ここ数年、悪夢と呼んで良いのかどうか判らない程度の何かに取り憑かれた様になっていて、今朝も目が覚めた布団の中で気づいたら同じ現象に囚われていたのだが、その時に、ヨブ記を思い出し、最終的には神が義しい事に改めて気づき、そこでその何かを解決出来た気がする。故に、もうその何かは出て来なくなるか、出て来ても何等問題は無くなるだろう。

 

 しかし罪深いのは、人を黄泉の国に陥れる主体だ。これを悪と認めるべきか否か。だが、何より己に邪悪が入って来ない様に常に心掛けなければなるまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブログ乙で行って居るロシア語の翻訳を休止して長いが、それ故に生活のリズムが大きく狂っているかも知れない。しかし、過去にも精神的に疲弊して色々と遅れを生じたことがあるので、私は所詮その程度の人間なのかもしれない。  

 

 ブログ甲も、更新しなくなって久しいのだが、何時までもそれではいけないと思ったので、何も書く事がないからこそ、その何も書く事がない事を書くぐらいの気持ちで、ブログ開始当初の、“意味の無いことを書く”と言う精神に立ち戻り、公開してどれほどの意味もない、個人の日記程度の内容を改めて書こうと思う。意味のあること、有意義なことは、そうあるべきであると考えてる人々が行なうだろうし、明確な目的がある人々が行なうだろう。私が無意味で、無内容で、無目的なブログを行なうことで、そういった有意義で、内容があって、目的が明確な人々の発信がより際立つであろうし、そう言う意味で私の発信には意義が生じるというものだ。  

 

 また、書いている内に何を書くべきかが決まる事もあるだろう。何度目かの挑戦をすると言う事だ。 

 

 久しぶりに更新したことで、ブログの体裁を忘れてしまったか、設計が変更されていたかで、“管理トップ”になかなか行けなかった。新たな気持でブログを行えそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今朝は少々寒冷である。  

 

 目に見えるものに左右されがちで、目に見えないものを恐れがちな自分自身に叱咤激励せねばなるまい。否、元々己が弱い事を認めて、出来る事から行うのだった。  

 

 早くも2月が終わりそうだ。但し今年は閏年なので、例年よりは1日多い。  

 

 改めて、自分に出来る事からやって行く、と自分自身に言い聞かせつつ日々を生きると覚悟する。

 PCが不調、と言うか部分的故障で、恐らく経年変化なんだろうけど、タスクバーが消えてしまって、スタートボタンなども機能を停止してしまった。それも、この間のWindows更新以降の事だ。  

 

 タスクバーとその辺りの場所にある様々なものを復帰させる方法についてあれこれと調べてみたものの、まだ試して居ないので、上手く行くかどうかも解らない。  

 

 ただ、あまりに突然だったので、当初精神的動揺があったのだが、何日か経て少し落ち着いて来た。PCとWebに頼り切る事が自分にとって良いのかどうかは解らないけど、使う事で文章が上手くなって来た気がするし、世の中の実際の所が或る程度見える様になって来たので、PCとWebを使える環境を維持したいとは思っている。  

 

 そう言えば、この回が今年2月最初の更新になる。言語キーボードも切替えられない様になったので、ロシア語で文字を打ち難くなったが、それに対する応急処置的な対処法としては、予めGoogle Input Toolsをブラウザにインストールしておいて、ロシア語のキーボードを使える状態にしておいて、Google DriveでDocs上にロシア語の文字を書いていくと言うものを思い付いた。そして更に気付いたのは、Google Input Toolsでロシア語キーボードを使える様にしておいたら、半角ではロシア語、全角では日本語を、そのブラウザ上では打てるようになると言う事みたいなので、必ずしもGoogle Docsの上でキリル文字を打たねばならないと言う事では無い様だ。 

 

 そして、こう言う状況になると、過去にPCが壊れて来て使えなくなって来ても、ギリギリChromeだけが使えて何とかしなければならない事をこなせてきたのを思い出す。Appleのマシンの事は知らないが、WindowsのPCは事実上Googleが無いと大変に困ると言えるかもしれない。 

 

 また、ТолстойのКруг Чтeнияの翻訳は長く止まったままだが、準備が整い次第再開する積りだ。  

 

 ところで、世間、又は社会に於いては、今年1月1日の能登半島の大地震以来、更に混乱が各方面で起きて居る様に思う。ユーラシアではそれ以前からのウクライナでの戦争に加えて、ナヴァルヌイ氏の死亡があったり、中東ではイスラエルに依るガザ侵攻があったり、日本では自民党の裏金問題が発覚して、それが長期にわたり根深いものがある事が判ったりと、他の地方や国での事も併せて、余程自分を見失わない様にしないといけない様になって来たと言える。 

 

 また、1月1日の地震発生後に知ったのだが、能登半島では2020年12月以降に群発的に地震が発生しているらしく、そう言った、私にとっての新しい知識の増加や増え方と言った意味でも、私のWeb参加以来、特に2011年の東日本大震災以来、私にとって激しい変化が続いていると言ってよい。  

 

 しかし、繰り返しになるが、混乱と言っても良い変化の中で、自分自身を見失わず、様々な邪悪を自らの中に入れず、善徳を積む様心掛けて行きたい。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 言葉は、その長短でではなく、本質的であれば良く、そして言葉の本質とは、そこに作為や改変の類いが無い事だと私は思っている。また、物事は生まれた瞬間が最も本質的であって、そこにその物事の全てが凝縮されていると私は信じている。  

 

 故に、邪心や余計な欲を持たずに、ただただ生きる様心掛けようと思っている。

 

 

 

 

 

 

 夜明け前、まだまだ暗い時間帯に西の天の低いところに明るく丸い月を見つけたので、改めて暦を確認したら明日が望であった。  

 

 Web利用に次第に慣れて来た頃、普段では見えない様なものが見えると思って居たものだったが、この最近、様々な出来事を知るにつけ、Webがそう言う媒体だと言う訳では無く、社会そのものが変化の時代に入り、それまで続いて来たものの中で廃れるべきものが廃れていき、新たに生じるべきものが生じつつあるのだと認識が変わって来た。  

 

 実際、この地に来て以来、Webではないと言う意味での現実の社会でも、そしてWeb参加以来はそこに於いても、私に色々と為したり言ったりする人々が、後にその趣旨が間違って居た事を自ら明らかにする事が何度も起き、出は何の為に私に対して為したり言ったりしたのか、寧ろその人々自身の誤っている点を自ら明らかにする為なのかと思っていたのだが、もう少し引いた所から考えると、個別の人の誤謬と言う意味合いではなく、社会に於いてそこに適応した人々が、それまで通りの基準を私に当て嵌めて、批判をしたものの、既に社会そのものが変化して来て、その基準自体が陳腐化していた事を、そう言った人々の言動を通して私の目の前に明らかにして居たのだと思う様になったのだ。  

 

 そして、今後も、“まさか”と言う事が起きて行くのだろう。正に変化の時代である。

 

 

 

 

 

 

 何気なく、偶々SNS上の投稿で目に留まった初等幾何の問題で、頭の中だけで考えても解らないものがあったので、実際に計算する事にして、それを何時もなら紙を出してボールペンで書いていくのを、紙を出すのが面倒なので、一度、全部PC上でやってみようと思い、まず数式をWord上でTEXを使わずに書いて行った。しかし、これでは図形無しで記号だらけなので何の事か解らないと思い、図をWindowsアプリのペイントで描いてみた。図形を描く内に、やっぱりマウスでは一気に幼稚園児位の作画能力しか発揮出来なくなり、文字も左手で書いたかの様な素晴らしい出来栄えとなってしまった。故に、ペンタブとスタイラスが必要であると、改めて思ったのだった。  

 

 翻って考えると、やはり紙と鉛筆やボールペンと言う組み合わせは、かなりの高機能であり、柔軟性、汎用性があると言う事になる。不便になって初めてそれまで何気なく使っていた物が極めて高性能である事を知ったと言える。

 

 

 

 

 

 

 新たな年が明けて9日目となった。敢えて書く事など無いのだが、ブログとは何かを探ると言う目的で、ここでブログを書く様になってから気付いた、‘何も書く事など無くとも、書いていく内に書きたい事が出て来る。’と言う事を思い起こし、取り敢えず書く事にした。

 

 ただ、長い間続けていると、どの人、どの団体が、どう言ったものなのかが或る程度見えて来て、”ああ、成程。要は、社会と言う大きな池にブログと言う小石を投げる度に、水面に波紋が出来て居るんだな。“と思う様になった。水の粘性、組成と言ったものも関係するだろうが、或いはどう言った小石を、どういう具合に投げるかによって、己の望みの波紋を作る事も可能だと言う事だ。ただ、私は今の所その様な工夫をして居ない。  

 

 私の目が良く見える様になって来たのか、それとも世の中がその様になって来たのかは解らないが、見たくないもの、見えてはならないものが目に入るようになった来た気がする。今年も情け容赦なく、始まった時からよく目に付く。しかし、そう言った泥沼にこそ蓮は咲くのだった。自暴自棄になって己も泥になるのではなく、そこに蓮として花を咲かせる志を持とう。そして、言葉は行う事に依って実を持つ様になる。勇ましかろうが、清らかであろうが、言葉だけでは空虚であり、虚妄であるとすら言える。邪悪を退け、正義を顕彰しよう。

 

 

 

 

 

 

 目覚めるとまだ夜が明けて居なかったが、寒暖計を見て10℃ほどだったので驚いた。外気温はもっと低いであろうので、漸く冬になったと言う感触を得た。  

 

 12月になってこれが最初の投稿だった。特に感慨はない。およそ12月とは思えない温暖な日々が続いてきた後、漸くそれらしい気温になったので、季節が変わったと言う実感を書き留める為だけに、更新したと言う事になる。

 

 

 

 

 

 最早11月も中旬となった。そして、室温が一気に下がったのだが、その割には寒さを感じない。但し、こうやってキーボードを叩いている手は悴んでいる感覚があるので、体は冷気を感じて居る様だ。  

 

 鳳にせよ、不死鳥にせよ、私の精神世界には、何かと鳥が出て来る様だ。  

 

 長く書いて居ないと、無駄にあれこれと細々した事を書いてしまい、無駄だと思って消してしまい、結果的に時間だけが過ぎてしまう。紙の上で文章を書いて居た時は、線を引いて消していたので、電子ファイル上のドキュメントでもそうすべきなのだが、何故か消してしまう。寧ろ、消してしまったものの方が価値があるかもしれないのに。  

 

 いずれにせよ、これから冬なのだろう。耐え抜いた先に春が来る。