☆ 聖徳太子御廟 (叡福寺北古墳)



河内国石川郡
大阪府南河内郡太子町太子2146
(叡福寺の無料P有り)



「聖徳太子 磯長(しなが)墓」の治定墓。

叡福寺という仏教施設内にあり、その施設はこの墓を以て創建されたものと思われます。伝承によると、推古天皇が太子の御廟を守護するために創建した…となっています。寺門から真っ直ぐ進んだ先に御廟があるのがその理由かと。

径54.3mの円墳。周囲は「結界石」という二重の石列に囲われています(後の時代に造られた)。

横穴式石室。3基の棺があり、中央は穴穂部間人皇女(母)、東西に聖徳太子と膳部菩岐々美郎女(妻、カシワデノホキキミノイラツメ)とみられています。

美しい切石で囲われた石室内部(明治以降は立入禁止)。高市郡の岩屋山古墳と相似するとのこと。ただし当墓が7世紀前半であるのに対し、岩屋山古墳は7世紀後半に築造。

太子の薨去は推古天皇三十年(622年)、享年49歳(紀は推古天皇二十九年とする)。妻の膳部菩岐々美郎女は太子の前日に亡くなり、母の穴穂部間人皇女は2ヶ月前に薨去し、ともに合葬されているとみられます。

宮内庁管轄の治定墓の中には、治定間違いであろうとされる古墳も多くありますが、こちらは真の太子の墓である可能性が高いとされます。

「二上山」の西側麓の丘陵地を利用して築かれています。
周辺一帯は「磯長谷古墳群」と称され、敏達天皇陵用明天皇陵推古天皇陵孝徳天皇陵・そして当古墳を始めとした約30基ほどからなる古墳群。天皇陵が密集していることから一帯は「王陵の谷」、5基の御陵(太子量を 含む)を5枚の花びらに見立て「梅鉢御陵」とも。

飛鳥、斑鳩とはかけ離れたこの「二上山」が墓所として選ばれたのは、おそらくは西方浄土思想、仏教などという宗教のものと思われます。

また「太陽の道」(北緯32度34分上のライン)上にあり、これは西方浄土思想を裏付けるものかと思います。

斑鳩宮で薨去したとされ、こちらまで移葬されたルートは「太子葬送の道」と称され、「太子道」の一つとなっています。道中には所縁の史跡も。

太子信仰が興隆したのは後の時代であることから、伝承は後世の附会も多いように思いますが、当時の天皇などの葬送儀礼が窺える資料の一つと言えるかと。





二重の「結界石」で囲われています。


鎮守社 科長岡神社からもう少し登った所から撮影を。






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