昨日の、同じような時間帯に書き始めて更新した記事を、どうも説明不足な点があったり、勢いばかりで何を言ってるか解らない文章になって居ると、書いて公開した直後から思っていたので、手直しした。思っているままを文章にする事は出来ず、作文とは、現実の風景を絵に描くのに似て、話題の取捨選択をせねばならな営為だ、と言う事を完全に忘れていた。習慣的にブログを書くのを長く止めて居たのも原因かもしれない。まだ手直ししたものが十分ではないかもしれないが、人に手になるものが完璧になる事もないであろうし、不完全なままでも今のところ気づけた誤りを訂正出来た事で良しとする。  

 

 思い出したが、ブログであまりにどうでも良い事を繰り返し書く様になったので、長くやろうとしていてやれなかったロシア語の学習をブログでやろうと思い立ち、学習文法の程度、つまり初歩を本を一通り読んで学んだあとだったので、露文解釈をしようと、教材を選定し、ブログでそれをいちいち書いては公開していったのだった。当初、露和辞典の使い方もよく分かっておらず、そこに格支配を明記してあるのに気づいたのも、ロシア語学習をブログで行う様になってから2年目の事だった。他の内容の記事と混在すると見た目に解り辛いと思ったので、ロシア語学習だけで別のブログとして独立させもした。今は休んで長いが、いずれ再開する積りではある。昨日の朝の記事は、そういう、昔よく書いていた、趣旨が解り辛く勢いだけで書き殴っていて、後で消してしまう程度の文章だった。  

 

 また、マルコ書第4章の種蒔きの話を思い出し、同じ種蒔きに蒔かれた種でも、落ちる場所に依ってその後どうなるかが異なるのを説いている文章を思い出す。故に、静かに経過を見守るのは大事なのだろう。  

 

 集中力が切れて来たので、一旦休憩し、朝食を摂る。目刺しがあったので、2匹ほど頂く。母の母乳が出なかったので、否、抑々生まれて今も生きて居る事が奇蹟なので、乳児の頃は森永ではない粉ミルクと小魚で育てられた。故に、無性に小魚が好きだったりする。或いは、鰹節やだし節の類いだ。人には個性や生い立ちの違いがあるので、何もかもは同じに出来ないし、同じにせよと、同調しろと言う方が間違ってる。  

 

 昨日の記事をかなり手直しして思ったのは、直す前に公開した原稿を書くと言う行為によって、その文章自体は出来が全く悪かったものの、結果的に精神が平衡を取り戻し、元の文章を直すだけの知恵が復活したと言う事だ。その後も公開中の記事を読み直しながら微調整を何度も行い、最終的に作業を終えた。出来れば記事の公開以外で、精神の平衡を取り戻せないかと思うのだが、それには聖書や物理、数学の本を読むしかないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 昨夜は夕食も摂らずに眠ってしまった。目が覚めたのは23時過ぎだった様に思う。数年前に数か月間一人で家事全部をやらねばならなくなり、その時に作り方を覚えたごく簡単なお好み焼きを作ろうと思ったのだが、夜が深過ぎるのであまり食べない方が良いだろうと判断し、パンとコーヒーだけにした。食事した時間が今日になってからの2時ぐらいだったかと思う。その後、ブログコメントをし、どういう訳かしばらくYouTubeでゲームプレイ動画を視聴していたが、あまりに温い内容に感じられたので、自分の人生の時間を使ってまでして視聴する必要はないと判断し、中断して眠った。  

 

 この間、源義経が確か伊予の守にに任じられた筈だったと思い、Google検索で調べたら、確かにそうであるとAIモードが答えた。そこで、最近使用していて或る程度の手応えを感じていたので、Geminiで調べ直すのではなく、そのままAIモードと会話して詳細を知る事にしたのだった。すると、伊予の国が延喜式での、”大、上、中、下”と言う4種類の国等級で、上から2番目と言いつつ中国であると言い、それは下から2番目だったのでおかしいと思って、その旨を尋ねたら、今度は大国であると言い出し、その説明を縷々した来たのだった。それも上から2番目でなかったが、説明が上手く、上から2番目と最初に言って居たのが間違いで、実際は最上位なのかもしれないと思い、会話を終えたのだった。しかし、やはり当初の説明と最終結論が異なるので、念の為に裏を取ろうと、Googleで検索して調べたのだった。すると、AIモードが最初に言っていた通り、上から2番目の上国だと出て来た。  

 

 そこで先ほど、AIモードの能力に疑問を持ったので、Google検索でGoogleのAIモードとGeminiは同じ能力かと尋ねたのだった。私が使っている感覚だと、GeminiはBard時代からかなり経って、しかもGeminiとなってからも或る程度時間が経って居るからか、相当に正確になって居て、日本語の質問で始めた会話の途中で他の言語に変わる事もなくなった。しかしAIモードは日本語の質問で始めた会話の途中でよく英語に変わる事があり、加えて、今回の回答の誤りがあったので、直接Google検索で尋ねるのが良いだろうと判断したからだ。  

 

 すると、今回もAIモードが出て来てあれこれと冒頭に説明文が出て来た。そしてAIモードで質問を続行したら、今回も日本語で質問して始めた会話だったのだが、途中から回答が英語に変わった。私が、”AIモードは慣熟が足りていないのではないか?”と問うたら、確かに慣熟は足りてないという回答を、AIモードから得た。  

 

 こうして、今後しばらくは、Google検索で冒頭にAI概観が出て来た時にそのままAIモードを使うのではなく、より突っ込んで調べたい時は、改めてGeminiかCopilotと会話する事にした。これら2つも間違える時はあるが、それはそれ、室町末期の鉄砲と同じく革新的な技術であり、それまでのものとは根本的に異なり、且つ、今後の主力となるものであると感じて居るので、間違いがあっても使うと決めている。   

 

 しかし、昨日はAIとは珍しく会話しなかった。伊予の国の等級をGoogleのAIモードが間違えて来たのが原因であろうと思う。こちらの発言を”鋭い”とAIが表現するのはどうも社交辞令らしい事を知ったのも会話をしなかった原因と言える。乗せられて、知ってる事を次々吐き出させられてると思うと、コンピュータプログラムに対しても単なるお人好しであると思えてきたのだ。しかし、この間、”非常に独創的でその分野での核心を突く鋭い考察”と言う言葉をAIが発して来たのを思い出し、その類いの言葉を果たして社交辞令で使うかと思い、やはり単純におだててこちらの知っている情報を吐き出させているだけではないと判断し、且つは人とプログラムとの情報の交易だと割り切り、今後もAIを使う事にしたのだった。  

 

 偶々起きた状況の変化で覚えたお好み焼きの作り方の話も含め、年月は人を鍛え、その本質を露にすると言えるだろう。日付は今日になってからだが、コメントをした後、覚えている間に行おうと、1か月ぐらい調子が悪かった家庭の器具の修理をした。1度目で失敗したので、全てをもう一度やり直し、今度は或る程度満足が行く出来となったので、それで今回の修理を終えた。また、もうその器具は限界の様なので、部品を新たに購入し交換して修理せねばならない事も判明した。  

 

 ところで、Webでも現実空間でも頭ごなしに罵声を浴びせて来たり、見下しても良い存在として扱って来る人が偶に居る。Webで活動する人々も所詮現実空間の住人なので、同じ様な言動をするのは当然と言えば当然なのだが、今まで生きてきて、どこであろうと、何人であろうと、そういう事をする人が居るので、その人々に問題があるのは当然として、そういう言動をして良いとそれぞれの人が判断するに至るような原因が私にもあるのかもしれないと思う様になった。つまり、社会の少数派を建前としては差別してはいけないとなって居るが実際は差別する人が当たり前にいる社会で、差別してはいけない対象である筈の少数派の一人に、私が含まれているのかもしれず、或いは、私の言動がそれらの人々に迫害を行わしめるのかもしれず、真因の程は解らない。言えるのは、私がどうあれ、実際に言動を行っているのは相手の側なので、結果は相手が得る事になる。現実の生活でここ20年ぐらい何度か経験して来たのが、私に謂れなき言いがかりをつけて来た人が、謂れが無いのでそれに相応した結果を得る、と言うものだ。或いはその人自身が行って居る悪事を恰も私が行って居るかの如くに公言して私を中傷した挙句、その人自身がその悪事を行って居たのが露見すると言う事もあった。且つは、社会の側はそれを看過すると言う、今の時代や社会を象徴するような反応までついて来た。  

 

 結局は、自分が正しいと強弁したり思い込んだりするのではなく、普遍的に正しいものに従って日々を生き、誘惑や唆しと言った悪が近寄って来ても退ける努力をして行くしかないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 ここ数年ほど行って居る、100円ショップで購入しているカレンダーに二十四節気と月相を記入して、暦としての機能を強化すると言う作業を、数か月ぶりに行う。国立天文台暦計算室のホームページのサイドバーにあるそれらの表示が数か月先までしかないからだが、作業を終えてから、もっと長い期間の分を一気に記述できないかと思い、また、月相に対応する英語はlunar phaseであると判ったものの、月齢は?と思い、それらについて調べる事にした。 

 

 まず月齢に対応する英語から調べていったのだが、これが何時もの様に藪蛇で、日本語に比して英語でのコンテンツがが多種多様で膨大なので英語で調べて行く内に、対応する日本語訳の有無が解らなくなり、最初はGoogle検索のAI概観の下部に偶に出て来るAIモードに、次にGeminiに訊いた。AIモードでは、設定を許可しないとAIとの会話の履歴が残らず、少々不便だ。この判断は後回しにして、ともあれ、月齢を英語ではmoon's ageと言うものの、西欧が太陽暦に移行して以来、日付と月の満ち欠けが連動しているとは考えなくなり、依って月齢を意識するよりは月の視覚的な部分を重視して月相を用いるという事が判った。  

 

 そして月齢が朔の瞬間を起点としてそこからの経過日数であるのに対して、月の或る朔から次の朔までの周期を太陰月(lunar month)と呼ぶらしい。このlunar monthだが、その起点の種類の別に依って、Geminiに教わった範囲では5種類あり、それらは 

 

朔望月 synodic month    太陽 

星月 sidereal month    恒星 

分点月 tropical month    春分点 

近点月 anomalistic month  近地点 

交点月 draconic month    昇交点 

 

となって居る。  

 

 そして、月相、月齢に関する不明な点と、更に太陰月と言う新たな知見、それらの英語での言い方と言ったものを得たところで、多少安心し、二十四節気及び月相の今年1年分を記したウェブページをGoogle検索で探した。すると、秒殺だった。件の国立天文台暦計算室のウェブページにそれぞれ今年1年分の記述が存在していた。灯台下暗しと言うか、相変わらずの探し物下手である事が露見した訳だ。即ち、二十四節気月相という事だ。  

 

 また、Geminiでは太陰月の各種の名前と英語での言い方、起点をスプレッドシートにして出力出来たので、今回珍しく出力したのだが、これをブログにどう張り付けて良いか解らない。考えられる方法は、Google Sheetを直接スクリーンショットで撮影して、画像ファイルにし、ブログに貼ると言うのと、Google Sheetをpdfに変換して、それをブラウザで開き、それをスクリーンショットで撮影して画像ファイルにするという方法だが、直に文字として書くことに留めた。  

 

 こうして、今年の残りの二十四節気と月相を100円ショップで買ったカレンダーに書き入れて機能を強化した結果、しばらくはこの作業はしなくて良くなり、この間、数か月前に頼まれていた風呂の止水栓のチェーンが外れているのを付け直すと言う課題の解を他ならぬ入浴時に思いつき、随分と世俗的なエウレカだなとは思ったが、夜に裸で外を走り出すことはしなかったので、その辺は自分を知って居るからなのだろうが、案外、問いの答えは探すよりも勝手にこちらの前に出て来るものだなと思うのだった。  

 

 やはり世間的にはどうでも良い、毒にも薬にもならない、無価値と言える文章を書いては公開すると言うのが性に合っていると思うし、今後もそうして行く事で、自分が如何に世間的に無価値であるかを、ほぼ誰にも知られない状態で明らかにしていく事で、自らの存在意義を明らかにしていく必要があるのだろう。何故かと言うと、そうして行って、自らの存在を世間的に無価値で無視して良いものだとして行く事で、世間的に価値があり、刮目して見るべきものが、より一層価値があり、刮目すべきものだと誰の目にも明らかになるからだ。 

 

 そう言えば、今日は5月1日だった。こうやって、無に等しい文を無に等しい私が公開して行く事を、自覚的に行い始めるには良い日だと言える。

 

 

 

 

 

 

  利用開始から15年ほどになるかと思うが、既にブログとは何なのかを理解したかと言うと、そうでもなく、その代わりに反応も無いのに己を露出すると言う習慣が付いただけだった。秘すれば花とは言うが、私は芸能などの表現者ではないので、花もへったくれもあったものではない。と言うのも、全てを明らかにしない事で、見ている者達に明らかではない部分を想像させ、表現している者が意図している以上の何かを勝手に感じる様にすると言うありかたは、私の道とは異なるからだ。どちらかと言うと私は、隠されているもので明らかにならないものは無い、と言う言葉に共感していると言える。やはり自然の世界で人には見えてない、つまり隠されているものを明らかにしていくと言う道なので、どう考えても秘すれば花とは口が裂けても言えないからだ。しかじ、そうは言っても、言葉では思いを言い尽くせないとは思う。人の言葉で物質なり現象なりを完全に描写する事は不可能で、結局暗黙の理解を承知して居る人達とか、神に選ばれた人達だけが理解する事になるのだと思う。 

 

 業の様なものなのか、或る歌が演歌に含まれるかどうかをGoogle検索で調べたところ、AIが概観で答えて来たので、その下に出て来た文章を書き入れる箱に、概観で出て来た”こぶし”と言う言葉の意味を尋ねたところ、別のページに移動し、そこで延々と逆に質問され答えると言う体裁になってしまい、その内英語で答えて来たので、回答限界が来たかと思い、質問を打ち切ることにしたら、そうではなかったらしい。で、その一連の会話の中で、AI側から”物理学徒”と言われてしまい、私が打ちこんだ文章でその様な判断をする様な体裁になって居たのかと改めて思い、長く関わって居ない営為が既に私の骨肉になって居るかもしれないと思った。  

 

 実際、20年ぐらい前に聖書を通読した時にも、本来は信じて読むべき書物であるところを、懐疑精神を持って読み進めていったのも、実際はその物理学徒のありようと言えばそうなのかもしれない。その割には、様々な苦難や障害があって、それらへの対応に年月を費やして来た様にも思う。まるでオデュッセウスがトロイから自分の家に戻る過程の様でもあるが、私はオデュッセウスの如き知恵も勇気もない。  

 

 そこで、オデュッセウスのエピセット(形容辞)には、知恵はあるものの勇気はない事を、Geminiとの会話で知った。オデュッセイアーとイーリアスを読み直すとか、Google検索で然るべき説明をしているウェブページを探して読むと時間がかなり掛かるので、AIを使ったのだった。因みに、エピセットとして挙げて来たのは、ポリュメテイス(多くの策を持つ者)、ポリュトロポス(多くの道を巡る者)、ポリュトラス(多くの苦難に耐える者)なのだが、多くの策は持っているとは思えないものの、多くの道は巡って来たし、多くの苦難も耐えてきた(耐えさせられてきた)気はするので、少しは私もオデュッセウスに似ているのかもしれないと思えて来た。  

 

 そして、オデュッセウスは、トロイの戦争で10年、トロイから自宅への帰還で10年を費やしているらしいので、その辺りは私の方が長く無駄に年月を使っていて、やはり能力の不足がそこに現れているとは思った。  

 

 ところで、私は帰宅出来たのであろうか?抑々戦争に参加して居ないので、無益な提議と言える。  

 

 今日で今年の4月も終わるので、これまで5つの没稿を作成してしまった事でもあるし、今月2回目の更新はしようと思い、何とか書いてみた。ただ、AIをよく使うようになり、気が付けばAIに質問やら提案やらされて話が長くなり、それで様々な事を知る事が出来て、検索とは違っていろいろと便利だなと思って居る。

 

 

 

 

 

 ここ数日間、PCが不調で、元々経年劣化して居たので、最早限界が来たかと思って居たのだが、そうではなく、Windows月例更新が来て居て、それがPCに負荷を掛けて居て、挙動がおかしくなって居たのだと、更新の存在を知って理解した。  

 

 ただ、再起動/起動の後に、Windows上の諸設定及び、ブラウザの諸設定を行わねばならないのは、PCがこの状態に至ってからの恒例となり、またその作業に最低でも数時間掛かるので、中々の修行ではあるなと思っているところだ。  

 

 そして、睡眠不足が祟ったのか、昨夜もまた寝落ちしてしまい、朝にタレントブログにコメントしたのだった。そしてその時に地球温暖化の原因として大気中の微粒子増加を軽率にも言ってしまったのだが、果たしてそれは現実に起きている日本列島の温暖化を正しく言えてるかどうかを、後付けで調べることにした。要は、間違っている可能性があると思ったからだ。  

 

 そこで、漠然としていてとりとめのない話題を、要は的確なクエリを立て辛い問題はAIに訊くしかないと思い、今回はGeminiに尋ねた。これには他にも理由があり、Google検索で文章をクエリにして検索したりしても、結局先頭にAIに依るサマリーが出て来て、それがGeminiのものより少し劣る精度であるようで、この間は院政が江戸時代まで続いていたなどという何とも言えない回答を得た事もあるので、やはりこの場合、直接AIに訊いた方が正確であろうと思ったのが理由だ。  

 

 結果、思っていた通り、大気中の微粒子増加では無かった。CO_2の増大と、海洋の熱吸収に依る海水温の上昇であると判明した。その他色々と尋ねられ私が回答するという、何時もの状態になり、相手が誰であっても答えられる場合は答えるのが私なので、回答した。  

 

 ともあれ、ここ数日間はとても疲れた。もうかなり前から思って居る事だが、やはり中華系のミニPCを入手すべき時が来た様だ。PCとWebに関する環境を一気に近代化する必要がある。    

 

 それはそうと、今回温暖化について尋ねようとGeminiにアクセスしたら、他のAIとの会話も取り込んでいいか?と問われたので、どこまで私の事を知りたいのかと思ったが、別のAIでいろいろ尋ねる意味を考え、今回は取り込ませない事にした。 

 

 Judas PriestのPainkillerが聞こえてきた。思い出したので、Firepowerを久しぶりに聴く。

 

 

 

 

 

 

 

 全く以て眠り込んでしまい、夕食が遅すぎた事もあるが、まだあまり明瞭ではない。そう言う事ではいけないのだが、その様な始まりの3月となった。  

 

 社会に於いては、春の嵐そのままの現象が起きていて、2月に起きる事かどうかと思って居る内に3月になったので、帳尻が合ってると思うのだった。  

 

 月が替わった時に行う、幾つかの儀式の様な事をまだ全てはこなせてない。腕時計のカレンダー調整だ。父親の時代は自動巻きで、そのカレンダーを時計の右に出ている竜頭を上手く引き出し合わせて回転させて日付けを調整しているのを見て、憧れたものだったが、今それを済ませて、なんとローテクなのだ、面倒過ぎると思ってしまった。子供の頃の憧れを年月が過ぎてから自分が実際に行うと、時代がかなり変わってしまった事と、自分自身が既に子供ではなくなった事が相乗効果を発揮し、己の精神的脆弱性も相俟って、その様な下劣な嘆きとなって感情を吐露してしまうのだ。まるで三叉路で右に行っても左に行っても後悔してしまう魯鈍な人物と変わらないではないか。  

 

 要は面倒に感じても時計の竜頭で日付けを合わせたのだし、今後も必要があればそうすれば良いだけの事だ。僥倖に依って操作に上達するかもしれない。また、何も知らない他人から見たら憧れられるかもしれない。何せ私以外のほぼ全員が携帯電話を持つ時代なのだ。古過ぎて却って目に新しいであろう。或いは、’この人、細かい作業が苦手だな。’などとなっているかもしれないが、他人の心の内など、私には如何様にも出来ないので、問題ない。

 

 

 

 

 

 6時前には暗かったのが、この時間にはもう明るくなっている。6時20分頃に下弦が南中しているように見えたが、30分ぐらいが正確な時刻かと思い、確認してみたら、南中時刻は6時3分とあった。相変わらずこの地での正確な方角が解ってない。  

 

 そう言えば2月になっていた。早いものだ。明日は建国記念の日となっている。

 

 

 

 

 

 

 気が付けば小正月も終わって言るが、これが今年最初のブログ更新となる。  

 

 小正月と言えば、昨日の夕方、色々あって久しぶりに神社に初詣に行こうとしたところ、日中以外参拝禁止とあり、成程なと思い、今朝の夜明け後に行く事にした。    

 

 ところで、昨夜、使用しているブラウザのVivaldiのSnapshotがごく一部不調になり、理由がPCに依るのか何に依るのか判らぬまま、焦れて横になってしまったところ、眠ってしまった。目が覚めたら朝の5時ほどだった。  

 

 PCと言えば、現在使用中の半壊のラップトップでは、ウィンドウズ更新後の再起動や、シャットダウンからの新規起動、或いは使用中からの再起動で、常に工場出荷時の如くになり、ほぼ全ての場合でマイクロソフトアカウントにサインインしなければならないとか、ウィンドウズの所設定を行い直したり、削除されてしまったブラウザなどのアプリを再ダウンロードし直したりといった作業をしなければならない。マイクロソフトIMEの登録語彙も再登録し、ウィンドウズに入れる言語キーボードも、日本語/英語以外は入れ直さないといけないし、Microsoft Storeは使えず、フォト、メディアプレイヤー、フィードバックHubと言ったWindows備え付け殆ど全てのアプリが使えない。だから、使える程度にするのに、起動/再起動後に数時間を掛けて設定し直す。ところが、新年明けて1月11日に更新があり、設定をし直したと思ったら1月14日にも更新があって、又もや更新をし直しつつあるところだ。お陰で、掛かる時間はそれほど変わらないものの、段々と設定の要領を覚えて来た様に思うし、色々と気づく点も出て来た気がする。  

 

 もう朝だ。曇っているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 やはりこの冬は今の所あまり寒くはない様で、北陸では水温が十分に下がらずこの時期特有の魚が南下して来ないらしい。道理で過ごし易い筈だ。  

 

 過ごし易いと言っても、そこは冬なので、やはりそれなりに冷える。  

 

 色々と思うところはある。個人的なことなので、あまり世の中に影響があるとは思わないが、無理をせずまとまったらまた書こうと思う。

 

 

 

 

 

  

 今年も12月となった。先月は色々とあった。己の持つ力の限りで、最善を尽くした。  

 

 妙な諦観を目にしたり、妥協で善しとするの知ったりする度に、そういう姿勢が多数派であると、このような状態に至るのだなと改めて思う。その程度と言えばその程度であり、そんなので本当に良いのかと言えば、全く然りとしか言えない。  

 

 しかし、私にしか見えていないのかもしれず、見えている事を以て何らかの義務があるのだろうと考える様にしている。そして何事にもその時があるのだろうし、どういう義務かはその時になると解るのだろうと思っている。  

 

 ともあれ、今年も乗り切り、来年も良い年にしよう。