☆ 敏達天皇 河内磯長中尾陵 (太子西山古墳)



河内国石川郡
大阪府南河内郡太子町大字太子
(P無し、近隣停め置き不可)



第30代敏達天皇の治定墓。母の石姫皇女が合葬されています。

「王陵の谷」と称される敏達天皇陵・用明天皇陵推古天皇陵孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。5つの陵墓がまるで梅の花びらの如くと「梅鉢御陵」とも。


「二上山」と「岩橋山」との間の谷筋を縫うように走る「竹内街道」。5つの陵墓はこの街道筋付近に築かれました。「磯長谷(しながだに)」と呼ばれています。また周辺の古墳を含めて「磯長谷古墳群」と呼ばれています。


全長113m(93m説有り)の巨大前方後円墳。埴輪片が出土。古墳時代後期前半(6世紀前半頃)築造とみられています。

紀には敏達天皇十四年に崩御、石姫皇女墓に追葬されたとあります。「延喜式」諸陵寮の記載は東西、南北ともに三町。平安時代の長さに換算するとおよそ330m。

もし治定が正しいとすれば、天皇陵としては最後の前方後円墳。既に天皇陵以外では前方後円墳は見られなくなっており、また天皇陵以外のその他古墳との規模等の格差が広がっています。そのような中、次代の用明天皇より前方後円墳が築かれなくなったように思います。

ただし葉室塚古墳を葬られた墓とする説もあるようです。


気になる点があります。
一つは崩御後、6年経過してから葬られていること。それまでは崩御後1年以内に葬られていることから鑑みて、異常なこと。また次代の用明天皇の方が先に葬られています。

これに対しては改葬説も有り。欽明天皇陵が治定違いで、そちらに先ずは葬られた後、現御陵に改葬されたというもの。改葬という記述は見られないものの、十分に考え得ることかと思います。







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