◆ 「祝詞新講」 次田閏著 (~6)






テキストとしている「祝詞新講」が発行されたのは昭和二年のこと。今からおよそ百年前。

使われる漢字は画数の多い旧字体。そして歴史的仮名遣いがなされています。いわゆる「漢文読み下し文」。古文ほどではないものの、なかなか難解なものです。当時はこれが普通のこと。


ということは…

平易になった現代語に慣れてしまっている我々は、どんどん国語力が退化しているということ。

我々日本人は戦後から、どんどんアホになっていってるんですね~


当記事においては「祝詞」「祈禱」「神祈」「言靈」など、このテーマの根幹を為す用語はそのまま旧字体を使用しています。

変わるのは字体の新旧のみで、何ら意味は変わらないと雖も、その字が放つオーラみたいなものが変わるような気がするもので。

これも「言靈」の一つなのかなと思います。


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■過去記事
* ~1 序

* ~2 緒言
* ~3 祝詞の名義
* ~4 呪物崇拜と言靈信仰
* ~5 祭祀と政治

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「祝詞考」賀茂真淵



■ 「祝詞」の沿革

次田潤氏は祝詞の起源と制作年代、典籍採録の過程について言及しています。

氏の考えとしては太古に源を発し、上代に制作され、幾多の改訂刪修が加えられて採録されたものとみています。以下、それらを具体的にみていきます。



◎「祝詞」の起源

次田潤氏は、神前に祝詞を奏上する起源は極めて古く、おそらくは祭の儀式とともに、太古にその源を発しているであろうとしています。

その例が挙げられています。
*記紀の天岩戸神話に、天兒屋根命が「布刀詔戸(ふとのりとごと)」を奏した記事が見える
*記の大國主命の神話に、櫛八玉神が「火鑽(ひきり)」の祝詞を申した
(→ 熊野大社に神事が引き継がれている)



◎「壽詞(ほぎごと)」の起源

「壽詞」とは祝いの気持ちを述べる詞。紀の清寧天皇の段に、弘計王が「室壽」の詞を唱えたことが記されており、上代から行われていたことが窺えます。
(→ 第4回目の記事に読み下し文を掲載)

現存するものは以下の通り。
*「延喜式」第八巻に収められた二十七篇
*「台記」の別記に収められた康治元年(1142年)の大嘗會に奏した「中臣壽詞」一篇



◎儀式典禮の起源

儀式典禮を記したものでその名の伝わっているのは、紀の天武天皇十年(682年)四月の条に、「禁式(いさめののり)九十二条」を定めたことを記してあるのが最初。

天武天皇の「禁式九十二条」とは、礼として皇子から平民までの服装を規定したもの。
既に例えば「冠位十二階の制」などで服飾規定を定めた「禮(礼)」は出されています。ここでは庶民にまで規定したこと、名のあるものというところが重要でしょうか。

次いで続記の文武天皇二年(698年)七月の条、「別式」を作ったこと。「大宝令」及び「令義解」にも「式」または「別式」の名があるから、当時既に後の「三代格式」の源となった「式」の編纂があったということに。

これらの「式」の中には祝詞の如きものまでも収録されていたのかもしれませんが、伝わってはいません。

その後、嵯峨天皇の時代に「弘仁式」四十巻が成り、清和天皇の時代には「貞観式」二十巻が出来ました。
「延喜式」はこの二つの「式」を併せて整理した上に、新たに延喜頃に定められたものを増補して二十巻にしたもの。

もっとも「弘仁式」が成った以前から、平城天皇の大同二年(807年)には齋部廣成(インベノヒロナリ)による「古語拾遺」に、
━━天富命 諸齋部を率ゐて天璽鏡を捧げ持ち  安正殿に捧げ 并びに瓊玉を懸け 其の幣物を陳べ(ならべ) 殿祭祝詞(オホトノホガヒ) 其の祝詞文 別卷に於ひて在る 次に宮門の祭 其の祝詞亦た別卷に於ひて在る━━と記しています(現代語訳は当方にて行っています)。

これによると「大殿祭」と「宮門祭」の二篇は、「弘仁式」以前に既に「古語拾遺 別巻」に収められていたこということになります。


「大殿祭」



◎「祝詞」の改訂刪修

以上のように現存する「祝詞」は平安朝の初期に至って始めて採録されたものであるから、最初制作された時代から典籍に収録されるまでの長い年月の間に、「必ずや幾多の改訂刪修が加へられたであらうと思われる」としています。

「中臣壽詞」を収めた「台記」は藤原頼長の日記であって、平安朝末期のものであるから、この「壽詞」もまた時代を経る間に、幾分の改修が加えられたとみています。
ただし「祝詞・壽詞」はともに、古式を継承する祭事に用いられるものであるから、大体に於いては古言古意を保存していると見なすことができると。



◎「祝詞」制作年代の推定

*六人部是香(ムトベヨシカ、幕末の国学者)
「大祓」「大殿祭」「御門祭」を最古のものとし、神武天皇の御代に成ったとしています。ただしこれは余りに時代を古く見過ぎた論であるとしています。

*賀茂真淵
「祝詞考」の序において、文体用語等の上から観察して、各制作年代を以下のように推定しています。
・「出雲國神賀詞」 … 舒明天皇朝
・「大祓詞」 … 天智・天武両朝
・「大殿祭」 … 持統・文武両朝

*本居宣長
賀茂真淵を真っ向から否定。はっきりと区別できるものではない、そういう風に思うだけだ、と手厳しく批判しています。

その上で、
諸々の祭の中の古い「祝詞」の大方は、大変古い上代からのもので、「つづりざま」「いひざま」は「いささかづつ世々にうつりかはり來ぬることも…」と。

次田潤氏もこの本居宣長に同調。「祝詞が年と共に改修せられて、何時の頃にか一定の形を具へるやうになり、遂に典籍に記されて、固定したものである…」と。


「天孫降臨」狩野探道 筆 *画像はWikiより



太玉命と天兒屋根命

「天岩戸神話」において八百萬神の中で最も重要な位置に立ったのが、太玉命と天兒屋根命。言うまでもなく太玉命は齋部(忌部)氏の祖、天兒屋根命は中臣氏の祖。

二柱が上古以来の祭政の、重要なる職掌を有していたという記述が、「天岩戸神話」を始め各種文献に示されています。

*記の「天岩戸神話」
天兒屋根命 → 布刀詔言を奏上
太玉命 → 御幣(みてぐら)を捧げた

*記の天孫降臨随従
天兒屋根命・太玉命が天孫瓊瓊杵命降臨の際に、「天岩戸」祭事に仕えた天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命と共に五伴緒として随従。

*紀の一書、天孫降臨時
高皇産霊尊は天忍穂耳命を天降りさせる際に、「吾は天津神籬(ひもろき)を起て、皇孫を齋ひ奉ろう。天兒屋根命、太玉命は宜しく天津神籬を持ち葦原中國に降り、亦た吾は皇孫を齋ひ奉ろうと為すことを宣る 」と記される。


*「古語拾遺」の「天岩戸神話」
(先ず先に天兒屋根命は神皇産霊神の御子、太玉命は高皇産霊神の御子である)
太玉命は諸部神を率いて御幣を捧げ、天兒屋根命と共に廣き厚き稱詞を奏上し、天照大御神の出現を祈ったと記す。

*「古語拾遺」の天孫降臨
天兒屋根命・太玉命・天鈿女命(アメノウズメノミコト)の三神は天孫に配侍し、殊に天兒屋根命・太玉命の二神は天祖の詔命によって天津神籬を捧げて葦原中國に降り、天孫の為に齋い祭った。

*「古語拾遺」の神武即位神話
神武天皇が橿原に帝都を営む際には、太玉命の孫である天富命が一族を率いて、齋斧齋鉏を以て「瑞の御殿(みづのみあらか)」を造営し、種々の神宝を始め御幣を調整する職を奉じた。



◎中臣(藤原)氏と齋部(忌部)氏

中臣(藤原)氏はいうまでもなく奈良時代以降は明治維新まで朝廷の中枢を占めた氏族。一方で忌部氏は次第に中臣(藤原)氏勢力に押され、遂には歴史の表舞台から遠ざかっていきました。「古語拾遺」は齋部(忌部)氏の伝統と中臣(藤原)氏批判がなされた書とみられます。

上に列記したように記紀と「古語拾遺」では、中臣(藤原)氏と齋部(忌部)氏の優劣関係が反対となっています。つまり…
*記紀 → (メイン)天兒屋根命・(サブ)太玉命
*「古語拾遺」 → (メイン)太玉命・(サブ)天兒屋根命

ここでいう「メイン」「サブ」というのは、どちらかというと主体として携わったかどうかというもの。主従関係にあったなどというものではありません。

記紀は中臣(藤原)氏の息のかかった書。「古語拾遺」は齋部(忌部)氏の当主が編んだ書。自家をよく見せようと、持ち上げるのは人の性でしょうか。相反する記述がなされているのはそのせい。

*「延喜式」の記述
「延喜式」第八卷の首に以下の記述があります。
━━凡そ祭祀の祝詞は御殿御門等祭には齋部氏祝詞、以外の諸祭には中臣氏祝詞━━

つまり「大殿祭」「御門祭」といった主要な祭事の祝詞は齋部(忌部)氏が担当、その他諸々の祭事の祝詞は中臣(藤原)氏が担当であると。これは「古語拾遺」に合致するもの。

したがって紀記の記述は、中臣(藤原)氏が齋部(忌部)氏よりも優位にみせる為に、「天岩戸神話」から「天孫降臨」「神武即位」に至るまで、中臣(藤原)氏をメインに祝詞を奏上してきたとウソを付いているということに。それに反論したのが「古語拾遺」というわけです。


阿波国 大麻比古神社 (社伝では天太玉命を阿波国の守護神として祀ったとする)



◎「宣命式」と「奏上式」

「祝詞」の文体には大分すると、文末が2通りあることが分かります。
*「諸聞食宣(もろもろきこしめせとのる)」
*「稱辭竟奉久登白(たたへごとをへまつらくとまをす)」

その2つの形式の違いは…
*「宣る(のる)形式」
*「申す形式」

武田祐吉氏はその2つを命名しました。
*「宣命式」
*「奏上式」

具体的には…
*朝廷または神社に於いて、参集せる諸王諸臣、若しくは神主祝部等に読み聞かせる形式
*直接に神に奏上する形式

つまり…
*「宣命式祝詞」の対象は「人」
*「奏上式祝詞」の対象は「神」

中臣氏と齋部氏の管掌は…
*主として中臣氏
*中臣氏所属のものと齋部氏所属のものとがある

以上の相違を次田潤氏は、職掌の相違に起因するものとしています。

中臣氏は政治上の要職にあって、祭祀に当たっても百官若しくは諸社の神職を召し集へて、天皇の詔命を奉じて「祝詞」を宣る事を掌っていたから、自然と「宣命式」となったと。

齋部氏は後に政治上の位置を失い、専ら祭事のみ仕えた家であったと。
「忌部の弱肩に 太襷取掛けて 持ちゆまはり 仕へ 奉れる幣帛」(祈年祭祝詞)とあるように、幣帛を始め、祭に用いる調度などを調進する事を掌っていたから、その所属の祝詞は専ら神を対象とする「奏上式」となったと次田潤氏はしています。

果たしてそうなのでしょうか。中臣(藤原)氏と齋部(忌部)氏との関係を、敢えて「メイン」「サブ」といった言葉で説明しましたが、主従関係とまでは言わずとも、重要なものは齋部(忌部)氏に任せる必要があったと考えます。つまり齋部(忌部)氏が「メイン」であり、「サブ」的な位置付けに中臣(藤原)氏はあったのだと思います。


紀伊国名草郡 鳴神社
(太玉命をご祭神とし紀伊忌部氏が奉斎)





今回はここまで。

大したものでもないのに、記事作成に多大な時間を費やしてしまいました。

反省せねば…。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。