母が食事に使う食器に以前よりも小さなものを使う様になって久しいのだが、或る時、その器に入って居る物をより大きな器に移し替えたら、その料理の量が増えた様に見えた事があり、成程、これは李斯が若い時に厠と倉の鼠を比べて、 

 

人乃賢不肖譬如鼠矣、在所自處耳。 

                          史記巻第八十七李斯列傳第二十七 

 

と言ったらしい事と同じだと思い、物事を見た目で決めていると気付いて己の不明を慚じ、且つ、現代の世の中に如何にこの食べ物に対する器であったり、鼠に対する居場所であったりに依って、食べ物や鼠そのものを誤解して賤しく見たり、貴く見たりして居る人々が、自分も含めて存在して居るかとも思った。  

 

 また、人に注目すると、食べ物に対する食器や、鼠に対する居場所に対応するのは、その属性であろう。性別や年齢に始まって、才能だの、人種だの、民族だの、思想傾向だの、身分制社会に於いてはその身分だのと言ったものの事である。食べ物の量や質、鼠の存在そのものと同じく、人の本質は変わらない。鼠の本質はその居場所にありと断じた李斯の最後は、腰斬の刑であったではないか。本質を見誤ると、己の運命を誤ってしまうとすら言える。

 

 だが、恐らく現実の世界で生きたり、政治的な文脈で物事を判断していくには、李斯の考え方が正しく見えるのだろう。真実と誤謬を只管見分けて行く過程にではなく、優勝劣敗の法則が正しいと信じて行動して行く分には、李斯の考え方に従い生きて行く方が現実的だと思う。ただ、如何なる争いや勝負にも言える事だと思うが、勝敗は最終的には、闘争する二つの主体の正邪や優劣ではなく、運が決める。そして、勝った側が正しくて優秀だとなってしまう。即ち、闘争に依って真実を見極める事は難しく、その為の手法としては邪道であると言う事になる。