☆ 用明天皇 河内磯長原陵
(こうちしながはらのみささぎ)



河内国石川郡
大阪府南河内郡太子町大字春日
(P有、常時開放されているかは不明)



第31代用明天皇の治定墓。

「二上山」と「岩橋山」との間の谷筋を縫うように走る「竹内街道」沿い、「王陵の谷」と称され、敏達天皇陵・用命天皇陵・推古天皇陵孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。

周辺の古墳を含めて「磯長谷古墳群」と称されます。


学術名は「春日向井山古墳」。

東西65m南北60mの方墳。空壕が巡らされ、外堤までも含めると100mほどに及ぶとのこと。


平成二十四年に立入調査が行われたようです。埴輪は確認されておらず、既にこの頃には埴輪が設置されなくなったことが窺えます。

古文書等から横穴式石室ではないかとされています。築造時期は7世紀前半頃と推定。


用明天皇は「聖徳太子の父」と記すのが通り良いでしょうか。
仏教受容の否定派であった敏達天皇の次に即位。蘇我稲目の娘である堅塩媛(キタシヒメ)が母であり、この時代から一気に仏教受容が加速します。

用明天皇は疱瘡(天然痘)に罹り、即位後わずか2年で崩御。異国の宗教を受容したからと捉えら
れたのは当然の帰結。密かに暗殺説までも。

寿墓(即位後すぐから御陵を築造)するも間に合わなかったようで、先ずは「磐余池上陵(いはれいけのへのみささぎ)」に葬られてから、こちらに改葬されています。


北東角から南東方向を。砂利舗装されたすべてが駐車場ですが、たまたまなのか、常時開放されているのかは不明。






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