☆ 欽明天皇 檜隈坂合陵 (梅山古墳)
(ひのくまのさかあいのみささぎ)
大和国高市郡
奈良県高市郡明日香村平田
(P有)
第29代欽明天皇と妃である蘇我堅塩媛(ソガノキタシヒメ)の治定陵墓。堅塩媛は蘇我稲目の娘。
周濠を持つ全長140mの前方後円墳。
築造当時から周濠があったのかは不明、前方後円墳であったのかも不明(双円墳の可能性も)。
推古天皇の父というのが通り良いでしょうか。
また蘇我氏から妃を迎え入れ、蘇我氏全盛の起点になったとされます。
欽明天皇と言えば「仏教公伝」で有名。そもそも当て付けのような算式から導き出された年代のようですが。
歴史の趨勢をみる上で重要なことは他にも、応神天皇の「男系血統」と仁徳天皇以降の「王朝血統」との統合とがあり、これは現皇統の祖であるということも。
これは父の継体天皇擁立に関わること。仁徳天皇以降の「王朝血統」断絶により、応神天皇の「男系血統」(五世孫)である継体天皇が擁立。「王朝血統」である手白香皇女を立后させることで、両者を統合させたというもの。そうして生まれたのが欽明天皇であり、ここから現皇統が始まったと言えます。
なお継体天皇の後には、異母兄弟(妃 目子媛の子)の安閑天皇・宣化天皇が即位し、その次に欽明天皇が継承しています。
もう一つは、欽明天皇二十三年(562年)の任那滅亡。新羅により滅ぼされました。
この前にも高句麗・百済・新羅により長らく圧迫されていました。そんな中、高句麗に北部を奪われた百済が任那四県の割譲要請があり、時の権力者であった大伴金村が受諾します。その後、欽明天皇元年(540年)に任那は新羅により併合。金村は失脚します。
この時に糾弾したのが物部尾輿等。金村は四県割譲の際に百済より賄賂を受け取っていたことが発覚します。欽明天皇に妃を送った蘇我氏とともに、物部・蘇我の二極体制となり、大伴氏は没落することとなりました。
*写真は2018年4月と2023年10月撮影のものとが混在しています。
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