しくなってきたのでこのあたりでやめておきます。

以上、みなさまにアルパカさんの魅力と威力が伝わりましたら幸甚です。あらあらかしこ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わが胸に邪悪の森あり 夢野久作

今年に入って乱歩と久作を読んでいる。というのも昨年末に「ゲゲゲの謎」を観賞し、ナントナク「怪奇・猟奇」な気分になったからである。乱歩はさすがの筆運びでサクサク読めるが、久作となるとサクサク読めない。というか読みどころが分からない。読みながら何かがありそうな気配はある。しかし、その「何か」を待っているうちに終わってしまうのである。アレ?終わり?ってな感じなのである。

読むたびにそう思ってしまうのだから、これはもう久作に問題があるんじゃないか?と久作に責任転嫁して「久作の問題」をチョット考えてみようと思う。

 

読むのがツライ系

 

マダムの所有している久作アイテムは上記三冊、中編の「少女地獄」以外は短編である。まあ、少女地獄も三つの作品に分かれているので短編と言っていいかもしれぬ。その他は青空文庫でちびちび読んでいる。

さて、久作である。イマイチ良く分からないのである。不可解で不明瞭に感じるのである。なぜだろう?とギモンを持ちつつ読むのだからマスマス読みづらい。そうやって読み続けて気付いたというか、気になる点をいくつか炙り出してみた。アハアハアハ……。

 

こんな雑誌もあったけど

たいして参考にならず

 

・文体が一貫していない

 

久作は「一人称形式」「書簡体形式」を特徴とする作品がある。そして少女の一人称の作品に文体不一致が頻発しているように思われる。例えば「氷の涯」の少女ニーナが女言葉で独白中、急に「だ調」に変転し説明的になるのである。こういった文体不一致のゆらぎに出くわす度、あれ?人物が変わった?といちいち立ち止まる羽目になるのである。読み辛え。

あと、山の手言葉を使う少女の台詞に「ありがとうよ」という言い回しが出てきたりする。無理して書いてんのかな?と、また下らんことに気を取られるのである。

 

・ステキの使用過多

 

久作は文体だけではなく妙な部分でカタカナを多用するのも特徴のひとつであり、中でも「ステキに~」の使用頻度が多すぎる。実例として「ステキに~」箇所を列挙してみる。丸カッコ内はステキ文が使用されたタイトルを表す。「すてきにいい天気(あやかしの鼓)」「ステキに苦い(狂人は笑う)」「ステキに珍らしい(キチ〇イ地獄)」「ステキに派手、ステキに気持ちのいい、ステキに明るい声(空を飛ぶパラソル)」「ステキに面白い(シナ米の袋)」「ステキに早い、ステキに朗らか×2、ステキに偉いお方(少女地獄)」「ステキに大きい(冥途行進曲)」などである。少女地獄の「ステキに朗らか」なんぞは同作品で2度使用である。冥途行進曲はステキに何が大きいのかと言うと心臓の大動脈瘤である。余命二週間というネガティブな流れなのに心臓の大動脈瘤がステキに大きいのである。ステキにどうかと思う。

この「ステキに~」は当時流行りの言い回しだと思うが、久作はよほどステキに気に入ったのであろう。これはもう「久作文」と言っても差し支えないほどだ。ステキに話は飛ぶが、ちびまるこちゃんの漫画でまる子が美味いものを喰ったとき(確かじいさんの友蔵も一緒に)「ステキにおいしい・・」と独白したコマがあって、即座に「こんなところに久作が」と思ったことがある。

 

・ジャンルが分からない

 

SF探偵推理純文恋愛歴史幻想等々小説ジャンルは色々あるが、では久作作品が属すのはどのジャンルかというと、それが分からない。ハッキリと「これだ!」と言えないのである。アンチミステリ、ジャンルレスになるであろうか。

ところが!久作自身は探偵小説を書いているつもりらしいのだ。というのも久作の作品を掲載していたのが「探偵クラブ」「探偵趣味」「新青年」「ぷろふいる」「猟奇」といった探偵小説雑誌であったからである。というか久作は「あやかしの鼓」で新青年の創作探偵小説募集に2位入選、全国紙にデビューしたのであった。そもそもの始まりが探偵小説なのだ。それなのに実際に読んでみると探偵小説っぽくないのである。その理由は次に説明する「意味不明描写」が原因かと思われる。

 

・微に入り細にわたる意味不明描写

 

意味不明描写は主にグロテスク描写である。最も不可解なのがドグラ・マグラの若林博士の行動である。久作は若林博士が地下の解剖室で少女の虐殺死体を切り刻む様子を事細かに描写している。死体をすり替えるためとはいえ、そんな描写いるか?と高校生マダムは頭をひねったものだ(コレ読んだとき高校生だった)。しかも異常行動は伏線でもなんでもなく、マジでただの異常行動に過ぎないのである。まああの小説は登場人物全員どうかしているので異常行動もあの世界観では異常ではないのかもしれない。それが非常に久作っぽくはある。

例題にもうひとつ、空を飛ぶパラソルで轢死した若い女の描写がある。これもまた、ありありと想像せざるを得ないほどの懇切丁寧な描写っぷりで、脳味噌にそのイメージをありありと思い浮かべながら読む羽目になり邪魔で仕方がない。なぜそこまで念入りに描写するのか分からない。その意図が分からない。

 

まあ、こういうイメージっすよね

 

探偵小説であるならばトリックやミスリード、または伏線に隠された事実、どんでん返しなどに力点を置き、納得する結果(犯罪理由など)に着地しなければならないはずだが、久作の場合は文中に散りばめられた謎が必ずしも結果に結びついていない。謎は謎のまま残るのである。しかし探偵小説を標榜する久作は、取ってつけたような理由を突拍子もなく登場させる。バランスが悪いのである。これについては「あやかしの鼓」の乱歩評に詳しい。

 

第一人物が一人も書けていない。どの人物もその心持を理解することが出来ない。少しも準備のない、出たとこ勝負でちょっとばかり達者な緞帳芝居を見ている感じです。(略)こうしたこじつけみたいなものが、作全体に満ちております。御伽噺なら御伽噺で書き様もありましょう。御伽噺でもなく、現実味にも乏しく、妙に受け取れない作品です。

 

この乱歩の久作評を読んでマダムは「そうだそうだ!」と思った。我が意を得たり!と思った。とはいえ乱歩はこうも評価している。

 

この作の取柄は、全体に漲っているキ〇ガイめいた味です。(キチ〇イで一貫すればいいものを、実は正気であったりするのが困るのです)。そういう味はかなり豊富に持っている人だと思います。

(「あやかしの鼓」について江戸川乱歩の選評)

 

繰り返すようだが、この乱歩の久作評を読んでマダムは「そうだそうだ!」と思った。我が意を得たり!と思った。久作作品は妙に探偵小説風に整えてあるので本気の狂気が霞んでいるのだ。マダムは久作の本気の狂気を読みたいと思った。しかしどれを読んでも薄いのである。溢れ出てしまった狂気を久作自身がわざわざ薄めている気配がある。否、薄めている自覚はないのであろう。ただ狂気の前後が冗長過ぎるのだ。この冗長さえなければ、もっと濃度が高く密度の濃い狂気に触れることが出来るのに。そんな作品はないだろうか?

 

久作、只者ではない感

 

ある。いまのところマダムが久作の最高峰と考える作品が2作ある。まず「笑うオシ女」である(オシという字は漢字だが使用禁止かも知れんのでカタカナとした)。ここに登場する狂女が素晴らしい。土蔵に住む低知能でオシの色情狂、それでいて超美人。暗い土蔵の2階から誰彼構わず男を誘惑する。なんというロイヤルストレートフラッシュ的な狂女であろうか。狂女と聞いて想像する通りの原点である。エベエベと泣くのがまた秀逸。

そしてもうひとつは「猟奇歌」である。雑誌「猟奇」が始めた短歌のジャンルで、猟奇をモチーフにしていれば誰が詠んでも良かったが、久作のレベルが高すぎたのか、それとも久作以外のレベルが低かったのか不明だが、現在では久作の猟奇歌しか残っていない。確かに久作の猟奇歌のレベルは高い。高すぎる。以下に何首か抜粋する。

 

この夫人をくびり殺して
捕はれてみたし
と思ふ応接間かな

 

サディズムとマゾヒズムが程よく融合している一句である。久作の作品に熱を感じるときがある。熱が高い部分はたいてい毒婦が登場している。あやかしの鼓では鶴原の未亡人、けむりを吐かぬ煙突の南堂伯爵未亡人、女抗主の新張未亡人などである。あ、いま気づいたけど全員未亡人だ。主人公を幻惑する未亡人はそろいも揃ってサディストで主人公はその餌食になったあと未亡人を殺す。あるいは警察に突き出される。アンビバレントな性癖が垣間見えるようだ。サディスト未亡人との密室の秘め事は久作が好んだシチュエーションだったのかも知れぬ。ちなみに少女の場合、過酷な運命を与えて苛め抜く。だいたい死ぬ。

 

わが胸に邪悪の森あり
時折りに
啄木鳥の来てたゝきやまずも

 

タイトルの「わが胸に邪悪の森あり」はこの歌から拝借した。これはすごいと思った。カッコいいと思った。理性は持ちえど胸に巣くう邪悪の森の存在を否定しない。なぜならそれは甘美の泉でもあるからだ。誰からの批評も受け付けるつもりがない冷たさがあって良い。

 

毎日毎日
向家の屋根のペンペン草を
見てゐた男が狂人であつた

 

久作の本領発揮というか、久作以外に誰がこんな歌を詠む?というほどの久作節。不穏。背中に冷たいものが走る一句。ワケの分からなさが不気味で素晴らしい。

 

月のよさに吾が恋人を
蹴殺せし愚かものあり
貫一といふ

 

貫一ディスってる。

 

メスの刃が
お伽ばなしを読むやうに
ハラワタの色を
うつして行くも

 

若林博士?

 

かように久作のエッセンスが最も凝縮しているのが猟奇歌である。久作作品は短ければ短いほど狂気猟奇レベルが高い気がする。狂気猟奇を持続するには書く方も読む方も精神力が必要だからである。

ということでしばらく精神を鍛練してドグラ・マグラに再挑戦しようと思う。精神が鍛練できなかったら諦める。

久作作品は青空文庫で読めるのでどうぞみなさんも挑戦してみてご覧なさいな。きっと眠くなってよ。ホホホホホホエベエベエベエベエベ