【昭和の町の仕掛け人】昭和の町~とり合えず最終回
必殺仕掛人 登場!
昭和の町は新しい歴史の波に埋もれる寸前だった。化石になる予定の町を、再びこの世に残した人がいた。この町の市長ではない、一人の商工会議所のおいちゃんだ。名前を金屋(かなや)さんという。この町で生まれ、この町で育った血統証付きの町の人だ。
写真はインテリ風だが、鉄のように熱い男である。
この人が昭和の町を作ったといっても過言ではない。市は過疎化に嘆いていた、嘆いても人口の流失は止まらず、財政が安定するわけではない。そして市には金がなかった。収入を得る方法はたくさんあるのだが、この町ではその選択肢が限られる。市や商工会議所など一丸となってアイデアを模索した。
金屋さんは、やはりこの土地が金を生むのだと考えていたらしい。なぜか、図書館にこもり古くからのこの町の地図と今の地図をずっと見比べたらしい。
そこに![]()
今となれば恐ろしい妄想だ、と言っていたが昭和の初期の地図と平成の今の地図と、この町はほとんどかわらなかったらしいのだ。(恐ろしい事だ)その時は、少しレトロへの風が吹いている頃だったらしい。金屋さんは自分なりにその妄想を膨らませて企画書を作った。何かのきっかけでこの町に人が訪れてくれれば、この町を評価してくれる人が多いはずだ!他に案がない、市もそれに飛び乗ったし、うまいこと旅行会社もその話に乗ってきた。なんとかこの企画を進める事ができるというまでに2年を要したという。
だが、もう一つ難関があった。主役は商店街、そして町の店主たちだ。町の店主達は、猛反対であったそうだ。森川の大将も。『静かに死なせてくれい!』が町の声だ。また、こん町に目玉がなくては商店街に人なんか来ない!そう決め付けていた。このような反対の声は金屋さんは予想した上で事前に手を打っていた。『集客!』をするのに、おもちゃ博物館を町の真ん中に作るということだった。レトロを回想させるにピッタリのアイテムであり、この町はその舞台が揃っていた。しかし、コレクションもその道に精通している人はこの町にはいない。そこで第一回に登場した小宮館長の登場(小宮館長の顔はこちら→駄菓子屋の夢博物館 )なのだ。小宮さんはこの町に来る前は、福岡は太宰府市で同じくおもちゃのコレクター兼博物館をしていた福岡でも有名な方だった。この小宮さんを金屋さんは三顧の礼で迎えたらしい。本人は三度どころの話じゃないよといっていた。
私が、この町にきてこの商店街の方々とであったのは4年前、このおもちゃ博物館はその直前に完成したという。だから足掛け3年ぐらいの話しだった。その話しを金屋さんが語り始めるともう話が止まらない、声がでかいので嫌でも脳味噌に焼きついてしまう。夢を語る金屋さんの話を聞いているとこっちまでうれしくなってしまう。金屋さんが、「少し臭くないですか?」というが、私はそんなに気にならない、「?」と聞くと、最近あんまり家に帰ってないし、風呂も入っていないということだ。忙しさは半端ではないようだ。
人の数より猫が数が多い故郷をなんとかしたかった、とういうのが本当の金屋さんの想いだ。その想いは、たくさんの観光客がコロッケを片手に歩いているという現象に結びついた。変な箱物をつくることをせず、町の本当の財産で直球勝負をした金谷さんは少し誇らしげだった。金屋さんは空いている時間は、町のボランティアとしてもガイドの仕事をしている、街を知り尽くした人ではないとできない仕事だ。町に行くと金屋さんの美声も聞くことができる。
私の方はといえば、昭和の町の品物やパンフレットを、自社のお客様に送ることができとても好評だった。私たちの事業を通じて、お客様からの問い合わせもあったということでそれもうれしかった。キャンペーンの食品企画を練っている時に大盤振る舞いをしてくれたのが、あの昭和のコロッケの金岡社長だった。「●●さんのところの商品を一番買ってくれた人、一人にすき焼き用の豊後牛を1kgプレゼントしてあげるよ」(ウヒョ~!)とのうれしいプレゼントに、私たちのキャンペーンも上々でした。商品発送の際に、余分なスペースがあれば、大分産自慢のカボスを隙間に入れて発送した。箱を開いた時の香りがとても良かったとの評判だった。大分のものをふんだんに取り入れた企画に思いのほか満足できた。かかわってくれた人の全員が笑顔だったからである。
年末の企画だったのだが、発送は年明け1月中旬まで続いた。終わった後に改めて、商店街や商工会議所にお礼に出向いた。そして郵便局からは、急激に伸びた郵便物の発送量に感謝状もいただいた。(狭い町なので)それもこれも、全て、町の人のおかげである。そして、商工会議所の金屋さんからは、うれしい一報もいただいた。「昭和の町で、情報発信をする『昭和の新聞屋』を●●さんやってみませんか? 通りに小さな店舗の空きがあるんですが、そこで町の情報の発信や●●さんの得意な通信販売をやっていただいていいんです。各店舗の主人は、それができないので●●さんで、まとめてやって欲しいのです。奥さんと一緒にこの町でやりませんか?」とのことだった。
∑(゚Д゚)・・・・
(≧д≦) (≧д≦) (≧д≦) 「うれしい」
確かにそうなのだ。この昭和の町には、土産品を合理的に注文・配送するシステムがないのである。店売り以外にも、年金的要素の高い売上システムが必要なのだ。それに昭和の町ブームはいつか終わりが来るからだ。残されるのはほとんどが高齢の店主夫婦ばかりである。
しかし、私は断腸の思いでお断りした。今の勤め先で3ヵ年の事業計画をつくり、まだ2年目だったため途中で抜け出せなかったのだ。通信販売のシステムを作る際には、手弁当で参りますという約束をしてお話しはお断りした。今でも、昭和の町をテレビで見るたびに、皆な元気でやっているのだなと安心する。今、1年間に町への取材は500~600件ぐらいあるそうだ。昭和の町以外の人も、たくさん店を出すようになり少し様変わりしているようだった。しかし、この先の壮大な企画を金屋さんからは聞かされているので基本が狂うことはないだろうと思う。
この豊後高田市以外の町でも熱意ある人たちによって、町が再生しているところはある。昭和の町の前に高知県の山奥にある人口1,300人の村に伺ったことがある。そこでも、とんでもない村の再生が行われていた。この村でも、たくさんの事を教えていただいた。杉の木と柚子しかない村の伝説である。夜、地元の地鶏をご馳走になりながら農協の専務理事さん(この村の立役者)と土佐鶴を飲み交わした。「大分にも『昭和の町』というのがあるので、ぜひ近くに来たときには寄って下さい」と話していたところ、本当にやってきた。大分に講演の仕事があったらしく思い出してくれたらしい。この方の影響もあって、私は昭和の町に一歩踏み出したのだ。
町は変化があっても良いと思う、近代的なものもあって良いとも思う、ITだって大歓迎だ。しかし、変わってはならないと望むものは今までに出会ってきた人たちのように、自分の生まれた町を誰よりも愛し、自分の生まれた町の人たちを家族のように思う心だ。これさえあれば何の問題も起こらない、問題は自分たちで解決できるのだと思う。今ニッポンは解決できないことが多すぎるる。
「~のために」と、考えることがなくなったのだ。
スキンを変えるきっかけにより、多くの思い出を引き出すことができた。独りよがりの部分も多かったが、私の尊敬する方々よりコメントもいただいたこともあり、私の脳内ホルモンは溢れっぱなしである。「なにわのおっさん」様、「oumiclininc」様、「詠仙人」様、「ultraman1959」様、「中嶋」様、コメントありがとうごいました。
また、いつか頑張る人たちをご紹介させていただきます。