◆ 「祝詞新講」 次田閏著 (~4 )






少々お堅めの記事となってはいるのですが…

会話レベルに平易にすると
なかなか面白くて魅力的なものになると思っています。

まだまだ自身にそこまでできるほど
頭中に落ちてはいないのですが。

格段に自身がレベルアップできそうですし。

流れというものがあるのでしょうか。
これを学ぶ方向へ導いて頂いたのは…

神ですか?

そう思っておくことにします。


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■過去記事
* ~1 序

* ~2 緒言
* ~3 祝詞の名義

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■ 呪物崇拜と言靈信仰

◎呪物崇拜

「祝詞」は上古に行われた原始的な「いのり」(祈祷)の詞から発達したもの。その広義に於いては、原始時代に行われた「禁厭(まじなひ)・呪詛(のろひ)」をも含むと次田潤氏はしています。

そして記紀神話を見るに、「神祗崇拜と呪物崇拜とが竝び(ならび)行われてゐた」とし、その「二者の間に區別(区別)を立てる事の困難を感ずる場合がある」とも。

*「神祗崇拜」とは
「神祗」とは「天神地祗」。「天神」と「地祗」、つまり「天地の神々」のこと。それらを崇拜すること。

*「呪物崇拜」とは
━━自然崇拜の一であって、自然物に一種不可思議な靈力が宿つてゐて、それが人間の吉凶禍福を左右すると信ずるもの━━と定義しています。
そして「呪物崇拜」の例が上げられています。
・大國主命神話の「領布(ひれ)」
・彦火火出見命神話の「潮盈珠潮乾珠(しほみつたましほひるたま)」
・饒速日命神話の「十種の瑞寳(とくさのみづのたから)」
・木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤヒメ)と石長比賣(イワナガヒメ)姉妹の神話の「花と石」 など
・少名毘古那神の神話の「曾富騰(そほど)」(案山子のこと)
・櫛磐牖命(クシイハマドノミコト)・豊磐牖命には岩石崇拜の名残
・「鎮火祭」における火結神(ホムスビノカミ)とそれを鎮めるための「水神・匏(ひさご)・川菜・埴山姫四種(よくさ)の物」



「曾富騰(そほど)」(曽富止、=久延毘古神)を祀るという大和国城上郡の久延毘古神社(大神神社 摂社)




◎「禁厭(まじなひ)」と「呪詛(のろひ)」

呪物に宿る靈力によって、災禍を免れる事を祈るのが「禁厭」。
自分が憎悪する者の上に、災厄を下そうとして祈るのが「呪詛」。

*言靈信仰
━━禁厭呪詛を行ふ時には、呪物を作り構へるのであるが、それと同時に、吉凶を招く呪文を唱へる事が多い。呪文を唱へるのは上代人の間に廣く信じられてゐた、言靈信仰によるのである。それ故呪物崇拜はまた屢(しば、=しばしば)、言靈信仰と相伴ふものであると言ふ事が出来る━━

*「禁厭」
従来は「マジナヒヤム」と訓んでいたとのこと。これを「マジナフ」としたのは宣長。
「まじなひ」という語は「御門祭」の祝詞に「麻自許利(まじこり)」、大祓詞に「蠱物(まじもの)」とあるのと同じで、吉凶何れにも用いられる語。

・「御門祭」 … 皇居の門に入る邪神を祓うために毎年6月と12月に行われた祭。
・「麻自許利」 … まじないに罹る(かかる)こと。
・「蠱物」 … まじないをして相手を呪うこと。

紀の神代巻の第八段一書に、大己貴命と少彦名命による国作り神話において、
━━顕見蒼生(うつしきあおひと、=人間)と畜産(=獣)のために病を癒やす方法を定めた。また鳥・獣・虫の災いを攘おう(=払う)とし、「禁厭(まじなひやむる)」の方法を定めた。これを以て百姓(おみたから)は悉く恩賴(みたまのふゆ)の恩恵を受けている━━とあります。

「先代旧事本紀」には、
━━若し痛む処有ればこの十種寳(とくさのたから)を申し付けて、「一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやここのとお)」と謂い、「布留部 由良由良止布留部(ふるべゆらゆらたふるへ)」とこのようにすれば、死人(まかれる人)も生き返るのだ━━とあります。
これは鎮魂祭の起源であり、一種の「禁厭」であるとしています。



「鎮魂祭」が行われる一社、石見国一ノ宮 物部神社(写真は2017年頃撮影のものと思います)。他に行われるのは宮中・石上神宮彌彦神社のみ。



*「呪詛」
古語に「詛(とごひ)」と言い、「かじり」(呪詛)と言うのがこれであると。

記の応神天皇の段に、
━━秋山之下氷壮夫(アキヤマノシタヒヲトコ)と春山之霞壮夫(ハルヤマノカスミヲトコ)兄弟が賭をして伊豆志袁登賣(イヅシヲトメ)を娶ろうと争った。負けた兄が約束の賭物を出さなかったので、母が弟に、兄を懲らす為に「とごひ」を教えた━━といった説話が記されます。

その「とごひ」は、先ず呪物を作ることから。
━━伊豆志河の節竹を取って、八ツ目(網目の粗い)の籠を作り、河の石を取って、鹽に和えて竹の葉に包む━━

次に以下を唱えると。
━━此の竹葉(たかは)の靑むが如(ごと)、此の竹葉の萎む(しぼむ)が如、靑み萎め。又此の鹽の盈ち(みち)乾る(ひる)が如、盈ち乾よ。又此の石の沈むが如、沈み臥せ(こやせ)━━

これを竈の上に置かせると、果たして兄は八年の間、乾枯び病み臥したと記されています。

神武東征神話にも「とごひ」がみられます。
天皇が兄磯城(エシキ)を撃つ時、一夜誓約(うけひ)をして、天神のお告げを乞うた、その中に「嚴呪詛(いつのかじり)」が見えます。

━━天香山社中の土(はに)を宜しく取りて、天平瓮(あめのひらか)ハ十枚を造り、併せて嚴瓮(いつへ)を造り、天神地祇を祭り敬い、亦た嚴呪詛(いつのかじり)を為すと虜は自ずから平伏する━━

*「呪物崇拜」と「言靈信仰」の結合
「禁厭」と「呪詛」の特色を3点挙げています。
・神の教えによってこれを行う事
・呪物を作り構える事
・呪物を設けると共にしばしば呪文を唱えた事
「呪術」の宗教意識は、「呪物崇拜」と「言靈信仰」の結合からなるものであると考えられるとしています。

*「言靈信仰」
次田潤氏は「言靈信仰といふのは…」として、以下のように語っています。
━━言語に一種の神秘的な靈力が宿つてゐて、それが人間の吉凶禍福を左右するものであると信ずるのである。卽ち他人に對して(対して)凶言を發てば、其の言語の善靈の活動によつて、吉事を招く事が出來ると信ずるのである━━

続けて…
━━此の信仰は我が民族に限らず、他の多くの原始民族の間にも、廣く行はれてゐるものであるけれども、我が民族には、上古以來特に盛に行はれてゐて、凶言を忌み吉言を喜ぶ風習が、日常生活の上に於て、種々の形となつて廣く行はれてゐる。
萬葉集に我が國の事を「言靈の幸ふ(さきはふ)國」(卷五 山上憶良作歌好去好來歌參照)といひ、又「言靈のたすくる國」(卷十三 柿本朝臣人麻呂歌集中の反歌參照)と云つてゐる。これは、我が國は言語の善靈の活きが、特に著しく發揮せられる國柄であるといふ信念を現したものであつて、上代人が如何に言靈を篤く信じてゐたかといふ事を、最も有力に示すものである━━

*「凶言」
上古より「凶言」によって、人に凶事を与える事が出来ると信じられてきました。

記の神代巻、天若日子の伝説。
━━葦原中国の平定の為に、弓矢を授けて2番目に降ろされた天若日子。ところが下照比売と結ばれ、葦原中国を得ようと企み高天原に還って来なかった。不審に思った天照大御神と高木神は雉の鳴女を遣いに様子を探らせた。天若日子は雉を矢で射貫き、高天原まで届いた。高木神がその矢を取り、「若し天若日子が命令通りに悪ぶる神を射た矢が届いたのなら、天若日子には当たらない。若し邪心が有れば天若日子は此の矢にまがれ(禍有れ)」と言って矢を衝き返した。果たして矢は天若日子に命中した━━

「まがれ(禍有れ)」というのは現在の語で言えば、「くたばれ」というような意味。即ち「凶言」であるとしています。

記の神代巻、山幸海幸の神話。
━━綿津見神が火遠理命(ホオリノミコト)に、其の兄 火照命(ホデリノミコト)が責め徴る(はたる)釣針を返す時、「此の鉤(はり)は淤煩鉤(おぼち)・須須鉤(すすち)・貧鉤(まぢち)・宇流鉤(うるち)と云ひて後手(しりへて)に賜へ」と教えた━━

「淤煩鉤・須須鉤・貧鉤・宇流鉤」は、「憂鬱になる鉤・あわてる鉤・貧乏になる鉤・愚鈍になる鉤」という意味。その「鉤」を手にする兄神に、その言葉通りの「禍」があるように「呪う」こと。


日向国の鵜戸神宮。「山幸海幸」に登場する「潮干瓊・潮満瓊」が神宝として伝わる。
*画像はWikiより



*「忌詞」
後世には上古以来の「凶言」を忌む習慣が現れます。上代に於ける不吉の語を忌み憚る風習は、中世に及んで「忌詞」の発生を見るに至ったとしています。

伊勢の斎宮では「穢れに近づいてはならない」ということから、仏教は忌み憚られていました。そして仏教語や不浄語は代わりの言葉が使われました。
「延喜式」巻五、「斎宮式」忌詞条には以下が記されています。

━━凡そ忌詞、内七言、佛を「中子」と称す・経を「染紙」と称す・塔を「阿良良岐」と称す・寺を「瓦葺」と称す・僧を「髪長」と称す・尼を「女髪長」と称す・齋を「片膳(かたしき)」と称す。外七言、死を「奈保留」と称す・病を「夜須美(やすみ)」と称す・哭を「鹽垂」と称す・血を「阿世」と称す・打を「撫(なづ)」と称す・宍を「菌(くさびら)」と称す・墓を「壌(つちくれ)」と称す。又別忌詞、堂を「香燃(かわたき)」と称す・優婆塞(うばそく)を「角筈(つのはづ)」と称す━━

「優婆塞」とは在家の仏教信者のこと。

同様のことが「皇太神宮儀式帳」にも見えます。これは神祇が忌み嫌う語を避けて他の語を代用するのであって、「言靈信仰」から起こった風習であるとしています。

*「壽歌(ほぎうた)」「賀詞(よごと)」
「呪詛」に伴う「呪文」は「凶言」から成るもので、忌み嫌われ自然発達しないが、これに反して吉事を祈る「禁厭」の詞や祝賀の意を述べる「吉詞」は、人が好んで用い、またこれを聞くことを欲するものであるから自然発達したとしています。
それらは漸次、美文もしくは歌謠の如きものとなり、遂に「賀詞(よごと)」となり「祝詞」の文となったとしています。

そして祝賀の意を述べるものに、古くは「壽歌(ほぎうた)」と「賀詞(よごと)」があったとしています。

記の応神天皇の即位前、誉田別皇子であった時に以下のような記述があります。
━━皇子が氣比神宮に詣で都に還ると、母の息長帯日賣命が待酒を醸して皇子に薦めた。その時、「酒樂(さかほがひ)」を歌った。
 「此の神酒は わが神酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世に坐す 石立たす 少名御神の 神壽ぎ(ほぎ) 壽ぎ狂ほし 豊壽ぎ 壽ぎ廻ほし(もとほし) 献り(まつり)來し神酒ぞ あさず食せ(をせ)ささ」━━

「酒樂(さかほがひ)」とは長久を壽ぐ(ほぐ)酒宴であり、「酒樂の歌」は「壽歌」。

この一連の説話は、成人式儀礼の禊を済ませた皇子を母が酒宴で迎えるというものと考えられます。有名な歌であり、記紀ともにほぼ同内容を載せており優意なのでしょう。この歌の解釈については諸説あり、またいずれどこかで取り上げねばなりませんね。



越前国一ノ宮 氣比神宮
*写真は2017年頃撮影のものと思います。



紀の清寧天皇の段に、
━━億計王・弘計王の二王が播磨国の縮見の屯倉の首忍海部造細目の家に隠棲している時、細目の新室の宴に、億計王が起って舞い、弘計王が「室壽(むろほぎ)」の詞を唱えられた。
 「築き立つる 稚室葛根(わかむろつなね) 築き立つる柱は 此の家長(いへぎみ)の 鎮(しづめ)なり 取り擧ぐる(あぐる) 棟梁(むねうつはり)は 此の家長の 御心の柱なり 取り置ける椽橑(はへき)は 此の家長の 御心の齊(ととのひ)なり 取り置ける蘆雚(えつり)は 此の家長の 御心の平(たひらぎ)なり 取り結へる縄葛(つなね)は 此の家の御壽(みいのち)の堅(かため)なり 取り葺ける草葉(かや)は 此の家長の御富の餘(あまり)なり 出雲は新墾(にひはり) 新墾の 十握(とつか)の稻(しね)の穂を 淺甕(あさらけ)に 醸める酒(おほみき) 美(うまら)に飮喫(をやら)ふる哉(かね) 吾が子等(ひこひとたち) 脚日木(あしびき)の 此の傍山(かたやま)の 牡鹿(さをしか)の角擧げて(ささげて) 吾が儛はば 旨酒餌香(うまさけえが)の市に 直(あたひ)以て買はず 手掌(たなそこ)も摎亮(やらら)に 拍ち(うち)上げ賜へ 吾が常世等」━━

「室壽」の詞は新築の住宅を祝賀する呪文。

*「祝詞」及び「賀詞(よごと)」
長々と記してきましたがいよいよ結論へ。
━━上代人の宗教的行事には、「呪物崇拜」に基く原始的な「祈禱」と、「言靈信仰」に基く單純(単純)な「祈禱」の詞とが、併せ行はれたのであつて、此の二つは宗教的思想の進步するに從って漸く發達して、神祗を祭る祭式及び祭神の詞としての「祝詞」となり、 又單に吉言によつて祝賀の意を述べるものは、神祗の名を呼びかけて祝言を述べて、吉事を「祈禱」する「賀詞」となつたのである。かくて「祝詞」及び「賀詞」は、善言美辭(辞)を盡して(尽くして)、長々と述べるやうになり、遂に上代國民の文學的產物の重要なる位置を占めるに至つたのである━━と。





今回はここまで。

大変に長くなってしまいましたが
途中で分断するわけにもいかなかったので。

暫くこのようなお堅いのが続きますが
付いて来て頂く方があればさいわいです。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。