◆ 「二上山」慕情
【~17 二上山麓を辿る道 (5)】






「二上山」の「竹内峠」越えルートは、普段の通勤道として使っています。厳密には古道とは若干外れている部分もあるのですが。

通過するのは朝の6時頃と深夜2時頃。

ほとんどが真っ暗な夜道。
情緒なんてものは無いのですが。

このような記事を起こしていると、
何か因縁めいたものを感じずにはいられません。




■ 「竹内峠」越えルートの遺跡

既にご紹介しているものもありますが、このルート周辺の史跡等を紹介していきます。

月一で参拝を続けている金山彦神社金山媛神社へは、ほとんどがこちらのルートを利用しています。「二上山」を仰ぎつつのドライブです。




◎火葬墓

文献では文武天皇四年(700年)の僧侶によるものが最初ですが、九州では弥生時代のものと見られる火葬墓が数例発見されているようです。

まとまった事例としては和泉国の南東部、「陶器千塚古墳群」の「カマド塚」と称される古墳。古墳群はほぼ消滅し、現存していません。6世紀末~7世紀初頭のものであるとか。
当地は渡来人、「陶部」たちが古墳時代に須恵器を大量生産し供給していた地。

なお史上初めて火葬された天皇は持統天皇。

この「二上山麓」の火葬墓はいずれも単独墓であり、新興勢力に属する人たちのものではないかと見られています。

*威奈大村火葬墓
大坂山口神社(香芝市穴虫)の南方丘陵で発見された、391文字の墓誌銘付きの火葬墓。金銅製骨蔵器。宣化天皇の子孫で、持統・文武朝の官人。


「威奈大村火葬墓」の金銅製骨蔵器(二上山博物館より)。


*穴虫火葬墓
「穴虫」北側の丘陵斜面で凝灰岩製の家型骨蔵器が出土。立方体の石櫃に寄棟造の蓋を載せたような形。奈良時代のもの。

*高山火葬墓
「穴虫」北側の丘陵東端。一辺1mほどの墓壙(ぼこう)に木炭を敷き、なかに須恵器と土師器の壺、2つの骨蔵器が納めてあったとのこと。2~3人の合葬墓。奈良時代のもの。


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◎石切場遺跡

「二上山」で産出される「凝灰岩」は軟質で加工しやすく、白く美しいことから広く利用されました。
・古墳時代 … 石棺
・飛鳥/奈良時代 … 寺院や宮殿の基壇
・中世 … 石塔

*穴虫石切場遺跡
古墳時代後期の組合せ式石棺材の石切場跡の可能性が考えられているようです。

*高山石切場遺跡
大型石材と小型石材を採石する遺構とに分けられ、古墳時代~奈良/飛鳥時代~中世まで幅広く採石されていたようです。

他に「屯鶴峯石切場跡」「牡丹洞石切場跡」が確認されています。周辺の石切場の利用開始は6世紀代とみられています。

石切場からの切り出し、搬出、組み立て等、これらを一体的に経営していた石工集団の存在が想定できるとのこと。おそらくは「二上山東麓の當麻地域をとりまとめる有力集団のもとに組織されていたと考えられる」と。



二上山「屯鶴峯」の「屯鶴峯石切場跡」らしき場所。

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◎「穴虫峠」越えの利用

上記のように6世紀代に後期古墳の石棺材が採石されていれば、その時期に運搬用道路が整備された可能性があります。

また第14回目の記事で記した太子町の太平塚古墳は、
━━河内側に下ったところにある7世紀中葉頃の切石石室の古墳です。この道の設置・管理に関わった有力者の墓と想定することもできます━━と。

前回の記事にて記した壬申の乱の「大坂」は、「穴虫峠」越えルートのことで間違いないかと。
そうすると━━早ければ6世紀頃から盛んに利用され、7世紀中葉以降に本格的に整備された可能性が考えられる━━としています。


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*白ヌキの道 … 北へ「長尾街道」、西へ「穴虫峠」越えルートへ
*赤の道 … 「竹内街道」(「竹内峠」越えルートへ)
*緑の道 … 「横大路」
おおよその場所ということで御容赦願います。



◎香芝の集落遺跡と交通路

前項で「早ければ6世紀頃から…」としましたが、これに対して市村慎太郎氏(大阪近つ飛鳥博物館 総括学芸員)は、ルート沿いの集落遺跡の分布から古墳時代を通じて重視されていたと唱えているようです。

*藤ノ木丁遺跡
━━古墳時代中期の流路から朝鮮半島系の陶質土器(専用の窯で焼かれた硬質の土器、須恵器につながる)と軟質土器(煮炊き用などの赤焼き土器、渡来人が持ってきた、またはこちらで作った土器)が出土しました。
近くでは竹内峠越えの麓の葛城市竹内遺跡で、河内南部の泉北丘陵の大阪府南部古窯址群(陶邑窯跡群)から運ばれた初期須恵器の多くの破片が溝に捨てられていました。竹内で土器を配分して運びだすときに、渡来人の一世または二世が関わったのでしょうか━━

→ 「大阪府南部古窯址群(陶邑窯跡群)」については、陶荒田神社の記事を参照下さい。


*下田東遺跡
古墳時代中期の「鞍」などが出土。5世紀初頭頃のものとされ、河内の牧(四條畷市付近)から直接来た可能性も。
馬には馬飼い人が伴い、集団の移住の契機になったのかも。これが下田東1号墳の築造につながったとみることができるとしています。

「讚良(さらら)の牧」とも称され、現在の四條畷市から大東市にかけて、渡来人が伝えた馬飼いが広く行われていたとされます。

*下田東1号墳
全長21mの帆立貝型前方後円墳。周濠有り。5世紀後半~末。原型は留めていません。
多数の円筒埴輪、馬形・人物・鶏形・家形の形象埴輪が出土。既に平安前期頃に掘平され石室等は破壊されたようです。なお縄文晩期の土器や石器も出土しています。

同時期で南西600mほどに築造されている全長140mの狐井城山古墳や、子持勾玉が出土した狐井稲荷古墳との関連が気になるところ。狐井城山古墳は葛城氏のもの、葦田宿禰(葛城襲津彦の子)とする説もあるようです。
葛城氏は朝鮮半島に対しての軍事・外交の担い手であり、また半島から捕虜を連れ帰り製鉄などに従事させていたと伝わります。





今回はここまで。

まだもう少しこのテーマ記事を続けていきます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。