暑い日々が続くようになったものの、段取りが悪く麦茶を切らしてしまい、割高になるものの生水よりは良いと思い、雁金を淹れて冷蔵庫で冷やしつつ、急いで麦茶を買いに行った。  

 

 暑いと言っても、まだこの地に来て以来の夏の定番の室温である40℃以上にはなっておらず、その割には給水量が多いので、暑さに慣れていないのかと訝しく思いながらも、茶というと、”喫茶養生記”と言う本があったのを思い出した。  

 

 ただ、その筆者を懐奘であると思っていたのが、どうにも年月に依って記憶が変容したのだなと、調べた結果思った。つまり、”喫茶養生記”の筆者は、(明菴)栄西であって、(孤雲)懐奘ではない。そして、懐奘は”正法眼蔵随聞記”の筆者である。  

 

 こうして暑くなったせいか、やたらと水分を補給するようになった結果、高校生の時に読み、あまり意味が解らなかった”正法眼蔵随聞記”の筆者の名前と、20歳前後にその存在を知りながら、高齢になってから読んだ方が良いなと独り決めにして以来、今もって読んでいない”喫茶養生記”の筆者の名前を知る事が出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 何も書くことがなくとも、日々に更新しようと決めたのだった。と言うのも、まだブログが何かをよく知らない時代に、使うことで知ろうとして書いて居た頃に、そういう形で更新し続け、まるでSNSの様にほぼ無意味な短文で投稿していた時代もあったのだけど、続ける内にその”意味”を自分の中で見つけ出して書く様になって行った、と言う経緯があるからだ。しかし、自分自身に変化があったのか、なかなか続かない。無意味なことを続ける内に意味が出てくるのだから、無意味なことを行うのは意味があるのだが、時間をうまく作り出せない。努力する。今日はその第一日だ。  

 

 まあ、誰もが気付いていることだと思うが、いろいろと社会が面倒になってきた。もう核のある時代だということはすっかり忘れ去られているようでもある。文明の時代になってから、と言うのもそれ以前の時代のことはよく判らないからだけど、それほど社会が発展して行って無いと言う事なのかもしれない。過去に行ったことを再び行ったり、新たな事を始めた積りになって、どうしようもなく陳腐な同じ事を少しだけ名前変えて行っていたりと、そうそう、人類の進歩ってそういうことだよね、と納得してしまうようなことばかりだ。  

 

 こういう時代には、やはり周囲に合わせて自分より偉い人の気持ちを忖度しながら、なんて事をしていたらあっという間に流されてどこかへ行ったり、一巻の終わりになったりするので、或いは自分だけ責任を負わされて悪の張本人みたいにされるので、やはり自分の中に原理原則を持って、それに忠実に生きる方が安心安全だと思う。どのみち、偉かろうが偉くなかろうが、完璧な人など居ないので、自分であろうと他人であろうと、人に頼ったり盲従したりするのが間違っているのは明白だ。

 

 

 

 

 

 

 中高生の頃、狭い自分の部屋の模様替えをしたらどうかと思って、何度か行って居た頃があった。行った直後は決まって、’これまでとは違ってとても素晴らしい配置だ。’などと思って居たものだったのだが、数日後には、’ああだめだ。不便だ。’と思ったり、母が近所から迷信を聞きつけ向きが悪いとか言い出したりとかで、結局元々の配置に戻すのだった。その部屋の置かれた場所と窓の開いている方角、広さ、何を持っているかに依って拘束が掛かり、最適解は大体決まってしまい、それを模様替えの前に既に実行して居た事になる。  

 

 ただ、一連の模様替えが無駄だったかと言うと、そうではなく、やはり一度、または何度か実際に模様替えをして、現在使用中の配置が最適かどうか確かめる必要がある。現実の経験こそがものを言うからだ。そして、よほど己の智謀に自信があるとか、そこまでの余裕がない人の場合は、推論を行ったり、架空での配置換えを行うべきなのだろう。個人の部屋の模様替えに関して、何等かの分権があるとは思えず、あったとしても、条件が異なり過ぎて自分の部屋には使えないだろうから、これは除外した方が良いと思う。  

 

 毎日更新する筈が、またもや間が空いてしまった。やはりロシア語の翻訳を復活した方が良いのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 5月になった。  

 

 ブログを毎日更新するといったものの、なかなか実行出来ないでいるのが不甲斐ない。しかし嘆いているだけでは気分が鬱屈するだけなので、出来る時に更新していく。内容はその内出来上がっていくかもしれないし、中身のない記事が連続していくだけかもしれないが、小学生の時に図書室の伝記を全巻読んだ時の事を思い出し、行為をしたという記憶だけは残るかと思って行うことにする。  

 

 今日はその内容が必ずしもあるとは言えない更新の第1回ということになる。尤も、内容の有無は書く人が決めるのではなく読む人が決めるのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 半壊状態のPCを使っているので、起動や再起動をする度にMS IMEの登録語彙を入れ直したり、MSアカウントにログインし直したり、デフォルトで使っているブラウザを入れ直したり、と言った事をいちいちしなければならず、Windows更新があり再起動となったので、それをこの月末行ったりして、いろいろと不便を被った。  

 

 しかし、Webで使うPCを使い始めてから失敗続きで何度もファイルを全消滅させたりしては、その度に対策を講じて来て、結果として失敗に対応できるようになってきたのと同様、今回の突如の半壊にも、なんとかかんとか対応出来るようになってきた。飲み物をノートPCに2回も大量にぶちまけて以来、‘そんな失敗、私はしない。’と決めつけていた失敗を次々として来ているので、今回のもその一つだぐらいに考え、手元に残った手段で何とか切り抜けるつもりである。  

 

 そういえば、2日前は朔だった。もうこういう“朔”などという語彙の変換順位の決定もいちいち最初からやり直しだ。登録語彙は文書ファイルで残しているので何とななるが、どういう変換をするかは一から教育し直さないといけない。根気の居ることではある。  

 

 PCに限らず、失敗を重ねる度に、諦めずに何とか切り抜ける事で活路が開けていくのだろう。切り抜けるも活路が開くも同じ意味だとは思うが。  

 

 そう言えば、いま頭の中に流れている曲は、水木一郎歌唱の”ハカイダーの歌“だ。そう、なんでも壊してしまう気持ちで、様々な難局に対し解決していこう。

 

 

 

 

 

 

 昨夜は雨だったが、今朝も曇っていて小雨が断続的に降っている。気が付けば樹の緑が目に鮮やかになっている。春の色になっていたのだ。  

 

 色々思う事はある。しかし、長い目で見ると悪は潰え正義は栄えている様に思う。抑々生まれた時からあれこれとあったらしい私が今まで生きて居た事自体が奇跡だとも言え、考えようによっては何等かの課題があって、それを果たすまでは生かされてるのかもしれない。     

 

 私がWebに参加して以来の15年ほどの間でも、随分と時代が変わった。精神的に疲弊し燃え尽きてしまっていた私に対して更に迫害をして来る人々も居たが、年月と共に静かになって行った。原因は様々だ。或いは居なくなったり、或いは行為を止めたり。そして今後も悪は退けられていき、正義は栄えていくのだろう。  

 

 盛者必衰とはよく言ったものだ。如何なる者も奢ってしまう様になると、あとは滅亡が待つばかりだ。故に、この理を知る者は常に慎み謙虚であろうとする。権勢を笠に着て人を人とも思わぬ事をし続けていると、時の試練に依って権勢そのものが衰え、寄って立つものが無くなって、遂には滅ぶ。  

 

 私の見るところ、既に時代は変わった。違う時代に移行したのだ。ただただ徳を積んでいくしかない。

 

 

 

 

 

 ロシア語の翻訳を行う前にやって居た事がある、日々の更新をやろうとしては居るものの、中々上手く行かない。中身が無くなったり、同じ事を何度も書く可能性があるものの、書く技術が確実に上がるので、やった方が良いと思っている。故に、何とかすぐにではなくとも、日々に書ける様にしていく積りではある。何より、書く為の主題を探す様になると、半ば強制的に物事を探求する様になる。私の性格上、自由放任では碌な事にならないので、やはり義務を自分に課した方が良い。  

 

 ともあれ、事情あってまたもや徹夜明けの様な感じになったが、まだ生きては居るので、書く。

 

 

 

 

 

 

 この期に及んで若干の冷気を感じたので、やはり春は侮れないなと思うのだった。月は少し欠けているもののまだまだ丸く、若干の冷気に月とは、まるでまだ冬の終わりか春になったばかりの頃ではないかと、行きつ戻りつの有様が、まあ人もそういう時期にはそんな感じか、と妙な納得をするのだった。  

 

 目が覚めないので、2杯目のコーヒーを飲む。悪い事ばかりではないと、まるで誰かの歌詞の様な言葉を思いながら、いや、良い日にするのは自らだ、否、神が全てを決める、などとまとまらない考えを行う。  

 

 これまで必要以上に管理出来ていたのが異常で、本来それほど徹底的には管理出来ないものなのであり、それ故、その時の地位や状況に左右されず、己の立ち居振る舞いを正しく保つ事が重要なのだと、この最近よく思う様になった。極端に管理出来ていた時代は、鍍金も剝げなかったが、今では普通に剝げてしまう。当たり前だ。見せ掛けは所詮見せ掛けに過ぎないからだ。そして、結局は己が剝き出しになるので、如何に己を作り上げていくかが重要となる時代になったと言える。  

 

 以前の常識では不可能だった事も、これからは不可能ではなくなる様に思う。必要以上に厳格に管理されていたものが、本来のあるべき姿になれば、当然、人々によって不可能とされていたことが、実際は可能であるとなる場合があるのは当然であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに寝落ちした。PCが半壊して以来、あまり眠れて居ないからだろう。しかし、何時迄もそういう状態ではいけないので、ひとつづつ問題を解決していくしかない。起動なり、再起動なりする度に、MSアカウントに入ったり、ブラウザを入れ直して一から設定していったり、必要な言語キーボードを入れ直したりと、色々と手の掛かるPCになってしまったが、まだ使える間に何とかしないといけない。  

 

 Webを利用するPCを使う様になった初期には何度もストーレッジに酒造しているファイルが全部消えるという経験をしたものだが、或る程度の年月を経て、またもや似た様な経験をするとは思わなかった。原因は、去年の2月頃のWindows更新だったと思うのだが、タスクバーが消え、その後数か月でフリッカーが起きる様になり、今年の2月にタスクバーが復活し、少々挙動がおかしいものの以前のように使える様になったこのPCのハード又はソフトにどこかおかしい点があるからではないかと思っている。最初からExcelが起動し辛いし、何かが変だ。去年2月だったかのWindows更新で異常がより明確になったのではないかと推測している。  

 

 しかし、ともあれ、使える間に何とかしないといけない。起動の度にMS IMEの登録語彙まで入れ直さないといけないなんて、とてもの事に耐えられない。  

 

 そういえば、今朝は久しぶりに冷える。といっても室温計だよりなのだが。道理で昨夜は冷えたはずだ。面倒なので少し横になってしのごうとしたのが良くなかった。連日の寝不足もあって、想定外の寝落ちとなった。  

 

 しかし、良い事もある。入れ直さねばならなくなったVivaldi Snapshotなのだが、リロードボタンが復活した。否、これまでリロードボタンと思っていたものがそうではなかっただけなのかもしれないが、ともあれこれで使いやすくなった。そして、自分で作成しているVivaldiのテーマを保存する様にもなった。PCのストーレッジに収蔵していたファイルの内、直近の3年分ぐらいが消失してしまったので、以前の様にファイルをほぼ直後に外付けストーレッジに複写する様にもなった。矛盾して居る様だが、便利さを滞りなく享受しようと思うなら、面倒な事を疎んではいけないのだった。規模が大きくなったり、商用であるなら、有償で他の人とか組織に頼むところだが、何せ個人が単に私用で使っているだけなので、ほぼ何もかもを自分でしなければならない。そんなに張り詰めた使用は出来ないので、データの重複性を向上させる為にPCを複数、そしてNASが欲しいのだが、それには私自身が更に面倒な事をしなければならない。便利さの追求をすればするほど不便になっていくのだから、よく出来た話で、永久機関が存在し得ないのも納得出来ようと言うものだ。  

 

 この数年程で、更に冷静さを取り戻したのか、或いは単に世の中が単純で緩くなって来たのか、実際、この何年間で思考力を要するゲームが世界中で敬遠される様になって来たらしいし、何か昔に言われいてた幾つかの事が、やはり正しかったのかと、半ば感心、半ば納得する事が多い。しかし、だからと言って、あれこれと焦って態度を急変する必要もなく、精神は泰然としておくのが良いのだろう。己に不動の部分があって初めて様々な変化に対応出来るからだ。  

 

 そう言えば、猫を見た。何時もの事だが、彼等は私を見る。私も彼等を見る。そういう関係だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 大体直近3年間分の、PCに収蔵していたファイルが消え、アプリの多くも使えなくなり、言語キーボードも日本語と中文だけが残る様になった。しかも、再起動の毎に、同じ状態に戻り、砂上の楼閣の様なPCになってしまった。以前タスクバーが消え、それから数か月でフリッカーが起き続けるようになった頃は1か月分の日記のファイルが消えただけだったが、今度のはWebで使えるPCを使い始めてから久しぶりのデータ消失量で、最初、PC+Webがセキュリティの意味でもデータ保存の意味でもあまりに脆弱なので、完全に紙に戻るかとも考えたが、修復作業をする内に、と言っても専門知識がないので外部ストーレッジに残していたファイルと、もしもの為にクラウドに残していたコンテンツ分類表等の最小限のファイルをPCのストーレッジに移すだけだったのだが、やはりPC+Webを今後も使い続けられる様に努めるかと思い直したのだった。 

 

 ただ、再起動の度にロシア語の言語キーボードを入れ直さないといけないのは痛い。  

 

 しかし不思議なのは、ずいぶん前に何度か経験したデータ全消失の時の様な絶望感やら怒りやら悲しみが湧かない事だ。精神に若さがなくなり、鈍くなってしまったのだろうか。或いは、精神的な耐久力が増して動じなくなったのだろうか。その辺は判らないが、時間がある程度経過した後に喪失感に襲われたなら、前者なのだろう。  

 

 解決策は、新たなPCの購入しかない。この15年程の模索で出来上がった使用法に耐え得る機械が必要だ。ほぼ全てのPCのストーレッジがSSD化した今となっては、長寿命のPCは期待出来ないが、已むを得まい。人間からレプリカントになったと思えば良いのだろう。