☆ 太平塚古墳
(おおひらづかこふん)
河内国石川郡
大阪府南河内郡太子町春日
(駐車スペース有り、アクセスは下部写真参照)
近鉄南大阪線の線路下にある古墳。
「二上山」の西方、丘陵南斜面に築かれています。
敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と5基の王陵を中心とした「磯長谷古墳群」の北端に位置します。またかつての「大坂道」の起点と思われる場所。
「大坂道」とは、大和国葛下郡の長尾神社から、大坂山口神社(香芝市穴虫)または大坂山口神社(香芝市逢坂)の側を通過し、「二上山 雄岳」北側を通り河内国「石川郡春日」へ、さらに「古市郡安宿(あすか)」へと通ずる道。現在と同様に大和国と河内国・摂津国・和泉国の北部とを結ぶ、もっとも利用された官道の一つ。
5基の王陵が「二上山 雌岳」の南側を通過する「竹之内街道」とは、北側に分岐した道。
(→下部に地形図を掲示)
既に石室上部に線路が敷設されているため、墳形等は不明。一辺25mほどの方墳または径30mほどの円墳とみられています。
両袖式の横穴式石室。石室全長14mという大型のもの。7世紀前半または後半に築造と推定。
規模や立地から鑑みて、かなりの有力者の墓であろうとされます。真の孝徳天皇陵(645~654年)ではないかとも。
孝徳天皇は「乙巳の変」後に混乱を避けるために「難波宮」に遷座。ところが中大兄皇子をを始め、臣下全員、皇后に至るまで飛鳥(遠つ飛鳥)へ戻ります。天皇は独り取り残され、翌年に孤独死してしまいました。
もし築造されたのが7世紀後半であるとすれば、「大化の薄葬令」以後の古墳。
「王以上」「上臣」「下臣」「大仁・小仁」「大礼~小智」「庶民」と階級に応じて、古墳や埋葬施設の規模、役夫人数と工事日数、殯の期間などに至るまで細かく規定されました。
そして当古墳の埋葬施設の大きさが「王以上」に当たるとのこと。つまり皇族が葬られたということになります。