前回の続きで,ライブ・エイド後のフレディを駆け足でお届けします。

まずは,これまでのクイーン関連記事を。

Queen フレディ誕生からの歴史をざっくりと(前編)

Queen 過去から現在へつなぐ曲 Doing All Right に絡むお話

Queen フレディがマイケル・ジャクソンと残した録音などなど
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Queen ジョン・ディーコン参加の最後の曲 そしてフレディデビュー前の曲
Queen 映画「ボヘミアン・ラプソディ」三番目のフレディ Marc Martel
Queen フレディ存命中最後の作品 INNUENDO
私が選ぶQueenの最高傑作アルバム Queen Ⅱ
PENTATONIXのボヘミアン・ラプソディ
Bohemian Rhapsody の素敵なカバー Brooklyn Duo




ライブ・エイドでロック界の伝説ともいえるステージを披露したクイーンは,86年に最後のヨーロッパ・ツアーを行います。

その年,アルバム A Kind Of Magic(カインド・オブ・マジック)を発売した後,フレディはツアー活動に終止符を打ち,ロンドンで,ジム・ハットンらとの共同生活を始めます。


そして翌87年2月,今度こそソロを成功させたいと頑張って作った,ザ・プラターズのカバー曲 The Great Pretender(グレート・プリテンダー)をカバーし発売します。このミュージックビデオもまた,過去のクイーンの名曲ビデオを取り込んだ,力が入ったものとなっています。フレディ自身も,「他のどの曲よりもこの歌が自分の集大成となっている」と語っているとおり,イギリスでは最高第4位となりました。それではどうぞ,ご覧下さい。

 



また,86年のインタビューで,フレディが「Montserrat Caballé(モンセラート・カバリエ)が世界中の誰よりもすばらしい声の持ち主だ」と答えたことがきっかけで,87年の3月にモンセラートとバルセロナで打合せを持つこととなりました。

フレディとモンセラートは,すっかり意気投合し,フレディのピアノ伴奏でモンセラートがクイーンの曲を歌って明け方まで過ごしたそうです。


そんな彼女と共作した87年発表のアルバム・タイトル曲であり,バルセロナ・オリンピックの開会式で一緒に歌うはずだった曲 Barcelona(バルセロナ)をお聴き下さい。

 



このアルバムには,The Golden Boy(ゴールデン・ボーイ)という曲で,以前の記事でフレディが参加した曲として紹介したピーター・ストレイカーが合唱団の一員として参加しています。

また,この年,フレディが後に曲のタイトルにまでしてしまう愛猫デライラが同居することになります。
きっと,よく懐いて自由になでたり抱っこさせてくれたんでしょうかね。うらやましい。。。

そして,88年,クイーンのアルバムThe Miracle(ザ・ミラクル)制作時,フレディはメンバーに自分がエイズであることを打ち明けます。
病の進行は誰の目にも明らかで「何かある」とは感じていましたが,さすがにこの時のショックは大きかったようです。

 

「今までどおり仕事は続けさせてくれ」という彼の言葉は,歌うことに執着し,常に真剣勝負であり続けた彼の生き様をそのまま表している言葉だと思います。

何事にも手を抜かず,集中し,歌うということに全身全霊をかけた姿の行き着いた先が,あの完璧なライブを行ったライブエイドであったため,私たちは最後の場面で感動できたのです。

 

実際は,次から次と続くアルバム作成の様子や,それぞれで作成するミュージックビデオで見られる彼の,確実に病が進行しているのを着る物や化粧でごまかしながらも,元気な頃と変わらずに歌う姿に,彼の生き様が現れていました。

 

前回も書きましたが,ドキュメンタリーとしての映画であれば,最後の息を引き取る姿まで追うこととなり,映画が終わった時に,「惜しい人を亡くしたんだな」という実感はあっても,最後にあれだけの余韻は残らなかったでしょう。

あの脚本で,あのライブエイドを最後に持ってくることで,フレディの人間像を余すことなく伝え,観る者に様々な解釈を(それでも肯定的な)許すことに成功しているのだと思います。脚本の勝利ですね。



閑話休題

 

 

 

引き続き90年に入って作成されたアルバム Innuendo(イニュエンドウ)の内容については,以前書いたとおりです。


アメリカでは売り上げが全くといっていいほど望めなくなっていたクイーンですが,この時期公開された「ウェインズ・ワールド」という映画で,車中で「ボヘミアン・ラプソディ」をみんなでヘッドバンギングしながら聞く?歌う?姿が大ウケし,アメリカでのクイーン熱が再発することになったのは面白い偶然でした。


イニュエンドウ制作後,すぐに次作 Made In Heaven(メイド・イン・ヘブン)の制作に入りますが,この作品を最後まで完成することができず,フレディはベッドの人となり,1992年11月23日に世界に向けてAIDSを認める声明を出すと,それから24時間以内に旅立ちつこととなりました。

フレディ死後の流れについては,あらためて書くことにします。


それでは,フレディの死後再発されフレディ最大のヒット曲となった,Living On My Own(リヴィング・オン・マイ・オウン)を最後にお聴き下さい。