◆ 「祝詞新講」 次田閏著 
(~2 緒言)






昨年10月にこの新しいテーマをスタートさせていました。そしてスタートしていたことをすっかり忘れておりました。

長らく…何か忘れてそうな気がするという妙な引っかかりがあって…

これでした!


というわけで再開します。
(半年ぶりに)

また一からというわけにもいかないので
前回の記事の続きから。


ちなみに前回の記事では
◎当書購入の経緯
◎著者と著書の概要
◎「祝詞」とは

などを書いています。


このテーマ記事は当書を評したりするものではなく、当書に対して最大に敬意を払い、教科書として自身が勉強しつつ綴っていく記事です。



第2回目の記事は「緒言」を。
本格的なスタートは第3回目の記事からとなります。


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■ 緒言

昨年(2022年)1月~6月の約半年間をかけ、8回にわたる記事で、「龍田の風神」(龍田大社)「廣瀬の大物忌神」(廣瀬大社)の謎に迫りました。

その時の記事はこちら ↓↓↓


その「風神祭」「大忌祭」は、「延喜式」に「祝詞」が掲載されているのですが、この読み下し原文と意訳文を載せておかねば、謎に迫ることは不可能だと考えました。

ネット上で網羅したものを見つけられず、それならとネットから通販で購入した次第。

便利な世の中になったものです。30年以上も前、東京の古本屋街の近くで大学生活を送った者としては、まさかこんな時代が来るとは…です。


なけなしの大枚をはたいて手に入れた書。
「祝詞」研究に関しての至高究極の書。

最大限に吸収してやろうではないかと。
余生の一部を割いて記事にしていくという超アナログ戦法でいこうかと考えた次第。

その大きな決意はどこへやら…
すっかり忘れ呆けてました(笑)



恒例の長い前置きはこの辺までで。


第1回目の記事「序」に続いて「緒言」を。

4頁(ページ)にわたり長々と書かれていますが、特に冒頭においては次田潤氏の「祝詞」、またその研究に対しての認識などが著されている重要なもの。冒頭部分のみ原文引用します。

━━上代國民の思想上には、現實(現実)の世界に對立(対立)する神の世界があって、人間の吉凶禍福は悉く神意のままに、左右せられるものであると信じられてゐた。それ故に神を祭る事には全力を盡した(尽くした)のであつて、あらゆる文化の發達は、祭祀によつて促進されたと云つても過言でない。卽ち神事の設備や供進の幣帛には、物質文化の粹を集め、神前で奏する祝詞には、文學的技能の最善を盡したのである。従つて祝詞は古事記日本書紀萬葉集等と共に、上代の文化を研究する者にとつて、極めて貴重なる資料となるものである━━


「幣帛」には「物質文化の粹を集め…」、「祝詞」には「文學的技能の最善を盡した…」と。

現代においても我々が神前、つまり神社の拝殿に向かう際には「最上の奉献奉納を行い、最上の祝詞(拝詞)を奏上せねばならない」と思うのです。

原始は一般人が神前に上がることすらも許されなかった…。
巫(みかんなぎ)や巫女(みこ)といった限られた者だけが、男性神に対してなら巫女が「一夜妻」として、女性神なら巫が「一夜夫」?として神前に上がることができたものと思われます。

さいわいにして現代には拝殿というものがあり、ほとんどすべての神社に誰もが参拝を行うことが可能。
また現代には汎用性があり、ある一定の完成した「拝詞」といったようなものがあるわけですから、後は供品さえ自身が可能な範囲での最上のものを献じれば良いのかと。

もちろん神職のように一柱一柱ごとに、場面場面で「祝詞」を練り作文ができれば最良なのでしょうが。
もちろん参拝社すべてに最上品を献上できれば最良なのでしょうが。

年間2千社も拝する(今年は千社にも届かないが)神職でもない拙老は、身の丈に合った拝詞を。そして年に数回だけ買おうとする酒造会社の最高級品等を…と。


そもそもで言うと…
千年、二千年、或いはそれ以上もそこに鎮まり、すべてを見届けられている偉大な大神。

我々とはかけ離れた遠い遠い存在であり、
最上に称え、敬い、拝するべき。

「祝詞」はその一手段。


このテーマではその「祝詞」が
如何に起こり
如何に整えられ
如何に進化し
如何に変化したか

当書を教科書とし
可能な限り調べ上げ、可能な限り想像(妄想)をしていきたいと思います。

論文等ではなく一介のブログである故、
大いなる想像(妄想)をお許し頂けましたらさいわいです。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。