◆ 「祝詞新講」 次田閏著 (~8)






「祝詞」には独特な表現方法があります。

詞(ことば)を重ねること、
該当する事柄をひたすら並べたてるもの…など。

なかには延々と…どんだけ~!と
並べたてるものも。


例えば「大祓詞」には、

八百萬の神等を神集へに集へ賜ひ…
事依さし奉りき 此く依さし奉りき…
神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて…
伊頭(いつ)の千別(ちわき)に千別きて…


「祈年祭」には、

初穗をば千穎八百穎(ちかひやほかひ)に奉り置きて 𤭖(みか)の閉高(へたか)知り 𤭖の腹滿て雙べて(ならべて) 汁にも穎にも稱辭(たたへごと)竟へ(おへ)奉らむ…

*穎(かひ) … 稲穂の先
*𤭖(みか) … 祭器(大きな甕)


「祝詞」とはそういうものだ。
そんなふうに漠然と受け止めていましたが、そうなるにはもちろん理由があります。

今回はそんなお話を。


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■過去記事
* ~1 序

* ~2 緒言
* ~3 祝詞の名義
* ~4 呪物崇拜と言靈信仰
* ~5 祭祀と政治
* ~7 祝詞の沿革

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■ 「祝詞」の内容と形式

◎「祝詞」の目的

「祝詞」の主眼は、「天皇皇室の長久繁榮、竝に國家國民の無事幸福を祈願する事」としています。
もう少し詳しくは第5回目の記事の最後に挙げています。

祭祀の目的の上から見ると、さらに以下の目的があると次田潤氏はしています。

*「祈年祭」「月次祭(つきなみのまつり)
穀物の豊熟を祈り、併せて皇室竝に天下の平安を祈る

*「廣瀬大忌祭」「龍田風神祭」
風水の災害なくして、五穀の豊穣せんことを祈る

*「神嘗祭(かむなめのまつり)
新穀を神に捧げて豊作を感謝し、御世の長久を祝する

*「鎭御魂齋戸祭」「遷却崇神祭」「道饗祭」
天皇を始め皇室の恙なく(つつがなく)榮え給はん事を祈る

*「大殿祭」「御門祭」「鎭火祭」等
宮殿の安穩を祈る

*「春日祭」「平野祭」
皇室外戚の祖神を祭る祝詞
御世の長久を祈り、百官の安泰を願ふ

*「大祓」(六月十二月兩度)
國民全體が過ち犯した種々の罪穢を、祓ひ淸める事を祈願する

*「中臣壽詞」「出雲國造神賀詞」
その他の御世の長久を壽ぐ(ことほぐ)

*遣唐使時奉幣の祝詞
異郷に渡る遣唐使の安全を祈る

*伊勢兩神宮の祭祀に用ゐられる祝詞が數篇(数篇)ある



「春日祭」が行われる春日大社



◎「祝詞」の組織の略一定の型

「祝詞」は冒頭と結語とを別にして、大体は二部からなります。

*祭祀の本緣または來歴を語る所の「神話的記述」

*神德を稱へ幣帛(みてぐら)を献って(たてまつって、=献上すること)、祈願の旨を述べる所の「祈禱的記述」

「祝詞」の中には「祈禱的記述」だけから成り、「神話的記述」を欠くものがあるが、それ等は主として比較的新しい時代の制作に係るもの。

*「神話的記述」を有するもの(古い時代の制作によるもの)は以下の通り。これらの神話伝説には記紀の如く國史に採用されなかった異説を見出すことができるとしています。
・龍田風神祭
・大殿祭 (忌部氏)
・大祓 (中臣氏)
・鎭火祭 (中臣氏)
・遷却崇神祭
・遣唐使時奉幣等の祝詞
・出雲國造神賀詞 (出雲國造)
・中臣壽詞 (中臣氏)

*「祈禱的記述」は「祝詞」の本部であって、祭祀に祭るべき神々御名を連ねて、その神德を頌し(=誉め称え)、御幣帛(みてぐら)として飮食衣服調度の数々を献る(たてまつる)事を叙べて(のべて、=順序立てて述べること)、祈請の旨を叙べているとしています。
そうして「祈願の旨を述べるに当たって、品々を尽くして献る幣帛の代償として、神明の加護を受けようとする幼稚な宗教思想が…」などと次田潤氏は貶していますが。

比較的新しい「祝詞」として、
「春日祭」「廣瀬大忌祭」「龍田風神祭」「平野祭」等を挙げています。これらは「神寶幣帛(かむたからみてぐら)」の品目を列挙する部分が、殊に冗長なる文章になっていると。

結論を以下のように記しています。
━━祝詞の構造は、神話的記述と祈禱的記述の二大部から成つてゐるのであつて、神話的記述によつては、参集せる人々の想像を、遠く神代の昔に立返らしめ、是によつて先づ時間的に莊嚴の感を與へ、次で祈禱的記述に於ては、祭られる神や、神に仕へる人々を列擧し、神寶及び幣帛の種類を羅列する事によつて、空間的に雄大の感を起させるのである━━



◎列挙と羅列

「祝詞」は「謹嚴莊重」を第一義とするものであるから、その表現方法は「文学」とは自ら異なるとしています。努めて抽象的な叙述によって、漠然として広大な感を与える事を特色としていると。

「廣瀬大忌祭」
━━山に住む物は、毛の和き(にごき)物 毛の荒き物、大野の原に生ふる物は、甘菜辛菜、青海原に住む物は、鰭(はた、=ヒレ)の廣き物 鰭の狹き(さき)物、奥津藻菜 邊津藻菜に至るまで置き足らはして━━

「祈年祭」
━━手肱(たなひぢ)に水沫(みなわ)畫き(かき)垂り、向股(むなもも)に泥(ひぢ)畫き寄せ━━

「大殿祭」
━━奥山の大峽小峽(おほかひこかひ)に立てる木を、齋部の齋斧を持ちて伐り採りて━━

「祈年祭」
━━疎ぶる(うとぶる)物の、下より往かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守日の守に守り奉る━━

以上のように一例が示されています。「語を重ね句を疊んで冗長を厭はない」「種々の善言美辭を繰り返し…」と述べています。



「廣瀬大忌祭」が行われる廣瀬大社



◎「祝詞」の修辞法

文章に豊かな表現を与えるための「修辞法」ですが、「祝詞」には独特な特色があります。

━━斬新な譬喩(比喩)や警拔(抜きん出てすぐれていること)な誇張などは用ゐないのである。寧ろ裝飾的技巧を用ゐないのが特色である━━

ただし主として「天然物」に関しては、「譬喩」の比較や対照に用いられるとしています。

「嚴し(いかし)彌木生(やくはえ)の如く立ち榮えて」
「五百都磐村(ゆついはむら)の如く塞り坐して」

また「誇張」にあっても、飽くまでも「眞率」(ありのままで飾り気がないこと)であって、技巧を弄する(もてあそぶこと)ようなことはないと。

「横山の如く置き足らはして」
「下津磐根に宮柱太敷き立て」



◎「祝詞」は耳に訴えるもの

目で読み感情に訴えて味わう…といった他の一般の文章とは異なり、「祝詞」は耳に訴えて厳粛な宗教感情を起こさせる事を必要とする、と次田潤氏はしています。

従って「音律の快美」「格調の莊重」という事が、第一に要求せられると。



◎「列挙法」「反覆法」「對句法」

「祝詞」に対して次田潤氏は、しきりに「雄大」「莊重」といった言葉を繰り返し用いています。他にも「快美」「流麗」なども。

確かに…。

文章として目で見ると、あまりに重ねられるとついつい飛ばし読みしそうになるのですが、司祭者が読み上げる「音」は重ねられるほどに身が引き締まるような感覚を覚えます。

この方面の技巧として最も頻繁に用いられ、また特に発達を遂げているのは「列挙法」「反覆法」(反復法)「対句法」(対句法)の三つであると。いくつかの例を抽出して挙げておきます。

「祈年祭」
━━神魂(カミムスビ)・高御魂(タカミムスビ)・生魂(イクムスビ)・足魂(タルムスビ)・玉留魂(タマツメムスビ)大宮之賣(オオミヤノメ)・大御膳都神(オホミケツカミ)・辭代主(コトシロヌシ)と御名は白して(まをして)━━

「春日祭」
━━貢る(たてまつる)神寶(かむたから)は、御鏡・御横刀(みはかし)・御弓(みとらし)・御桙・御馬に備へ奉り━━

「龍田風神祭」
━━女神(ひめがみ)に御服(みそ)備へ、金(こがね)の麻笥(をけ)・金の椯(たたり)・金の挊(かせ)・明妙(あかるたへ)・照妙・和妙(にぎたへ)・荒妙、五色(いついろ)の物、御鞍具へて(そなへて)、雜(くさぐさ)の幣帛奉り━━

「祈年祭」
━━皇神(すめがみ)の見霽かし(みはるかし)坐す四方の國は、天の壁立つ(かきたつ)(きはみ)、國の壁立つ(かきたつ)限、靑雲の靄く(たなびく)極、白雲の堕坐向伏す(おりゐむかふす)限、靑海原は棹柁(かぢ)干さず、舟の艫(へ)の至り留まる極、大海原に舟滿ち都都氣て(つづけて)、陸(くが)より往く道は荷の緖縛ひ(ゆひ)堅めて、磐根木根履み(ふみ)佐久彌て、馬の爪の至り留まる限、長道(ながぢ)(ひま)無く立ち都都氣て━━

以上のように主に「列挙法」「反復法」「対句法」の三つを併用し、互いに相援けあうことでさらに良いものになっているとしています。

以下、次田潤氏が「修辭の名句」と称するものを2つ掲載しておきます。

「大祓」
━━天津神は、天の磐門を押し抜きて、天の八重雲を伊頭(いつ)の千別き(ちわき)に千別きて、聞こし食(め)さむ。國津神は、高山の末短山(ひきやま)の末に上り坐して、高山の伊穗理、短山の伊穗理を掻き別けて、聞こし食さむ━━

━━科戸(しなと)の風の、天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)の御霧夕の御霧を、朝風夕風の吹き掃ふ事の如く、大津邊(おほつべ)に居る大船を、舳(へ)解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く、彼方(をちかた)の繁木(しげき)が下(もと)を、燒鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)以ちて、打ち掃ふ事の如く、遺る(のこる)罪は在らじと、祓ひ給へ淸め給ふ事を…━━

私の好きな「祝詞」の好きな箇所だ~!
これ以外に多くは知らないのですが。
「祝詞」の醍醐味のような「快美な音」ですね。

次田潤氏はこの項のまとめとして以下のように記しています。少々長いですが、氏の熱い思いが伝わるのでひとくくり全文を引用します。

━━(「祝詞」は) 言靈の活きによつて、神意を動かす事を主眼とするものであるから、内容よりも形式の方を重んずるのである。從つて僅少の語彙を用ゐ、素朴にして單純な發表をなす中にも、莊重な節奏、崇高な宗教感情を振りです起する事に、全力を注いでゐるのである。祝詞の長所は、内容の複雜や形式の變化(変化)の上にあるものではなく、丁寧周密を極め、何等の省略を用ゐない所の、眞率莊重な表現、竝に(並びに)それに相應した、莊重にして快美な諧調の上にあるのである━━

短所についても言及しています。

━━併し(しかし)祝詞には短所がある。其の一篇だけを取り出して見る時には、以上述べたやうに、規模が雄大であり、形式が莊重であるが、各篇を見渡す時には、内容組織修辭共に一定の型があつて、變化(変化)に乏しく極めて單調(単調)な感が起る。祝詞が記紀の神代卷や、萬葉集などに較べて、文學的價値(価値)が低いと謂われるのは、此の點(点)からである。併し(しかし)祝詞は單調であり類型的である故を以て、其の價値を失ふものではない。上代國民の宗教感情を叙べた叙情詩的叙事文學として、永遠に輝くものである━━


「大祓詞」 (河内国河内郡 石切劔箭神社の「神拜詞」より)



今回はここまで。

次田潤氏の「祝詞」への熱い思い入れがひしひしと伝わってきました。
そして私自身もつられて深みへ足を踏み入れるのか?

小難しい記事にお付き合い頂きありがとうございました。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。