【昭和の食べ物編】 昭和の町~その参
「大分での食い物」と「おかみさん通り」
大分県は食い物が旨い。どんこに関サバ・関アジ、城下カレイなど、とんでもなく旨い。しかし、とても高価で地元の人でもそうそう食べることはない。大分県は全国的にはまだまだ未開の地だ。私は、北部しかしらないが、素朴で旨いものはたくさんあった。そして価格はB級価格でお手頃なのだ。昭和の町やこの地区においても涙が出るほど旨い食材はたくさんある。いろいろな食材の紹介は、またの機会にするとして、今回は昭和の町での食べ物の思い出だ。
みなさん、これ懐かしくない?
遠くに「いただきま~す」と言う子供たちの声が聞こえてきそうだ。この写真位置は教師用だな。
アルマイトの食器の給食。町の憩いの場「カフェ&バー プルヴァール」というお店で食べることが出来る「給食セット」。1000円とはややお高い気がするが、今となっては給食費も納めていないので、仕方がないちゃ~仕方がない。この町では大人も給食が食べられるんです。ちなみにおかずは鯨の南蛮カツ。あとはコッペパンと地元のミドリ牛乳である。ガキの当時、私はトンカツを知りませんでした。だから月の給食の献立にどれだけ鯨の南蛮カツが入っているが楽しみでした。
それからさらに、これを覚えておいでだろうか?
スパゲティミートソースもどき。(写真はカレー麺ですが)食器の中にはミートソース。袋には暖かいチャンポン玉のようなパスタが入っている(いわゆるソフト麺)。この面をほぐしてミートソースとからめるに結構コツがあったと、昔を思い出しました。(下手な子供は、白い給食エプロンに飛び散ってしまう)先日、食い物を粗末にするガキがいましたが、私らの時代、お椀の中のスープやソースは舐めるようにきれいだった。きれいに食べたいが為にパンでふき取って食べるという、誰から教えられたわけでもなく周りの見よう見真似でやっていた。給食センターに感謝していたわけではなく、単にいつも腹が空いていただけのこと。
ここに行くと、あの頃の給食が食べられるわけである。
町では地元の方にも、さらに地元を知ってもらおうと、様々なイベントをやっている。地元の郵便局も一緒に盛り上げている。郵便局は昭和の町のお土産を全国に配送するという仕事をしているからだ。あれは9月の中頃だったか豊後高田市の副局長から電話をいただいた、
「●●さん、スポーツは好きですか?」
『ええ、昔はよくやってましたね』
電話の奥で「●●さん○(マル)と・・・」
『えっ!副局長、何なんですか?』
「ああ、今度の×日に昭和の町でマラソン大会があるんです。郵便局もチームで参加するのですが人数が足りないんで、●●さんメンバーに入ってください。洒落たゼッケンも用意してますから、あと・・・レースが終わった後バーベキューをやりますのでお腹を空かしてきてください。じゃ、よろしくお願いします」
『・・・・・』
大会当日、用意されたゼッケンには、私の会社の名前が入っていた。そして私の会社が扱う、商品名も入っていた。(恥ずかしかった)
「これなら、会社の顔も立つでしょう?」と副局長はニコニコ顔だ、というのも勤めの会社の社長は地元でも有名な資産家である。預金をガッポリいただきたいのだろう。
スタート地点は昭和の町の近くの公園、小宮館長や森川の大将や、他の店主なども私のゼッケンを見て笑っている。「お~●●君は会社を背負って走るっちゃね~あんたも大変やね」と、笑っているのではく爆笑している。レースは5kmだが、日頃の運動不足と不摂生が影響してか歩いているも同然であった。しかし、その後のバーベキューはとても旨かった。
また、この町では「蕎麦」にも力を入れていて上流の美しい沢では山葵栽培もも本格的にはじめた、元々合鴨の産地もあってかセットでPRを行っている。ここ昭和の町のある豊後高田市では、白ネギもとても有名で大産地だ。カモがネギを背負ってきてザルソバを食うのだそうだ。大鍋で鴨汁を炊いて、来場者には無料でふるまってくれるこのイベント、実は楽しみにしていた。カモなんかめったなことでは食べれないからだ。しかし、その数日前にもあの副局長から電話があった。
「●●さん、蕎麦好き?」
『ええ、好きですよ。麺類は大好きですよ』
「では、○(マル)と」
『???今度は何ですか?』
「ええ、今度鴨鍋のイベントがあるのを知ってます?」
『いいえ、聞いたことがないですね』(知っていたのだが)
「×時頃、会場で会えますか?・・・(はい)・・楽しみにしていてください、後、お腹を空かしてきてくださいね」
『・・・・・(今度はなんだろう)』
当日、会場にいくと副局長は鴨の着ぐるみ着て待っていた。口では恥ずかしいといいながら、本人はいたって楽しそうである。(そこら中でヘイ!カモン!と叫んでいた)
「●●さん、こっちこっち、ここで名前を書いて」
(何故、名前を書く必要があるのだろうか?)
『????』
『・・・・ソバ・・・大食い大会エントリー用紙・・・?何んスか?』
「情報は入ってますよ、●●さん大食家なんでしょ?社長の奥様から聞きましたよ。人数が足りたくてねェ~」
『また、ハメられた・・・』
予選は、熱い素ソバ2杯を平らげるというタイムレース、私は2杯を25秒という好記録で予選通過。すでに舌は感覚がない。準決勝は、ざるソバを3分間で何枚食べれるか?である。私は5枚という記録で準決勝でなんと決勝に進出してしまった。決勝はざるソバのサドンデス、食ったモン勝ちで時間は無制限。もう、明後日の分まで食ってしまった私はすでに限界である。決勝は5人、強風に煽られてなかなかソバが口に入らない。ソバも乾燥している。こんなに喉越しの悪いソバは初めてだ。取り合えず食った。目の前の観客席には嫁と愛犬、それに何故かカモ副局長も座って笑っている。大勢の町の人たちが見ている。商店街のおばちゃん、おばちゃんも観客席にいた。お腹が一杯で緊張することもなかった。もはや頑張れなどとは、誰も言ってはくれない、ただ笑うのみ。私はなんとか8杯をたいらげた、優勝者は13枚、トータルで20人前は食べているであろう。
私はトータル15杯、なんと3位入賞~!!!表書式では大きな賞状と、副賞にはまた、ソバであった。
商店街の人たちから打ち上げをやるからおいでよと言われたが、この後と用事がありますので、と丁重にお断りした。(もう、水の一滴も入る余裕はなかったからだ)
よその町から来た新参者にでも暖かく受け入れてくれる町の人には感謝だ。この後、餅屋の若旦那や若おかみ、老舗の茶屋のおかみさんなどにはいろいろとお世話になりました。しかし、何故、古い町の奥様方は「おかみさん」という呼称が似合うのだろう。私もこの町では、奥様方には自然と「おかみさん」と呼んでいた。若い方には、勿論「若おかみ」である。
ここ昭和の町には、メインストリートに直角に繋がるもう一つの通りがある。「おかみさん通り」と呼ばれる。給食が食べられるお店として紹介した「カフェ&バー プルヴァール」もこの通りに面している。「おかみさん通り」には、母にちなんだ詩が短冊に書いて吊るしてある。故郷の母を想う息子の詩、亡くなった母を偲ぶ詩、母親になってみて自分の母親の気持ちがわかる娘の詩などだ。歩きながら読んでいると、胸にグっと迫るものがある。私も福岡の母を想い出してしまった。実は、これはおかみさんたちの仕掛けで『田舎の町に旅をした時くらい、故郷の母親を想いだせ』と、いうのがの主旨だ。なるほど、流石、この町の大黒柱たちの愛情には恐れ入った。古いだけではなく、昭和の強さもこの町はそのまま残っていたのだ。「おかみさん通り」とは全国の母の集まる通りのことだと理解した。
私は食い物に関しては、質より量、そしてウンチクもない。しかし、この昭和の町での出会いから、大分には深く関わっていくことになる。大分の師匠と呼べる方との出会いも食い物がきっかけだ。師匠も大分県のことをこよなく愛する一人だ。師匠を通し、たくさんの地元を愛する方達に出会う事ができた。この方の話はまたいつか。
こうして、また私は、又一歩町の仲間入りをしてしまった。
昭和の町は、もう少し続く。次回は昭和の町の仕掛人を紹介します。(殺し屋ではありません)
※私は昭和の町の密使でもなく、昭和の町の商品を売っている訳でもございません
