不倫メロドラマ夏の嵐とヴィスコンティ
舞台は1866年普墺戦争勃発直後のヴェネツィア。リヴィア・セルピエーリ伯爵夫人は敵方のフランツ中尉と恋に堕ち、不倫の関係になってしまう。
中尉は除隊したがっているが除隊証明書を買うカネがない。除隊さえできればずっと一緒にいられるのに。恋に溺れた伯爵夫人はカネを中尉に渡してやる。そのカネは従弟から預かっていたレジスタンスの義援金であった。
ヴェネツィア解放とイタリア統一のための大切なカネを恋のために盗んだ伯爵夫人。自分の犯した罪に押しつぶされそうになりながら中尉からの連絡を待つが一向に連絡がない。伯爵夫人は全てを棄てて中尉のいるヴェローナへ赴く。
やっと会えた中尉は酔っぱらっていた。そのうえ部屋には娼婦がいた。ここでやっと伯爵夫人は気づく。ずっと騙されていたことに。中尉は伯爵夫人を愛してなんかいない。ただ利用しただけなのだ。
部屋を飛び出た伯爵夫人は中尉がカネで除隊証明書を買ったことをオーストリア軍に密告する。ただちに中尉は捕まり銃殺刑になる。真夜中のヴェローナで銃の音が響く。それを聞きながら伯爵夫人はヴェローナを徘徊するのであった。
―完―
1954年、ヴィスコンティ監督作品。ヴィスコンティ作品はいままでに6作品鑑賞し4勝2敗である。勝が面白かった作品、敗が面白くなかった作品である。それぞれの勝敗タイトルは以下の通りである。
勝
山猫 (1963年)
地獄に落ちた勇者ども (1969年)
ベニスに死す (1971年)
ルードヴィヒ (1972年)
敗
白夜 (1957年)
若者のすべて (1960年)
では今回の「夏の嵐」はどうだったかというと、残念なことに「敗」であった。ってことで上記タイトル表に「夏の嵐」を加えると、マダムの勝敗におけるヴィスコンティの作品は60年初期あたりがターニングポイントだと思われる。いったい何がヴィスコンティのターニングポイント足らしめているのであろうか?
イタリア映画には「ネオレアリズモ」というジャンルがある。労働問題や貧困、暴動といった現実に起こっている社会問題を題材に40年代から50年代にかけて多く作られた作品群のことである。ムッソリーニの独裁政権失脚、イタリア王国崩壊、王政廃止、無防備都市を経てイタリア共和国樹立という激動の時代を反映したものだ。ヴィスコンティの初期作品も、そういった時代背景に干渉されざるを得なかった。というか、ヴィスコンティ自身が反ファシズム運動に身を投じ共産党へ入党していたのである。
だがヴィスコンティは根っからの貴族である。共産党への入党は、ただ単に反ファシズムに最も有効な手段だと思ったに過ぎず、なぜ反ファシズムだったのかというと個人の自由を認めない全体主義が大嫌いだからである。まあ、全体主義は共産党も同じなのだが、毒を持って毒を制す精神?みたいな心境であろうか。もちろんヴィスコンティの共産党員時代は短かく、60年にはとっとと離党していたという。
マダムのヴィスコンティ作品勝敗が分かれる理由はこのあたりにありそうだ。
ヴィスコンティは「堕」を描くのに長けた監督である。堕落、落伍、破戒、頽廃。つまり負け犬だ。負け犬と言っては少々語弊があるが、その負け犬を素晴らしく美しく描く。
「堕」を主題にした傑作は全てネオレアリズモからも共産党からも足を洗ったあとの作品である。
反対に、ネオレアリズモ作品群は面白くない。先に表明しておくがこれはマダムの偏見であって、世間一般で流通している普遍的な意見ではないからな。ヴィスコンティの作品を全部見てるワケではないのだからマダムのただの妄想だ。じゃあ妄想を続けるぞ。
具体的に言うとネオレアリズモ作品群は面白くないというよりムカつくのである。なににムカつくのかというと劇中の「女」に対してムカつくのである。不思議なことである。例えば「白夜」では戻ってこない男を橋の上で泣きながら待ち続けるヒロインにムカついた。そりゃお前みたいに可憐で幸薄そうな女が橋の上でさめざめ泣いてたらマストロヤンニも引っ掛かるだろうよ。
「若者のすべて」では四兄弟のママンにイライラしっぱなしであった。ママンは喜怒哀楽が激しいというか、すーーーぐ感情的になって大声で喚くのである。というか、冷静に会話が出来ない性分らしくずーーーーーーっとぎゃあぎゃあ喚くのには辟易した。もうマジずーーーーーーっと喚いてんだもん。しかもなにを喚いているのかと言うと、だいたい自分の境遇を呪い文句を言い憐れんでいるのである。四兄弟はよく我慢してられるなーと思った。内容は全然覚えてない。
さあ、ママンの独壇場が始まるぞ
どうして私はこんなに不幸なんだろう
私って可哀相だろう?そうだろう?
はいはいかわいそうかわいそう(息子)
(次男の恋人に向かって)私のほうが不幸だよ!
今回の「夏の嵐」では伯爵夫人にムカついた。あらすじで分かると思うが頭が弱いのである。頭の弱い女が男に騙されても「仕方ねえだろ、だってお前頭弱いじゃん」としか思えないからだ。頭の弱さが透けて見えるので全然ロマンティックでもないし悲恋でもないし頽廃でもない。
ヴィスコンティは女を知らないのだろうか?否、良く知っていたと言える。ヴィスコンティは女を卑下には描いていない。むしろ「可憐でいじらしく一途、ママンは正義」として描いている。しかしヴィスコンティはそういった女の部分を最も苦手としていたのではないか。苦手だけどカネのために世間に迎合したら出来上がりが「女の醜い部分が凝縮されてた」みたいな。女ってこんな生き物だから、みたいな。それが非常に的確で、うわあ、ダダ洩れしてんな~、隠してたはずの凝縮された女の嫌な部分が、と感じるのである。
さて、では「勝」タイトルはどうだろう。主人公は全て男、もちろん女も登場するがムカつくことはない。なぜなら重要ではないからである。「ルードヴィヒ」にオーストリア皇后シシィが登場するも、シシィは弱さを見せたり媚びたりしないので女のウザさもいじらしさも感じさせない。これが唯一の成功例か。
イタリア統一という大いなる時代の転換期を、老公爵と甥のタンクレディを軸に描いた「山猫」はどうだろう。この作品ではバート・ランカスターの品の良い渋みに対してアラン・ドロンの野蛮な若さが際立つ傑作。老公爵の豪奢な没落が印象的であった。
このままスクリーンアウトする老公爵のラストシーンに鳥肌立った
ヴィスコンティ描く男どもは美しい。この美しさは健全な美しさではなく、肉は腐る前が一番美味い的な堕落する寸前の糜爛な美しさである。ヴィスコンティは愛した男たちを最も美しくスクリーンに残した。
ネオレアリズモからも共産党からも離れて、本来の貴族的生活にひたりながら「堕」を追求した作品こそ傑作ではなかろうか。まあ、こっちもある意味ヴィスコンティがダダ洩れしてるけど。そのダダ洩れに確固とした美学が感じられる。
以上、「夏の嵐」を語るはずが、あまりにも語る部分がなかったせいでヴィスコンティについて独断と偏見で浅く考察してしまった。