踊るアホぅで喜怒哀楽・2 -15ページ目

【昭和の町の仕掛け人】昭和の町~とり合えず最終回


必殺仕掛人 登場!

昭和の町は新しい歴史の波に埋もれる寸前だった。化石になる予定の町を、再びこの世に残した人がいた。この町の市長ではない、一人の商工会議所のおいちゃんだ。名前を金屋(かなや)さんという。この町で生まれ、この町で育った血統証付きの町の人だ。


金屋さん
写真はインテリ風だが、鉄のように熱い男である。

この人が昭和の町を作ったといっても過言ではない。市は過疎化に嘆いていた、嘆いても人口の流失は止まらず、財政が安定するわけではない。そして市には金がなかった。収入を得る方法はたくさんあるのだが、この町ではその選択肢が限られる。市や商工会議所など一丸となってアイデアを模索した。


金屋さんは、やはりこの土地が金を生むのだと考えていたらしい。なぜか、図書館にこもり古くからのこの町の地図と今の地図をずっと見比べたらしい。


そこにひらめき電球


今となれば恐ろしい妄想だ、と言っていたが昭和の初期の地図と平成の今の地図と、この町はほとんどかわらなかったらしいのだ。(恐ろしい事だ)その時は、少しレトロへの風が吹いている頃だったらしい。金屋さんは自分なりにその妄想を膨らませて企画書を作った。何かのきっかけでこの町に人が訪れてくれれば、この町を評価してくれる人が多いはずだ!他に案がない、市もそれに飛び乗ったし、うまいこと旅行会社もその話に乗ってきた。なんとかこの企画を進める事ができるというまでに2年を要したという。


だが、もう一つ難関があった。主役は商店街、そして町の店主たちだ。町の店主達は、猛反対であったそうだ。森川の大将も。『静かに死なせてくれい!』が町の声だ。また、こん町に目玉がなくては商店街に人なんか来ない!そう決め付けていた。このような反対の声は金屋さんは予想した上で事前に手を打っていた。『集客!』をするのに、おもちゃ博物館を町の真ん中に作るということだった。レトロを回想させるにピッタリのアイテムであり、この町はその舞台が揃っていた。しかし、コレクションもその道に精通している人はこの町にはいない。そこで第一回に登場した小宮館長の登場(小宮館長の顔はこちら→駄菓子屋の夢博物館 )なのだ。小宮さんはこの町に来る前は、福岡は太宰府市で同じくおもちゃのコレクター兼博物館をしていた福岡でも有名な方だった。この小宮さんを金屋さんは三顧の礼で迎えたらしい。本人は三度どころの話じゃないよといっていた。


私が、この町にきてこの商店街の方々とであったのは4年前、このおもちゃ博物館はその直前に完成したという。だから足掛け3年ぐらいの話しだった。その話しを金屋さんが語り始めるともう話が止まらない、声がでかいので嫌でも脳味噌に焼きついてしまう。夢を語る金屋さんの話を聞いているとこっちまでうれしくなってしまう。金屋さんが、「少し臭くないですか?」というが、私はそんなに気にならない、「?」と聞くと、最近あんまり家に帰ってないし、風呂も入っていないということだ。忙しさは半端ではないようだ。


人の数より猫が数が多い故郷をなんとかしたかった、とういうのが本当の金屋さんの想いだ。その想いは、たくさんの観光客がコロッケを片手に歩いているという現象に結びついた。変な箱物をつくることをせず、町の本当の財産で直球勝負をした金谷さんは少し誇らしげだった。金屋さんは空いている時間は、町のボランティアとしてもガイドの仕事をしている、街を知り尽くした人ではないとできない仕事だ。町に行くと金屋さんの美声も聞くことができる。


私の方はといえば、昭和の町の品物やパンフレットを、自社のお客様に送ることができとても好評だった。私たちの事業を通じて、お客様からの問い合わせもあったということでそれもうれしかった。キャンペーンの食品企画を練っている時に大盤振る舞いをしてくれたのが、あの昭和のコロッケの金岡社長だった。「●●さんのところの商品を一番買ってくれた人、一人にすき焼き用の豊後牛を1kgプレゼントしてあげるよ」(ウヒョ~!)とのうれしいプレゼントに、私たちのキャンペーンも上々でした。商品発送の際に、余分なスペースがあれば、大分産自慢のカボスを隙間に入れて発送した。箱を開いた時の香りがとても良かったとの評判だった。大分のものをふんだんに取り入れた企画に思いのほか満足できた。かかわってくれた人の全員が笑顔だったからである。


年末の企画だったのだが、発送は年明け1月中旬まで続いた。終わった後に改めて、商店街や商工会議所にお礼に出向いた。そして郵便局からは、急激に伸びた郵便物の発送量に感謝状もいただいた。(狭い町なので)それもこれも、全て、町の人のおかげである。そして、商工会議所の金屋さんからは、うれしい一報もいただいた。「昭和の町で、情報発信をする『昭和の新聞屋』を●●さんやってみませんか? 通りに小さな店舗の空きがあるんですが、そこで町の情報の発信や●●さんの得意な通信販売をやっていただいていいんです。各店舗の主人は、それができないので●●さんで、まとめてやって欲しいのです。奥さんと一緒にこの町でやりませんか?」とのことだった。


∑(゚Д゚)・・・・


(≧д≦)  (≧д≦)  (≧д≦)  「うれしい」


確かにそうなのだ。この昭和の町には、土産品を合理的に注文・配送するシステムがないのである。店売り以外にも、年金的要素の高い売上システムが必要なのだ。それに昭和の町ブームはいつか終わりが来るからだ。残されるのはほとんどが高齢の店主夫婦ばかりである。


しかし、私は断腸の思いでお断りした。今の勤め先で3ヵ年の事業計画をつくり、まだ2年目だったため途中で抜け出せなかったのだ。通信販売のシステムを作る際には、手弁当で参りますという約束をしてお話しはお断りした。今でも、昭和の町をテレビで見るたびに、皆な元気でやっているのだなと安心する。今、1年間に町への取材は500~600件ぐらいあるそうだ。昭和の町以外の人も、たくさん店を出すようになり少し様変わりしているようだった。しかし、この先の壮大な企画を金屋さんからは聞かされているので基本が狂うことはないだろうと思う。


この豊後高田市以外の町でも熱意ある人たちによって、町が再生しているところはある。昭和の町の前に高知県の山奥にある人口1,300人の村に伺ったことがある。そこでも、とんでもない村の再生が行われていた。この村でも、たくさんの事を教えていただいた。杉の木と柚子しかない村の伝説である。夜、地元の地鶏をご馳走になりながら農協の専務理事さん(この村の立役者)と土佐鶴を飲み交わした。「大分にも『昭和の町』というのがあるので、ぜひ近くに来たときには寄って下さい」と話していたところ、本当にやってきた。大分に講演の仕事があったらしく思い出してくれたらしい。この方の影響もあって、私は昭和の町に一歩踏み出したのだ。


町は変化があっても良いと思う、近代的なものもあって良いとも思う、ITだって大歓迎だ。しかし、変わってはならないと望むものは今までに出会ってきた人たちのように、自分の生まれた町を誰よりも愛し、自分の生まれた町の人たちを家族のように思う心だ。これさえあれば何の問題も起こらない、問題は自分たちで解決できるのだと思う。今ニッポンは解決できないことが多すぎるる。

 「~のために」と、考えることがなくなったのだ。


スキンを変えるきっかけにより、多くの思い出を引き出すことができた。独りよがりの部分も多かったが、私の尊敬する方々よりコメントもいただいたこともあり、私の脳内ホルモンは溢れっぱなしである。「なにわのおっさん」様、「oumiclininc」様、「詠仙人」様、「ultraman1959」様、「中嶋」様、コメントありがとうごいました。

 また、いつか頑張る人たちをご紹介させていただきます。




まず、「脳」の活性化からはじめよ!

ファッションから「農」活性化、東京で農作業服ショー

農作業のファッションから農業を活性化させようと「アグリファッションショー」が25日、東京・大手町で行われた。披露されたのは、日本ニットウェアデザイン協会主催の「アグリ2006ファッションコンテスト」応募作1121点から選ばれた入賞作7点。

主催はこちら社団法人日本ニットウェアデザイン協会   入賞作品は→コチラ  

しかも、後援は農林水産省


・・・農業に興味を持たせることは良いことであると思う。


 しかし、何だコレ?


 体のいい売名行為と、新人デザイナーの発掘場なのか?媒体も「農」を活性化するなどと大見得切ったもんだ。世界初のアグリファッションショーらしいが、こんなもの考え出すだすのはニッポン人くらいだろう。農作業の服は麦藁帽子、開襟シャツ、地下足袋もしくは運動靴だ。シンプルで軽く、日差しに強く、汗の乾きも早い。

ちなみに開催主旨は以下の通り、

「日本の就農者は現在約220万人、2015年には少子高齢化・若者の農業離れの影響で150万人に減少すると予測されています。その中、農水省の農政改革では2015年、輸入食品に頼らない「自給自足45%」へ向けての人材確保・育成を掲げており、若者の就農率向上は急務です。JAKDAでは世界初の「アグリファッション(農業をする時のファッション)」の確率を提案します。ファッションにより農業イメージの向上により、若者が真剣に農業従事を考えるようになる。イメージの変化により、より多くの人が農業に親しむストーなライフスタイルにもつながる。機能性とファッション性を兼ね合わせたアグリウェアを募集する。その結果、ジーンズのような新しいファッションのジャンルが生まれるかもしれない。そして法人企業や農業学校のファッショナブルな就農ユニフォームの開発や、商品化を行い、少しづつ農業の環境を変えていく。そうすればファッション業界にも多大なメリットをもたらすだろう」(全文掲載)


農水省もこんなイベントに補助金出すよりも、もっと真剣に考えれば、税金の使い道があるだろう。農水省さえもあまり危機感は持っていないと伺える。若者向けのユニフォームならば、ヴィトンやプラダとやらの有名ブランドにデザインさせれば注目度はだんぜん変わりますよ。それ以前の問題でしょうが。新規就農への取り組みにしても各都道府県には受け入れ態勢やプログラムは整っていないでしょう?新規就農者は、列を作って待っている状態じゃないですか?私は農業のイメージはあまり変えないで良いと思う。自然が相手だけに過酷だから安易に取り組んで欲しくない。作った野菜何個分の利益でそのデザインユニフォームが買えるか試算をしてみるといいですよ、気が遠くなるはずです。


ごめんなさい。ハッキリ言います。ファッション業界には恩恵はありません。

親の顔も見てみたいよ

 カナダであったか21歳の父親が子供の熱が下がらないということで冷凍庫にいれてしまったらしい。現在、幼児虐待・育児義務放棄などの罪で公判中とのことだ。遠くの国カナダでのことだが、私たちニッポン人も笑えない、CMなどでもよくある【紙おむつ】。紙おむつメーカーはお母さん方から問い合わせの電話がよくあると言う。「うちの子のおしっこの色が違う」などと。その通りCMでは目立ちやすいようにブルーの液体を使用している。実際に人間の尿は黄色っぽい。こんなことまで解説しなければならない馬鹿親はニッポンにもいる。オムツに限らず、基本的なことも知らないままに親となる。確かに子供を作る行為に子育ての知識は要らない。


 本日は先週末からの「教育再生委員会」のニュースにより、あちこちのブログでも取り上げられているのだが、私は子供の罪は全て馬鹿親にあると思っている。当然、良い子供に育った場合も親の躾が評価される。既に手遅れである現状の教育問題に有識者チームが「再生」なんぞの言葉を用いて、今更何を再生させるのかがわからない。親を再生させるというのならばわかるのだが。子供は大人次第、親次第、アホうな自分の背中をさらけ出すがために、アホうな子供が出来上がってしまう。これは子育てではなく、放任主義でも自由教育でもなんでもない。単なる放し飼いである。だから昆虫や植物の外来種のように、既存のものを食い尽くしてしまい従来のニッポン人の文化や美徳を絶滅させる勢いになってしまったのだと思う。だが、こやつらも人間だ、子供にはまだ、再生の余地はあると思う。しかし、馬鹿親にはあまり再生の可能性は低いだろう。子供を鎖でつなぎ南京錠で監禁する親もいる始末。その人のマナーや常識を指して「お里が知れる」とはよく言ったもので最近は使う人をあまり見ないが、「親の顔が見てみたい」という事件は日常茶飯事だ。法の域に入った少年犯罪の場合、保護者である親の顔を出しては如何だろうか。

【昭和の食べ物編】 昭和の町~その参

「大分での食い物」と「おかみさん通り」

大分県は食い物が旨い。どんこに関サバ・関アジ、城下カレイなど、とんでもなく旨い。しかし、とても高価で地元の人でもそうそう食べることはない。大分県は全国的にはまだまだ未開の地だ。私は、北部しかしらないが、素朴で旨いものはたくさんあった。そして価格はB級価格でお手頃なのだ。昭和の町やこの地区においても涙が出るほど旨い食材はたくさんある。いろいろな食材の紹介は、またの機会にするとして、今回は昭和の町での食べ物の思い出だ。



みなさん、これ懐かしくない?

給食

遠くに「いただきま~す」と言う子供たちの声が聞こえてきそうだ。この写真位置は教師用だな。

アルマイトの食器の給食。町の憩いの場「カフェ&バー プルヴァール」というお店で食べることが出来る「給食セット」。1000円とはややお高い気がするが、今となっては給食費も納めていないので、仕方がないちゃ~仕方がない。この町では大人も給食が食べられるんです。ちなみにおかずは鯨の南蛮カツ。あとはコッペパンと地元のミドリ牛乳である。ガキの当時、私はトンカツを知りませんでした。だから月の給食の献立にどれだけ鯨の南蛮カツが入っているが楽しみでした。


それからさらに、これを覚えておいでだろうか?

給食2

スパゲティミートソースもどき。(写真はカレー麺ですが)食器の中にはミートソース。袋には暖かいチャンポン玉のようなパスタが入っている(いわゆるソフト麺)。この面をほぐしてミートソースとからめるに結構コツがあったと、昔を思い出しました。(下手な子供は、白い給食エプロンに飛び散ってしまう)先日、食い物を粗末にするガキがいましたが、私らの時代、お椀の中のスープやソースは舐めるようにきれいだった。きれいに食べたいが為にパンでふき取って食べるという、誰から教えられたわけでもなく周りの見よう見真似でやっていた。給食センターに感謝していたわけではなく、単にいつも腹が空いていただけのこと。

 ここに行くと、あの頃の給食が食べられるわけである。



町では地元の方にも、さらに地元を知ってもらおうと、様々なイベントをやっている。地元の郵便局も一緒に盛り上げている。郵便局は昭和の町のお土産を全国に配送するという仕事をしているからだ。あれは9月の中頃だったか豊後高田市の副局長から電話をいただいた、


「●●さん、スポーツは好きですか?」

『ええ、昔はよくやってましたね』

電話の奥で「●●さん○(マル)と・・・」

『えっ!副局長、何なんですか?』

「ああ、今度の×日に昭和の町でマラソン大会があるんです。郵便局もチームで参加するのですが人数が足りないんで、●●さんメンバーに入ってください。洒落たゼッケンも用意してますから、あと・・・レースが終わった後バーベキューをやりますのでお腹を空かしてきてください。じゃ、よろしくお願いします」

『・・・・・』


大会当日、用意されたゼッケンには、私の会社の名前が入っていた。そして私の会社が扱う、商品名も入っていた。(恥ずかしかった)

「これなら、会社の顔も立つでしょう?」と副局長はニコニコ顔だ、というのも勤めの会社の社長は地元でも有名な資産家である。預金をガッポリいただきたいのだろう。

スタート地点は昭和の町の近くの公園、小宮館長や森川の大将や、他の店主なども私のゼッケンを見て笑っている。「お~●●君は会社を背負って走るっちゃね~あんたも大変やね」と、笑っているのではく爆笑している。レースは5kmだが、日頃の運動不足と不摂生が影響してか歩いているも同然であった。しかし、その後のバーベキューはとても旨かった。


また、この町では「蕎麦」にも力を入れていて上流の美しい沢では山葵栽培もも本格的にはじめた、元々合鴨の産地もあってかセットでPRを行っている。ここ昭和の町のある豊後高田市では、白ネギもとても有名で大産地だ。カモがネギを背負ってきてザルソバを食うのだそうだ。大鍋で鴨汁を炊いて、来場者には無料でふるまってくれるこのイベント、実は楽しみにしていた。カモなんかめったなことでは食べれないからだ。しかし、その数日前にもあの副局長から電話があった。


「●●さん、蕎麦好き?」

『ええ、好きですよ。麺類は大好きですよ』

「では、○(マル)と」

『???今度は何ですか?』

「ええ、今度鴨鍋のイベントがあるのを知ってます?」

『いいえ、聞いたことがないですね』(知っていたのだが)

「×時頃、会場で会えますか?・・・(はい)・・楽しみにしていてください、後、お腹を空かしてきてくださいね」

『・・・・・(今度はなんだろう)』


当日、会場にいくと副局長は鴨の着ぐるみ着て待っていた。口では恥ずかしいといいながら、本人はいたって楽しそうである。(そこら中でヘイ!カモン!と叫んでいた)


「●●さん、こっちこっち、ここで名前を書いて」

(何故、名前を書く必要があるのだろうか?)

『????』


『・・・・ソバ・・・大食い大会エントリー用紙・・・?何んスか?』

「情報は入ってますよ、●●さん大食家なんでしょ?社長の奥様から聞きましたよ。人数が足りたくてねェ~」


『また、ハメられた・・・』



鴨鍋

予選は、熱い素ソバ2杯を平らげるというタイムレース、私は2杯を25秒という好記録で予選通過。すでに舌は感覚がない。準決勝は、ざるソバを3分間で何枚食べれるか?である。私は5枚という記録で準決勝でなんと決勝に進出してしまった。決勝はざるソバのサドンデス、食ったモン勝ちで時間は無制限。もう、明後日の分まで食ってしまった私はすでに限界である。決勝は5人、強風に煽られてなかなかソバが口に入らない。ソバも乾燥している。こんなに喉越しの悪いソバは初めてだ。取り合えず食った。目の前の観客席には嫁と愛犬、それに何故かカモ副局長も座って笑っている。大勢の町の人たちが見ている。商店街のおばちゃん、おばちゃんも観客席にいた。お腹が一杯で緊張することもなかった。もはや頑張れなどとは、誰も言ってはくれない、ただ笑うのみ。私はなんとか8杯をたいらげた、優勝者は13枚、トータルで20人前は食べているであろう。

 私はトータル15杯、なんと3位入賞~!!!表書式では大きな賞状と、副賞にはまた、ソバであった。


商店街の人たちから打ち上げをやるからおいでよと言われたが、この後と用事がありますので、と丁重にお断りした。(もう、水の一滴も入る余裕はなかったからだ)

よその町から来た新参者にでも暖かく受け入れてくれる町の人には感謝だ。この後、餅屋の若旦那や若おかみ、老舗の茶屋のおかみさんなどにはいろいろとお世話になりました。しかし、何故、古い町の奥様方は「おかみさん」という呼称が似合うのだろう。私もこの町では、奥様方には自然と「おかみさん」と呼んでいた。若い方には、勿論「若おかみ」である。


 ここ昭和の町には、メインストリートに直角に繋がるもう一つの通りがある。「おかみさん通り」と呼ばれる。給食が食べられるお店として紹介した「カフェ&バー プルヴァール」もこの通りに面している。「おかみさん通り」には、母にちなんだ詩が短冊に書いて吊るしてある。故郷の母を想う息子の詩、亡くなった母を偲ぶ詩、母親になってみて自分の母親の気持ちがわかる娘の詩などだ。歩きながら読んでいると、胸にグっと迫るものがある。私も福岡の母を想い出してしまった。実は、これはおかみさんたちの仕掛けで『田舎の町に旅をした時くらい、故郷の母親を想いだせ』と、いうのがの主旨だ。なるほど、流石、この町の大黒柱たちの愛情には恐れ入った。古いだけではなく、昭和の強さもこの町はそのまま残っていたのだ。「おかみさん通り」とは全国の母の集まる通りのことだと理解した。

 

 私は食い物に関しては、質より量、そしてウンチクもない。しかし、この昭和の町での出会いから、大分には深く関わっていくことになる。大分の師匠と呼べる方との出会いも食い物がきっかけだ。師匠も大分県のことをこよなく愛する一人だ。師匠を通し、たくさんの地元を愛する方達に出会う事ができた。この方の話はまたいつか。


こうして、また私は、又一歩町の仲間入りをしてしまった。

昭和の町は、もう少し続く。次回は昭和の町の仕掛人を紹介します。(殺し屋ではありません)



※私は昭和の町の密使でもなく、昭和の町の商品を売っている訳でもございません


アメブロに物申す!

お陰さまでアメブロをはじめて、1ヶ月が過ぎました。思いのほか続けられた事と、多くの方との交流ができて感謝です。


しか~し。


アメブロはなんでこんなに動作が遅いんだ。携帯より動きの悪い環境なんてザラにない。記事を保存をしようと思えば、更新できずに逆戻り。メンテナンスの翌日なんかまともに使えたもんじゃねえ。タレントの意味のないブログに金をかけるよりも基本的なインフラを整備せい!何がWeb2.0の世界じゃ!

タレントのスケジュールなんて興味はないんだ。個人のブログでもっと素晴しいものがあるだろうに、個人が他のブログに引っ越さないよう早々に取り組んで欲しい。


今日は朝から何度もやり直しの連続だった。

【この町ん大将が登場じゃ~!】昭和の町~その弐

ALWAYS(3丁目の夕日) をご存知だろうか?昭和33年を舞台にした平成の大ヒット映画らしい。12月1日にテレビ初登場らしいが、これは番宣ではない。しかし、「昭和の町」はやっぱり昭和のままで、登場人物は全て昭和のおっちゃんとおばちゃんたちである。変わったのは、一万円札が聖徳太子から地元の諭吉さんに変わって、500円硬貨ができた。テレビも薄く大型になって、洗濯機は自動になった。いろんなものが便利になった。しかし、この町のおじちゃんやおばちゃんはパソコンにさえ悪戦苦闘なのだ。私は、この昭和のALWAYSで遊んできた。映画のように洒落たセピア色ではない、色はちゃんとカラーである、ただ時代に育まれた雰囲気が人工的映像とは全く違うのだ。食うのが精一杯だった昭和の時代。牛肉コロッケがご馳走だった時代は現実に残っていた。


駄菓子屋の小宮館長さんに連れられて、この町の大将に会いに行った。(写真がなくて残念)勿論、ガキ大将ではなくて、この商店街の顔といったところか?(昔はガキ大将だったそうだ)髪の毛の薄い、「やしきたかじん」みたいな顔でメガネをかけている、背が低い。なぜか、いつも白衣?が大将のユニフォーム。右手にはいつもミニスター(古くからあるタバコで、フィルターなしの1箱30本入りの昭和のシガレット)が指にはさんである。



森川報国堂 ミルクセーキ

大将で2代目の森川報国堂は、「ミルクセーキ屋」、右の写真は、この店の逸品「ミルクセーキ」


シンプルに、卵と牛乳とハチミツだけで作ったミルクセーキがこの店一番の売り物だ。昭和の当時、どれも高価な素材であったらしい。夏場は店の営業者で鐘を「チリ~ン、チリ~ン」と振りながら、ミルクセーキを自転車、もとい営業車で売りに行ったそうである。ミルクセーキは人気者であり、紙芝居と並ぶ町のヒーローであったと大将は語る。大将は毎日忙しい、跡取りがいないので、店の番やら雑誌やテレビのインタビュー、商店街の会合などの忙しいスケジュールをこなしている。(でも痩せない)本人曰く「毎日、菓子の味見をすると痩せんちゃ~」(やせないんだよ:意)そして、奥様がまた良い方で、趣味は苔球づくり。見知らぬ客にも気に入った人ならば自慢の苔球をあげてしまう、昭和の町のマザーテレサみたいな奥様だ。お二人の写真がなく本当に残念である。森川報国堂自慢のミルクセーキはカップ入りで200円程度、これにハマッたリピーターはたかが数個のミルクセーキのためにクール宅急便代を含めて1000円近くも出してお取り寄せするのだそうだ。ハチミツの甘さもホドホドに心地よい、シャリシャリと凍った触感は昭和に限らず夏の喉を潤す。無添加だから小さなお子様にも優しい。大将と2時間ほど話しをして大いに賑わった私の話にも大賛成してくれて原価で譲るからと言ってくれた。しかし、店で売っているミルクセーキの価格と教えてくれた原価があまり差がないことに気づいた。恐る恐る大将に聞いてみると、「こん町で、あんまり利益を取るとが気がひけるとよ~!」(地元で利益を取るのに気が引ける:意)『え~これじゃ観光客が増えてもあんまり儲からないじゃないですか~』と私。「しかたがないと」と大将。(本当に商売っ気がないのかな)
森川 自転車
これが、昭和の町の営業車である


この昭和の町では、各店に『昭和のお宝』がある。昭和の嫁入り道具、昭和のミシン、昭和の肉切り機、昭和の茶箱など、●●探偵団に出品してもよい代物である。全て先代からずっと受け継いできたものだ。町を歩いているとこのお宝が、前面に出してありいつも見ることができる。たかが、買い物をするだけならこの町は、15分もあれば回り終えてしまう。しかし、この町には「ご案内人制度」という、町を無料で案内してくれるサービスがある(要予約)。町のボランティアの方が、拡張スピーカーを肩に下げて、町を案内しながら、一店一店のお店の昔話や、その当時のエピソードなどをゆっくり語りながら案内してくれる。ご案内人さんと一緒に歩くと、この町を歩くのに1時間ほどかかる。1時間で昭和の町の住人となってしまうのだ。


大将と小宮館長たちとの話しは尽きないが、後日、出直してきて他のお店の紹介を、森川の大将にお願いすることにした。そろそろ、お暇しようと思っていた頃、対象が「●●君、ちょっと見てんね」(見てご覧:意)大将は、商店街のメインストリートを腕組みしながら、アゴで指した。通りは観光客で賑わい、たくさんの人が「コロッケ」を食べながら歩いている。「こげな、風景、俺たちは想像もできんかった。変わらんことも、よかこつがあるっちゃね~」(こんな、光景は私は想像することもできなかった。変わらないことも、いいことがあるんだね:意)


観光客の人たちが持っているのは、昭和のコロッケ。


金岡   金岡のご主人


昭和のコロッケはここ、「肉の金岡」で手に入る。私がこの町にいたときは、1個50円でアツアツの牛肉コロッケを食べることができた。右は店主の金岡さん(この人がまた、いい人。いつもニコニコしていてこっちまで笑顔になります。金岡さんにもお世話になりました)商店街一色男な店主。毎日、手作りでコロッケを作ってくださる昭和の町のファーストフード屋さんである。(本業は肉屋)マクドナルが日本で初めて銀座で出店したときよりも、この町では衝撃的だったそうである。しかし、店主曰く、50円では採算割れするのだそうだ、泣くに泣けないが町のためにいつも笑顔であった。この金岡さんがコロッケに使用する牛肉は『』豊後牛、内閣総理大臣賞も受賞したこともあるブランド牛なので高い!でも、この町は地物食材を使うと決めているから仕方がない。


この町では「こだわり」は当たり前である。

いつの間にか、こだわりは限られた人にしかできないようなマスコミの言い回しが私は嫌いだ。別にこだわろうと思って、店主達は地物にこだわっているのではない。ここは、自分が生まれ育った町だから地の食材を扱う、ごく当たり前のことなのだ。だから、各店はいちいちこだわりなんかはいわない。インタビューで「こだわりは?」と聞かれる時は結構困るといっていた、勝手に取材側が地物との食材にこだわりたいという方向性に持って行きたいだけなのである。


たくさんのマスコミや観光客で昭和の町は少しづつ変化をしはじめた、少なからずもお金も投資をされているのだ。さらに観光客や町の人によかろうと投資をされているわけだが、私は何故か新しく出来る建造物に違和感を感じる。必要なのかもしれないが、この町の跡継ぎを作る事のほうがが先決である。農家などと同じで、ここの人たちはほとんどが年配の方たちだ、一般の休日が観光客のピークだから休む暇がないのだ。秋の時期は尚更、近隣の紅葉狩りも兼ねてやってくる。正直、つらいことも多いとも店主達は言っていた。昭和の歩幅が平成の歩幅が近づいてきた、勝手だができればそのままの歩幅で歩んで欲しい。


・・・まだまだ続くよどこまでも。次回は給食編。



※私は昭和の町の密使でもなく、昭和の町の商品を売っている訳でもございません。





【衣替え】スキンを変えてみた。そしたら昭和の町を思い出した。

今使っているスキンにアジがないなぁと思いながらも、カスタマイズするテクニックはなしときたもんだから、スキンの一覧を見ていたところ『駄菓子』のスキンがあったので変えてみた。タイトルとは、マッチングしないが、最近の世知辛いニュースばかり取り上げていたので自分の目の保養にもよいかと決めてしまった。


駄菓子といえば、皆さん子供の頃のオヤツの思い出が多いだろうと思うが、私の場合印象深いのは大人になってから、それもつい3~4年前のことである。1年半ほど前に仕事で大分県に4年ほど住む機会で得た貴重な体験の一つだった。私が住んだのは、大分県の北部の方であり車で10分行けば、潮干狩りで切る砂浜へ、30分行けば一面蛍の光に包まれる幻想的な林の中へ、40分行けば、人気のない浅瀬の川で森林浴。その道中には、いたるところに温泉が出ている。だから車の中には常に「お風呂セットは欠かせない」そんな、大分県の北の町に住んでいた。ちなみに隣町は福沢諭吉の生家のある中津市だ。


久し振りに『駄菓子』に触れたのは、仕事の最中。お客様に何か、いいプレゼントはないものかと思案中だった。慣れぬ土地なので、この辺の産物がよくわかない。大分県といえば、椎茸、関アジ、関サバ、湯布院、温泉といったところだが、こんな高価なプレゼントは用意できない。数が多いため、一人当たり数百円といったところだった。休みの日に何かないものかと、ドライブマップを見ながら、嫁と散策していたら、あった、あった、掘り出し物を見つけてしまった。当時はまだ、ドライブマップに乗っていなかったので偶然であった(そりゃそうだ、ただの商店街だからね)


昭和の町~その壱

昭和の町・・・お聞きになったことがあるだろうか?

『豊後高田市 昭和の町』

昭和の町 レトロカー

行ってみると、何て~ことはない。古びた商店街である。たぶん、このような商店街は東北にも、関西にも、関東にもあるだろう。しかし、驚くことなかれこの商店街は昭和30年からこのままなのだ。(看板以外)一時期レトロブームもあり再現された、町並みや店舗がテレビでは話題だったが、ここは再現する金もない。さらに驚いた、扱っている商品は、昭和30年代の物もあった、商品もそのまま扱っているのだ。とにかく歩き回った、小さい商店街だけど何回も歩き回った。なんかばあちゃんのにおいのする町で楽しかった。


キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!って感じだった。


ここは、昔は北部一番の繁華街だったそうであるが、産業の衰退体と共に人口が半分も減り衰退化していった町である。当時は「お町』と呼ばれていたそうである。「ねえ、今度お町に買い物に行こうよ」これが、昭和30年代の町の人のステイタスであったらしい。(私もガキの頃、百貨店などは他所行きの服でしか連れて行ってもらえなかった。そんな、行く場所に合わせて着替える緊張感がとても楽しかった)数年前までは人の数より猫の数のほうが多く、笑うに笑えなかったらしい。それは、レトロブームに目をつけた観光会社が、ツアーを企画したところ、町に火がついた。そして、町は『昭和の町』と銘を打ち、大作戦を行った。


人の数より猫の数が多かった町に、毎日大型観光バスが何台もやってくる。今では、毎年20万人の観光客がやってくる町に様変わりした。



私は、この町の雰囲気とこの町の商品を、お客様のプレゼントに勝手に決定してしまった。



駄菓子博物館

まずは、大好きな駄菓子屋へ 行ってみた。この駄菓子屋は、おもちゃ博物館と一緒になっており、館長さんが運営している。館長さんは福岡出身ということもあり、私の提示に快く賛成してくれて、「なんでも、持ってってよかよ」(何でも、持っていていいよ:意)「何なら、他の店も紹介しちゃろう~か?時間はあるとね?なら行こか?」(なんだったら、ほかのお店も紹介しようか、時間はあるの?じゃあ行こうか:意)「こん町ん人たちは、商売っ気がなかけんねえ、一つ渇が入れちゃらんといかんとよ」(町の人たちは、あんまり商売にやる気がみえないから、渇を入れてやらないといけないんだ:意)とぶつぶつ物々しながら、町の大将のところに連れて行かれた。


当時、私は通信販売という事業部の運営システムを、ある企業でつくっていました。地元の野菜を使った健康食品を販売しており、キャンペーンに利用するプレゼント商品を探していたのです。健康に不安なご年配の方がお客様に多く、どうせ送るのなら、なんか小洒落た、地物の商品で和ませたいな~と思いはじめたのがきっかけである。その後、館長にはたくさんの紹介を方を紹介していただいた、そして人とか、町とか、食べ物に対する私の転機になるものだった。・・・つづく。


※私は昭和の町の密使でもなく、昭和の町の商品を売っている訳でもございません。



国民と対話を避ける首相/ヘビと対話する首相夫人

舞い上がりすぎだよ昭恵夫人

ベトナム・ハノイで各国のファーストレディーと懇談し、本格的に外交デビューした“アッキー”こと安倍昭恵夫人(44)。ブッシュ大統領のローラ夫人に「(ファーストレディーとしてやることは)自分の興味のあることを始めたらいい」とアドバイスされ、「今後の参考にしたい」とやる気満々になっているようだが、他国の夫人たちからは早くも失笑を買う場面が。


・・・旦那が人間離れしているかと思えば、奥様であるファーストレディも人間離れをしているなあ。

ヘビを首に巻いて、このパフォーマンスの意味は?女子アナが、体験レポートをやっているノリである。

ヘビと対話中の夫人



国民と対話をしない旦那から、国民の目を少しでもそらすのが目的なのかなあ。私は、とても美しいニッポン目指す首相の夫人であるような気がしないのだ。夫人には月/70万円もの「教育係」がついているという、また一説には夫人専用のスタイリスト費用に100万、200万の金が飛んでいるという噂もある。一国の首相を影で支え、国政に良い影響を与えてくれれば、まだ血税も活かされよう。しかし、今のままでは単なる、躾と服のための税金しか思えない。

 ニッポンには「内助の功」という素敵な言葉がある。ファーストレディなどという洋風な言葉は捨てて、まずはニッポンの母として世界で活躍してほしいのだが・・・・。しかし、この人楽しそうだなあ。

これは体罰ではない!躾だ!

尻目滅裂、乱文であるため本日はご容赦!!!


[体罰]奈良の「熱血校長」小4男児に ご飯粗末にした 

奈良県三郷町の町立三郷北小学校で今月14日、給食のご飯を粗末に扱ったとして、岡本喜代治校長(59)が4年の男児の尻を強くたたいて転倒させるなどし、約1週間のけがを負わせていたことが分かった。岡本校長と同町教委は「行き過ぎた指導だった」として男児の家族に謝罪した。岡本校長は教育困難校の立て直しなどで実績があり、子どもと教師の心理についての著書も執筆。地元では「熱血校長」で知られている。 同町教委によると、男児の担任教師が13日、給食で茶わんに残った米を団子状にして天井に投げるのを目撃し、岡本校長に報告した。岡本校長は翌朝、登校してきた男児を校門前で見つけると、ほおをつかんで引き寄せ、尻を6~8回たたいた。男児は転倒し、足をすりむき、ほおにはつめ跡が残って血がにじんだという。男児はそのまま授業を受けたが、帰宅後、傷に気付いた家族が病院に連れて行き、全治1週間と診断された。岡本校長は同日夕、男児宅を訪れて謝罪。町教育長には15日朝、報告した。 同小によると、岡本校長は「食べ物を遊び道具にするのは許されず、ここで指導しておかなければと強く思った」と説明したという。


・・・親は一週間のケガで済ませてもらったと感謝せねばならない。私は行過ぎた指導とは思わない。行過ぎているのだとしたら、稲作農家にもその現場を再現して見てもらうがいい。農家の方々が見ていたら鍬で畑の中に埋められたかもしれない。食べ物に感謝できない人間に食べる資格はない。(私は食べ物の事についてはうるさいのだ)

米を一粒つくるのにどれだけの時間と想いが詰まっているのと思っているのだろうか。学校で育てる、朝顔やヒマワリのように種を蒔いて水をあげれば花が咲く!というものではないのだ。米はそれなりに経験を積んだ農家の方ならば、ある程度の収穫はできる。しかし、流通する米にはわずかな利益しかでない。補助金なしでやっている農家がどれだけあるというのか?それだけ採算が取れない現状なのである。今後、小さな面積の農家にはこの補助金さえもカットされる見通しなのだ。数日前に、甘えのある農家のことを書いたが、それはそれ、これはこれなのだ。お米は電子レンジから作られるものではないのだ。


 勿論、こんなことを小学生の子供が知る由もないが、「食べ物を粗末にしてはいけない」は家庭教育の基本中の基本ではないだろうか。間接的にでも両親が子供理解をさせなければならない大切なことである。親が人間としての躾ができなければ、物心が着く前に外に教育に出すことをお勧めする。身体が出来上がってしまってからではもう遅い、すでに馬鹿親の影響を受けているからだ。4~5歳ぐらいから3~4年間、農家、漁業、林業、工業など物をつくる処など最適である。食費は畑に存分にあるので、気になる給食費もいらない。親の手元から離せば、親による虐待もなくなる確立も高い。農業や漁業を目指す子供も増え個人企業や、第一次産業も少しは潤うだろう。得ばかりである。それが済んでからでも学校教育は遅くはなかろう。


また担任の教師は自分では指導できなく、校長にいいつける始末(どうかしてるゾ)同じ処置を担任教師がして問題になった場合、この校長ならば必ずフォローするはずだ。馬鹿な教育委員会も「家庭の教育にも問題がある」と何故一言いえないのか。


一週間のケガで済まされた子供は、この件もあって食べ物を粗末にする事はないとおもうが、馬鹿親は体罰のせいで「お米にトラウマを持ってしまった」というかもしれない。なんせ、わざわざ病院にいって一週間の診断書を学校に提出するくらいだから。


 私も子供のときはよく叩かれた、背の小さな先生には届かないという理由で土間ボウキで叩かれた事もある。床にも校庭にも学校の正門にも正座をさせられた。剣道をやっていて、稽古では、いつも雑巾のように床に投げ飛ばされたいた。運動をやっていたせいか、多少の体罰といわれるものには自分で治す体力も備わっていた。(これはありがたかった)しかし、いちいち親にいうのも恥ずかしいし、ガキとして自分のプライドに傷がつく。こんなことで泣いたり、告げ口はできないのだ。その時こそ、その先生にを恨んだものの、実は自分もわかっていてやっていたのでまな板の上は「しゃーない」と思っていた。小さい子供ながらも自分の責任は、自分でとらなきゃみたいなものが、当時のガキどもにはあったように思う。だから正座をしているわけである。子供、親、先生それぞれに役割とプライドを持っていたので、結構仲が良く、面白い時代であった。

プロを目指す選手の涙とは?

日大・長野 日本ハムスカウト門前払い

日本ハム強行指名に長野が激怒…ホンダ入り表明、2年後巨人

大学・社会人ドラフトが21日、東京新高輪プリンスホテルで行われた。日本ハムは4巡目で巨人以外の指名なら社会人入りを明言していた、日大・長野久義外野手(21)を強行指名。態度を硬化させた長野側は、ドラフト会議後の指名あいさつを受けない“異常事態”となった。

 祝福ムードなど一切なかった。日本ハムの強行指名を受けてから15分後。会見場に現れた長野は口を“への字”に結び、目にはうっすら涙さえ浮かべていた。悲しいのではない。悔し涙だった。


・・・こいつはいったい何様なんだ。


写真と記事を見る限り、私には幼稚で我がままな選手にしかみえない。ドラフト制度には、賛否あることは知っているが、それ以前に、この顔がプロを志している野球人の顔なのか。大学の監督ともども『激怒』しているらしいが、何に対して怒っているのか?事前に菓子箱をもって頭を下げに来なかったことなのか?巨人に裏切られたことなのか?それは誰でも意中の球団に行きたかろうプロに一歩近づいている選手であれば尚のこと。しかしルールはあるのだ。おもちゃを買ってもらえず、床に座って泣き叫び動こうとしない子供に見えて仕方ならない。ルールがあれば最悪のことも事前に想定しておかなければならない、それもプロであろう。四国リーグでは月給12万円でもプロを目指している連中がわんさかいるらしい。今更、社会人野球や他で野球をしても、皆な腫れ物に触るようで扱いにくいのではないだろうか。巨人もホッとしているに違いない。(もう、元木みたいなのは勘弁な)

また、社会人野球を2年やってプロを目指すとはホンダも舐められたもんだ。


果たして彼の野球としての目標はどこにあったのだろうか?

巨人でレギュラーとしてリーグ・シリーズ制覇することなのか?

巨人で個人タイトルを獲りたかったのか?

メジャー・リーグなのか?


もし、巨人に入団することが目標であったならば、『ヴィトンやプラダ』を夢見てるネーちゃんと代わらないではないか。