インターネットを使う様になってから長年、どうも苦手な画像ファイル形式だなと思って来たSVGなのだが、Googleでどういう特徴があるのかを検索して調べてみたら、何となくテキストエディタにコピー出来そうだと言う感触を得たので、SVG形式の画像ファイルをWordにコピー出来るかどうか試してみたら、成功した。そこで、そこから何とか別の画像ファイル形式に出来ないかと思って右クリックを使ってみたら、“画像として保存”と言うコマンドがあったので、実行したところ、Wordに貼り付けたSVG形式の画像ファイルをPNG形式の画像ファイルとしてPCに保存出来た。 

 

 テキストのみのSVGファイルについては、上のような操作を施す事で、ここのブログでもアップロード可能なPNG形式のファイルに変換出来ると解ったのだが、画像込みのSVGファイルの場合は、上の方法ではPNG形式に上手く変換出来なかったので、Web上に存在して居るファイルコンヴァータを使って、ここでアップロード可能な画像ファイル形式に変換する必要がある。 

 

 そして、Windows Photo Viewerでも、Explorerでも、SVG形式は対応出来て居ない。故に、Explorerの表示を大アイコンにしてもSVGファイルでは中身が見えないが、Wordの“挿入”にある“画像”を使ってWordのページ上に貼り付ける事は可能だ。Explorerで中身を確認しながらWordにもブログに使いたい場合は、画像ファイル形式をSVG以外の、ExplorerやWindows Photo Viewerで対応しているものにすべきだが、別に中身を見なくとも良くて、且つブログにアップロードしないと言うなら、SVGのままでも構わないと言う事になる。  

 

 ところで、Vivaldiについても発見があった。Settingsの中のTabs>TAB FEATURES>Tab Cycling>Switch Tabs by Scrollingを有効にすると、カーソルをタブに合わせた状態でマウスのホイールを回すとタブが切り替わる。その他、ウェブページ表示領域の任意の場所にカーソルを合わせて、マウスの右クリックを押したままでホイールを回すと、その時にVivaldi上に存在するタブがサムネイル画像で出て来て、ホイールを回転させる事で表示するタブを決定出来る。HELPを見ると、他にも方法がある事が判ったが、それは覚えていない。こう言った機能は、タブを多数作ってタブの横幅が短くなって切り替えが難しくなった場合などに役立つだろう。そしてこの機能の欠点は、私の場合だけかもしれないが、自覚なく右クリックに触れた状態でホイールを回す操作をした時に、ページ表示が上下せずにタブが切り替わってしまう点だ。

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めたら朝の6時過ぎで、道理で明るい筈だと思いながらも、或る程度の雨音の激しさを耳にして、‘まだ梅雨だったか’と、己の不用意で前のめりな性格を愧じるのだった。 

 

 報道の自由なり、人権尊重の様子なりに関して外国の団体による評価で知るようになり、それらを自らが生まれてからの経験や認識と照らし合わせて、成程、どうも窮屈さを感じるなと思ったら、やはり現実として、年月と共に自由が奪われて行き、発言や表現に制限が掛けられて来たと言う事の様だ。と同時に、腐敗が進行して居る様にも見えるので、個人の人権や自由、特に言論や表現の自由と社会の腐敗には負の相関関係があるのだなと思う様になった。  

 

 他方で、こう言った何の事はない、取り留めのない文章を書いては公開する様になっている時は、私自身が色々と行き詰っている時であると言うのも、既に自覚している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨夜、非常に目が疲れてしまったので、視力が極端に弱くなったり、失明したりすると困ると思い、仮眠をとる事にした。結果、4時に目覚めてしまって、何の事はなく、睡眠になってしまって居た。  

 

 しかし、目の疲労が取れて居る訳ではなく、眠気も残っていたので、二度寝をする事にしたのだが、今度は眠れなかった。仕方なく起きて、あれこれと作業をする内に、クマルビと言う言葉を思い出した。ギルガメシュ神話に出ていた人か神だと思ったのだが、正確に思い出せなかったので、Webの時代でもある事だし、即座に調べてみた。    

 

 すると、それは膠着語であるフルリ語を話すフルリ人(Hurrian)の神の一つである事が判った。そして、そのフルリ人は、-1550~-1260にミタンニ(Mitanni)と言う王国をメソポタミア北部に建設し、維持して居たらしい。そして、クマルビ(Kumarbi)なのだが、それを含む神話(Hurrian mythology)はメソポタミア神話、ギリシャ神話と対応する様だ。  

 

 こう言った感じで、ふとした思い付きが起点となって、疲れた目が更に疲れたものの、膨大な調べるべき対象が出現した。メソポタミアの神話や言語、そして言語の分類法が言語類型論と言う学問で明らかになって居る事だ。正直、膠着語と言う分類の名は知って居たが、その他の言語について忘れてしまって居たし、上位概念も、何も解らないままだった。そして、印欧語族は屈折語なのだが、現代に於いては孤立語、膠着語化しつつあると言う事も知った。  

 

 また、これまで日本語は膠着語なので滅亡しつつある言語だと思っていたのだが、今回の事で、実際はそうではないのかもしれないと思い直した。人が話す言葉とは、必然的に膠着語化するものなのかもしれないのだ。その時々の数の多寡で何が正しく、何が間違いであるかとか、何が強く、何が弱いかを決めつけるのは浅慮でしかないと言う事なのだろう。  

 

 さて、Л.Н.Толтсой, «Круг Чтения»の翻訳は、6月18日分がもうすぐ終わりそうだ。非常に強敵だったと思う。実際は、強敵ではなく、私のロシア語能力を向上させる為に私が選んだ課題の一つに過ぎないのだが。そして、公開の方がかなり滞っているので、少しづつでも行おうと思う。

 

 

 

 

 

 

 Л.Н.Толстой, «Круг Чтения»の翻訳で苦闘する日々が続く。今朝、やっと6月17日分の番号2の文章を訳出出来た。昨日からずっと関わっていた文である。そして新たな一日が来たので、更に課題が増えたと言う事になる。  

 

 こういう状況になると、一点の疑いも出来ると思い込まないと危ない。己の運を信じるしかあるまい。

 

 

 

 

 

 

 目が覚めたら、雨だった。かなりの量降って居る。    

 

 インターネットに参加した際、それが早晩衰退し、滅亡すると思っていた私は、公開すればするほどどこの誰なのかが解り、特にそうなると日本の様な国では、生活や労働に支障を来すものを、何故ブログやSNSと言うものが存在して居るのかとも思っていたので、理由を知るには己が行うしかないと判断し、そのブログやSNSを自分でも行う事にしたのだった。 

 

 SNSは著名な合衆国発の2つのものを、そしてブログは、自分で一から構築する知識すらなかったし、今もあるとは言えないので、既存のブログサイトを使う事にした。そして、偶然の成り行きで、ここを主に使って居る。  

 

 さて、そのブログの方向性だが、目的が目的なので、まず書いて公開しようと言う何かが私には無かった。故に、インターネットに参加する以前から、字と文章表現の上達を狙って紙の上に書き続けていた、“日記”を書く事にした。抑々日記は公開すべき類いのものではないとは思うのだが、何せ書くべき何かを私は持って居なかった事と、書いて公開出来ればなんでも良かったと言う事で、それにする事にした。また、執筆時に公開しようと思って居たかどうかわからないが、モンテーニュのエセーなどもあり、執筆者の視線や主観で物事や人物を見て、それを文章に書き綴る事も良いかと思ったのも事実だ。即ち、 片片たる身であれば、それに相応した文章になり、巍巍たる人物であれば、やはりそれに相応した文章になると言う事だ。信念を持って虚偽を書き綴るのでない限り、長く書けば書く程、その人物が出る。後は、その人が世で上下すれば、それに相応して他人が勝手に毀誉褒貶を行うという寸法だ。  

 

 そう言えば、ブログ乙での記事更新が止まって居る。昨日の分まで紙の原稿を完成させていて、今日の分を作製途上で眠ってしまった。何せ、最初の年に日々に1個づつの文章を訳出して居たのが、今や最大で一日分が7個の文章になり、それが複数日分あれば、日毎に最大7個の文章がその日数分私の精神を押し潰しに来る。最初の年で言うなら、1週間分を日毎に訳して行くと言う事でもある。元々、忍者が雑草を飛び越えて行き、雑草が日毎に伸びて行くので跳躍力も日々に上げて行かねばならないと言う話が記憶にあったので、それをロシア語解釈の勉強に適応したのがブログ乙なのだが、Duolingoでの3年の程の修行があり、その年数だけ空白があると言うものの、我ながら無理をしていると思う。  

 

 しかし、数十年前に、地獄の底に叩き落されて、そこからもがき苦しんで脱出しようとして居た頃、或いは、常に放心状態で何をするべきかも明確になって居なかった頃に、そう言えば大学受験の時に英語の勉強を少しはして居たなと思いだし、全く勉強しておらず、特に会話の勉強も練習もしていなかったのだが、やってみれば何か打開策が出て来るかもしれないと思い、英検の1級を受けようとした事がある。しかし、いきなりは受けられないので、仕方なく当時はその下は2級しかなかったので、それを受けた。ただ、やはり会話の練習をしていなかったのが出て、2次試験で落ちた。その事が、或る意味私の自我を一面を成していると思ったので、Web上でも何度か言って来たのだが、それに対して文字通りの嘲笑をして来た者が居て、そう言うのも私のロシア語学習を推進させる原因になっていると言える。 

 

 地獄の底、破滅の時、幾つかの形容をして来た、今の私に至る決定的な時、出来事の影響、或いは支配から、今も脱出出来ているとは言えない。まだ完璧ではない。且つ、その後も時折悪に挫けていると思しき人々が出て来て、私に対して悪に挫ける様に唆したりする。先述した嘲笑も、そう言う意味では、私を怒らせて悪に挫けさせようとしているので、唆しと言える。他にも幾つもの人が現れては、その人の言葉や行動の態で、その実、悪から出て来た言葉や行動が、私を悪に挫けさせようとしている。故に、風に靡く葦の様な存在の私は、ならば神だけを風として、己を悪に挫けさせない様にするしかない。  

 

 さて、時に思い付いた質問を、Bing Chatに尋ねてみるのだが、この間面白かったのは、大抵、日本語か英語で答えて来るBingが、台湾の話題になって来たら、突如中国語で回答して来たので、ごく簡単な中国ならDuolingoで習得した事もあって、実際は正しいかどうか解らないのだが、说日本语,谢谢。とやったら、“私は日本語がわかるので日本語で訊いてください”みたいな回答をして来て、再び日本語でのやり取りになった事がある。Bing側が日本語の質問に中国語で答えておいて、まるでとぼける様な事を言って来たので、論調が首尾一貫して合衆国を中心としたものでもあり、どうもAIと言いながら、その実、人間が操作して居て、しかもその人物は台湾出身の中国系アメリカ人なのかと思ったのだった。その後、そう言う話題ではなく、ロシア語で表記された人物名が、どこの誰なのかを尋ねたら、フランス人であるものの、明らかな間違いを連発して来たので(母と娘が同じ年に生まれているなどと言ったもの)、やはりBing側が必要に応じて人間を使って回答を操作して居るのではないかと更に思う様になったのだった。  

 

 しかし、雨が酷い。海水から水だけ抽出して天から降らせてくれてるから、有難いと言えば有難いのだが。  

 

 そう言えば、昨日から6月だった。それについて書くべきだったのだが、書き始めたら忘れてしまって居た。6月と言えば、今年は6月6日に芒種、6月21日に夏至である様だ。何時頃からか6月から極めて暑くなる様になり、私が子供の頃には、夏の熱帯夜など数える程しか無かったものだが、ここ20年程は、夏になるとほぼ毎晩熱帯夜である気がする。周囲に水田があると、夏でも多少は涼しいのだが、雲霞が湧いたり、農薬を蒔く時に窓を閉め切らないといけないなど、色々と面倒だった事も思い出す。今では農村の夏はどうしているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 母が食事に使う食器に以前よりも小さなものを使う様になって久しいのだが、或る時、その器に入って居る物をより大きな器に移し替えたら、その料理の量が増えた様に見えた事があり、成程、これは李斯が若い時に厠と倉の鼠を比べて、 

 

人乃賢不肖譬如鼠矣、在所自處耳。 

                          史記巻第八十七李斯列傳第二十七 

 

と言ったらしい事と同じだと思い、物事を見た目で決めていると気付いて己の不明を慚じ、且つ、現代の世の中に如何にこの食べ物に対する器であったり、鼠に対する居場所であったりに依って、食べ物や鼠そのものを誤解して賤しく見たり、貴く見たりして居る人々が、自分も含めて存在して居るかとも思った。  

 

 また、人に注目すると、食べ物に対する食器や、鼠に対する居場所に対応するのは、その属性であろう。性別や年齢に始まって、才能だの、人種だの、民族だの、思想傾向だの、身分制社会に於いてはその身分だのと言ったものの事である。食べ物の量や質、鼠の存在そのものと同じく、人の本質は変わらない。鼠の本質はその居場所にありと断じた李斯の最後は、腰斬の刑であったではないか。本質を見誤ると、己の運命を誤ってしまうとすら言える。

 

 だが、恐らく現実の世界で生きたり、政治的な文脈で物事を判断していくには、李斯の考え方が正しく見えるのだろう。真実と誤謬を只管見分けて行く過程にではなく、優勝劣敗の法則が正しいと信じて行動して行く分には、李斯の考え方に従い生きて行く方が現実的だと思う。ただ、如何なる争いや勝負にも言える事だと思うが、勝敗は最終的には、闘争する二つの主体の正邪や優劣ではなく、運が決める。そして、勝った側が正しくて優秀だとなってしまう。即ち、闘争に依って真実を見極める事は難しく、その為の手法としては邪道であると言う事になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 Л.Н.Толстой, «Круг Чтения»を訳して居て、そこに論語の一節が出て来たのを契機に、大学を参考にする事になり、そこでそこに感ずる部分があったので、下に写し書く。 

 

 

堯舜率天下以仁、而民從之。桀紂率天下以暴、而民從之。

其所令反其所好、而民不從。是故君子有諸己而後求諸人。  

 

 

 誤読なのかもしれないが、この文章を以て、人に主従の関係がある場合、主である人がどうであるかで、従っている人又は人々を如何様にも出来ると理解した。つまり、主導権を握る人が人徳者ならその人に従う人又は人々は人徳を第一にして行動し、主導権を握る人が暴虐ならその人に従う人又は人々は暴虐を第一にして行動すると言う理解をしたと言う事になる。故に、従う人又は人々をどうして行きたいかに依って、主導権を握る人はどうあるべきかが確定し、また、主導権を握る人がどうであるかに依って、その人に従う人又は人々がどうなって行くかが決定するという主張があると見たのだ。  

 

 漢文は私にはとても難しく、ロシア語ばかりやって居る事もあってほぼ手付かずのままだが、日本語で何かを言ったり書いたりしようとすると、必ずそこから言葉を借りたり、そこに在る言葉から新たな言葉を創出したりしなければならない、重要な言語だと思って居る。

 

 

 

 

 

 

 今朝はやや涼しめで、晴れである。目が覚めて時計を確認してから、夜明けが随分と早くなった事を知る。梅雨が来て居ないものの、夏の様だと感じて居たのだが、涼しめなので春なのかと認識を改める。    

 

 己に鞭打つ様に、ロシア語の日本語訳に取り組む。利益や効率を誰もが尊重し、追及すべきだし、或いは崇拝すらすべきだと思われて居る様な時代になって久しいが、誰もがその様であると、人の社会は殺伐としていく、つまり、万人に対する万人の闘争の状態になるのではないかと思えるのだが、実際、そう言った事を標榜し、またそれが正しいと信じて行動している人々は、社会を混乱と互争に陥れようとしているのかもしれない。そして、私は利益にならず、効率も良いとは思えない方法でロシア語を日本語訳し続けている。組織にも属して居ないので、階級も役職も無い。抑々、初等の文法書に一度目を通しただけで、後はほぼ辞書とインターネット上の情報のみで何年もトルストイの文章を日本語訳している。  

 

 人々が利益の為に競争し、闘争して居る事のみが人間の行動原理になっていると言う、恐ろしい地獄の様な時代になってしまった社会で、その暴風に曝されて今にも消えそうな蝋燭の炎が、今の私が行っている行為なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

ロシア語  

 漸くにして、Л.Н.Толстой, «Круг Чтения»の5月分のブログ記事更新を暦に合わせる事が出来た。今後は、12月の分の残り、1月~3月の未更新の分を粛々と更新して行くのみである。 

 

VivaldiとBingGPT  

 Vivaldi Snapshotが現地時間2023年5月5日に6.1.3009.3に更新された。Speed Dialのタイルから右クリックを使って別タブでウェブページに接続する事は、これよりも以前の版で出来る様になったが、相変わらずアドレスバーにある、ウェブページをブックマークするボタンが機能しない。BingGPTで特定の語彙や語彙の組で検索そのものをしなくなり、事実上利用者の知る権利に制限を掛けてしまって居るのと同様、己に技術が無いとWebの利用も中々に不便ではある。故に、ブラウザに於いては、Chrome βを、検索に於いては相変わらずGoogle Searchを使い続けている。いずれも、熟成を待っているのだが、BingGPTはこのまま相当に制限の掛った検索エンジンであり続けるかもしれない。 

 

日記  

 一昨日辺りからやたらと雨が降り、昨日は終日と言って良い位に降り続けた。それも、相当に強い雨だ。南仏の方では相当に雨が降らず水不足だと聞く。この世は人にとって都合よく出来て居る訳では無いとは言え、不条理とはこの事かと改めて思う。  

 そう言えば、バブルの頃、やたらと土地の値段が上がり、他に錢の使い道は無いのかと思ったものだが、この最近は、やたらと学術の皆様が厳しい状況にある様で、そう言った皆様の人数の多さが、錢の多さや価値の高さと同様、相当に強みだと思うのだが、優れたものを多く持って居ても使い道が解らなければどうなるかと言う風にも見え、駄目なものは駄目かと思う様になった。    

 それで私はと言うと、そう言う優れたものとは比べものにならない有様なので、相変わらず、虚仮の一念でЛ.Н.Толстой, «Круг Чтения»の日本語訳に取り組み続けている。

 

 

 

 

 

 

 疲労だけがある。それで良いのかもしれない。 

 

 ChatGPTについて、最近少しだけ知る事になったが、その際に、自動走行車の事を思い出した。要は、道具は上手に使えと言う事なのだろう。 

 

 或るいは、それは形を変えたセーフティサーチなのかもしれない。私はどのブラウザに於いてもセーフティサーチを使って居ない。また、SNSでもキュレーションを行っているものの使用は出来るだけ避けている。 

 

 Л.Н.Толстой, «Круг Чтения»のブログ記事だが、漸く4月に空いた2つの穴の内、一つを塞げた。もう一つの穴を塞ぎ、1月から3月の記事を公開して行かねばならない。行っていく積りだ。