TikTokの動画を見て居たら、背景の音楽に使われていたAdoの“Show”と言う曲が気になり聴く様になった。YouTubeで公開されている動画では、10月16日現在で歌詞無しで約1000万回、歌詞付きで約3660万回再生されている。そして10月19日現在では、前者が約1000万回、後者が3800万回再生されている。あまりYouTubeでは見た事が無いのだが、日本の曲で再生回数が1億と言うのを見られるかもしれない。そして、そうなるとグラミー賞を取ったりするのだろうかと、漠然と思う様になった。

 10月も既に4日となった。昨日の早朝の室温が30℃を切り、今朝もそうなったので、10月になった事だし、漸く暑さから解放されたかという思いがある。  

 

 Л.Н.Толстой, «Круг Чтения»の紙原稿作成は速度が落ちたものの、進行している。また、10月になり、新たな年度になったと言う事で、今年度は以前も書いた様に、7番の記事まで翻訳して行く積りだ。 

 

 変化の時代にある事を日々に思う様になった。故に己の最も中核に在るものを全く動かさない様、努めねばなるまい。

 

 

 

 

 

 

 Л.Н.Толстой, «Круг Чтения»の7月分、8月分の内、7月20日の文章の翻訳に随分と手間取ったものの完成させたので、昨日一気に9月2日分から4日分の翻訳を終えて、9月1日から9月4日までの記事と、6月1、2日分の記事を、昨夜から今朝に掛けて公開した。 

 

 今後、暦通りに9月分の記事を作成しつつ7月分、8月分の内で欠落している合計4日分を完成させて行き、更に、1月から5月までの記事を作成して公開しつつ、既に完成させている6月分の記事を公開していきたい。

 

 また、8年前の10月から始めた事でもあるので、今年の10月からは各日付けの7番までの記事を翻訳して公開していく予定だ。勿論、その日付けの記事に7番までしか無ければ、存在している番号までの記事を公開して終わりと言う事になる。 

 

 ただ驚いたのは、6月分の記事を改めて紙原稿からWordに書き写していく段階で、どうも上手くない翻訳を見つけて、それを直して行った事だ。3カ月前の段階では、それで精一杯と言う翻訳をした積りだったのだが、今となってはそこでの誤りを正せるほどになったと言う事なのだろう。やって居る事はロシア語の文章を見て、不明な単語を辞書で調べて、日本語にして行って居るだけなので、3カ月前も今もやって居る事は変わらないだけに、不思議な感じはする。もしかしたら、同じ事しかして居なくても、自分自身が変化していくと言う事なのかもしれない。  

 

 ロシア語の学習以外にも色々と書きたい事はあるが、今回はここまでにする。

 

 

 

 

 

 

 Л.Н.Толстой, «Круг Чтения»の各日の6番までのロシア語原文を翻訳する作業も、7月はあと3日分、8月はあと2日分となった。6月は既に全て作成を終えているので、あとはWordの原稿を作ってブログで公開していくだけだ。 

 

 9月以降の分に関しても、各日に関して、存在して居れば6番までのロシア語原文を日本語訳して行こうと思う。何せ、ロシア語の能力が低く、週末の読み物も全く訳せて居ない位なので、無理をしないのが好いと思っての事だ。また、この期に及んで、まだ訳出に苦労する場合があると言う事もある。

 

 

 

 

 

 

 

 ブログ乙で行っているЛ.Н.Толстой, «Круг Чтения»の翻訳の紙原稿作成が或る程度進捗したので、まだ行って居なかったブログでの公開を一部行った。ただ、8月の分と比べて、5月の分は2カ月ぐらい前に翻訳しただけあって、生硬さが目立つ。ただ、だからと言って手直しして居たら、際限なく時間が掛かると思われるので、今回はそのまま公開する事にした。  

 

 今後は、既に紙原稿が完成している6月分の全てと、7月分の22日分のWordファイルを作成した上でブログで公開しつつ、暦に則った紙原稿作成とWordファイル作成を行い、ブログで公開していくのみである。  

 

 私は、ブログで何を書いたかを忘れて、同じ内容の記事を書いて公開するのが嫌なので、時に記事を全削除する事があるのだが、そうやって消した記事の中で、確か、移動中に読む本を出発前に探していたら、偶々目に入ったのが佐藤純一の“新ロシア語入門”だったと書いた筈だ。その後、その本を最後の読章を除いて読み通したので、露文解釈の本を探し、そこでめぼしい物が無かったので、Л.Н.Толстой, «Круг Чтения»を選び、訳出し、それをブログで公開すると書いたと言う記憶がある。結果、辞書の使い方が解る様になったのが2年目の終わり頃、どうもよく解らないとそれから3年位Duolingoで学ぶ様になり、それからまたЛ.Н.Толстой, «Круг Чтения»の翻訳に戻ったと言う経緯があるのだが、その際に、私が行っているロシア語学習方法は、テニスのビヨルン・ボルグが行っていた壁打ちテニスの様なものだと書いた様に思う。結果、7年目の今年に於いても、2か月前の日本語訳が拙いと判る程度に慣れた。無駄ではなかったと言う事なのだろう。

 

 

 

 

 

 NECのPC98だったかPC88用に出ていた、当時、光栄と言う名前だった会社が出していた、”水滸伝・天命の誓い“と言うゲームの音楽の内、ゲーム内で季節が冬の時に掛かる曲を今朝になって思い出し、あのゲームではその曲が最も印象に残っているなと、改めて思ったのだった。そして、そのゲームを始めると、それまでの光栄のゲームと違って、春からではなく冬から始まると言う事も思い出した。また、そのゲームは、プレイヤーが操作するキャラクターが生きて居ても、或る年になると金が攻めて来て宋を滅ぼしてゲームが終わってしまうと言う形式であった様に思う。  

 

 私が水滸伝を読んだのは、上のゲームをプレイしてから何年も経ってからで、しかも日本語訳のみなのだが、まず金聖嘆が著した70回本であり、次が駒田信二訳の120回本だった。つまり、最初に成立したらしい100回本は未読である。  

 

 しかし、何故その水滸伝のゲーム音楽を今朝になって思い出したのだろうか。無意識に望むものが本質だと言うなら、何かその曲に似たものを私が望んで居るのかもしれないし、その曲に象徴される何かを感じ取っているのかもしれない。  

 

 ところで、前も書いたかもしれないが、平凡社の中国古典学大系のハードカヴァーと、同じ内容をソフトカヴァーで出したものを比べたら、前者の方が経年変化に強い様だ。ページの紙質には違いが無いようなのだが、後者はページが外れる場合がある様に思う。平凡社の本に限らず、何度も読む事を考えると、やはりハードカヴァーの方が良いのだろう。ただ、時代的に、紙の本ではなく電子書籍を選んで、それが長く保存出来る様に環境を整える方法を考えた方が良いのかもしれないが。

 

 

 

 

 

 

 

 今日は下弦である。月の南中が5時半位なので、ここから先、昼頃の月の入りまで、晴れていれば西南の天に月が見える筈だが、今の所当地では曇って居るので、月は見えない。七夕に晴れる事は珍しいらしいので、それからそれ程離れていない今朝もやはり例年この様なものなのだろう。  

 

 そう言えば、徳と言えば史記に記されて居る舜を思い出す。あれこそが理想なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 暑くはなって来たものの、まだ蟬は鳴いていない。  

 

 変化に対応する私の能力が問われていると、改めて思う様になった。変化は常にあるものの、それに私が気付いておらず、たまたま気付ける程度に姿を現したので、対応を急いでいると言うべきか。  

 

 思い起こすと、Webに参加した頃は、変化が激し過ぎて全く手の施しようが無かったのだから、少なくとも私の対応力は向上しているのかもしれない。  

 

 そう言えば、主に使うブラウザをChrome betaからVivaldi Snapshotに戻せる様になって以来、Vivaldiのテーマの色の設定を変えてブックマークやノートの整理をし易くしたり、ブックマークの分類に手を加えて、不要なものを捨て、必要なものを加えて、と言った事を、行える時に行う様になった。  

 

 今後、あるべき使用形態になって行くのだろうし、して行くのだろう。 

 

 陽射しが勢いを増し、眩しさすら感じる様になった。正に夏の朝である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今朝になって寝落ちから目覚め、あれこれと作業をする内、Vivaldi Snaphotのversion 6.2.3070.3が出て居る事に気付き、早速更新する。そして割と長い期間、更新する度に確認して来た、アドレスバー内のブックマークボタンが機能するかどうかを確かめた。すると、漸くブラウザがシャットダウンせず、以前の様にブックマークが出来る様になった。Twitterで色々あって、Webの利用方法を変えようとしていただけに、この修正はとても有り難い。Chrome betaが、ウェブページ上のコンテンツの一部を、右クリックを使って検索を掛け様とすると、必ずサイドバーを開いてそこで検索する様になったので使いものにならなくなったのだが、今回の更新でVivaldiに戻れる様になった。元々Vivaldiを主に使っていただけに、とても有り難い。全く感謝しかない。

 

 

 

 

 

 

 7月になって一度公開した記事の手直しをして居る内に、抑々無用なものだと思って削除してしまったので、これが7月最初の記事となる。  

 

 便利だと思い、カレンダーに二十四節気と月相を書いた所、確かに私が必要として居たものだった様で、かなり見易くなった。目立つ様な色のマジックを持って居ないので視認性はもう一つだが、情報が何より大事だ。  

 

 また、これまでのPCとWebの利用の経験で得たのが、そこに在るものの代謝が激しいと言う事と、特定のものだけに頼ってはいけないと言う事だ。故に、PCとWebの利用に於いては、常に代替物や写しを用意し、突然使えなくなったり、消えてしまったりする事に対応出来る様にしておかねばならない。本体はあくまでPCとWebであり、それらの上に在るものは全て次々と変化していく客体に過ぎないと言う事である。依って、客体の変化に惑わされず、主体を正しく使うべく心掛けなければならない。  

 

 そう言う訳で、基本に立ち返り、Vivaldiのブックマークを整理する様になった。そして、幾つかあるRSSリーダの購読をより機能的にして行かねばなるまい。  

 

 Л.Н.Толстой, «Кргу Чтения»の翻訳は、暦に合わせる為、間を空けて訳す事にした。これまでの6年間の作業に依って解ったのは、たとえ完璧でなくとも、少しづつでも訳して行けば、後に繋がると言う事だった。故に、決してあきらめず、間が空いたとしても作業を止める事は無い。