◆ 火吹く人たちの神 ~30






今回で「第三章 最後のヤマトタケル」が終了、次回よりアメノヒボコ神の章へと進みます。


本書を初めて手にした20年ほど前のこと。なぜかヤマトタケルは遠い遠い存在であって、代わりにアメノヒボコ神はやや近い存在に感じました。


思えばずっとヤマトタケルを遠ざけてきましたね…


そろそろ腰を据えて勉強せねばならん時期にきたかと思います。



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過去記事一覧




第一部 青銅の神々
第三章 最後のヤマトタケル



 古代金属精錬者の悲劇の反映

足見田神社の記事が続きます。谷上健一氏にとってはとても関心が高く、よっぽどのお気に入りだったのでしょうか。実際に参拝し、宮司から直接話を伺ったようです。



足見田神社と水銀

「地名辞書」の「水沢(すいざわ)」の項には、「此村の西峰字入道嶽に …(中略)… 辰砂現出す、土砂中に往々水銀」とあるようです。

「入道嶽」(入道ヶ岳)とは椿大神社の奥宮が山頂に鎮座する山(未参拝)のことで、御神体でも。標高906m、鈴鹿山脈の一山。

足見田神社はかつて西方の「鎌が岳」の山頂で祭祀が行われていたのを、現社地に降ろしてきたという宮司談を載せています。


「鎌が岳」(鎌ヶ岳)は標高1157m、こちらも鈴鹿山脈の一山。最近は「鈴鹿セブンマウンテン」などという呼称が用いられ、「入道ヶ岳」「鎌ヶ岳」ともにその七山の一。


「水沢村誌」には、「小谷・中谷・金山」と呼ぶ地に水銀山があり、江戸時代から稼行したとあるようです。


鈴鹿山脈が全体的に「辰砂」(水銀)が採れる所だったのでしょうか。「中央構造線」よりはずいぶんと北にあたります。





◎風神と鍛冶神を祀る足見田神社

現在のご祭神は志那都比古命志那津比売命・瀬織津姫命の三座。ところがかつては志那都比古命志那津比売命ではなく、伊勢津彦神だったと谷川健一氏は宮司から確認しています。

伊勢津彦神は神武天皇より兵を向けられ、大風を起こして去ったと「伊勢国風土記」逸文にみられます。つまり志那都比古命志那津比売命伊勢津彦神もいずれも「風神」を祀っていたということに。そしてこの「風神」が起こす突風が、古代たたら製鉄に必要なものであったというのは谷川健一氏から得たもの。


多くの合祀神の中にヤマトタケルと天目一箇神がみえるとしています。

ところが私が調べた中にヤマトタケルは含まれない…。谷川健一氏が間違っているのか、私の拠所とした三重県神社庁のデータが間違っているのか分かりません。神日本磐余彦命が怪しいな…。


天目一箇神は同じ水沢町内の無格社「多度社」を合祀したものとあります。多度神社のことでしょうか。

ただし足見田神社を奉斎した「芦田首」が祖神を祀った可能性もあるとしています。そもそも多度神社も「芦田首」が奉斎していたのでしょう。


[伊勢国三重郡] 多度神社




◎「鎌ヶ岳」の水銀


足見田神社かつて鎮座していたという「鎌ヶ岳」。鎮座場所である山頂は三重県と滋賀県の境。そう考えると本書では、鈴鹿山脈から東側の多度神社ばかりが注目されているものの、西側の近江国側にも注目せねばならないと思うのです。


西側に目を向けると、「式内社 菅田神社」の論社として挙げられる竹田神社(東近江市鋳物師町)と菅田神社(近江八幡市)が鎮座。社名通りに「菅田首」が奉斎した社。

またその南西方向には御上神社が鎮座。こちらは「三上祝氏(ミカミハフリウジ)」が奉斎した社。「菅田首」は「三上祝氏」から分岐した氏族かと思われます。

歴史の古さからみて「菅田首」は、近江から伊勢へ移ったものと考えられます。一般的には壬申の乱で大海人皇子軍が塞いだことで勝利に結び付いたという、「不破関」を越えるルートが考えられますが、山中で水銀や鉄を採取する氏族のこと。もっとも険しい鈴鹿山脈をそのまま越えたのでしょう。

そうすると御上神社の地で発した「菅田首」は、鈴鹿山脈内で水銀や鉄を採鉱、今度は東に移り

多度神社方面へ移ったのではないかと考えます。


そして谷川健一氏の考えとはまったく異なり、ヤマトタケルは当社を通過したのではなく、「菅田首」の移動によるものであったと考えます。





今回はここまで。


冒頭にて記したようにヤマトタケルの章を終え、次回よりアメノヒボコ神の章へと進みます。

本書のちょうど半分にはまだ到達していません。まだまだ先は長いな…。

[近江国野州郡] 御上神社



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。