熊野大社


出雲国意宇郡
島根県松江市八雲町熊野2451
(P有)

■延喜式神名帳
熊野坐神社 名神大 の比定社
[境内摂社 稲田神社] 合祀社が前神社の論社
[境内摂社 伊邪那美神社] 合祀社が能利刀神社・田中神社・楯井神社・速玉神社・布吾弥神社の五社がそれぞれ論社
[上の宮 境内末社 久米神社] 久米神社の論社

■社格等
[旧社格] 国幣大社
[現在] 別表神社
出雲国一ノ宮

■祭神
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
(イザナギノヒマナコ カブロギクマノオオカミ クシミケヌノミコト)
[式内論社 前神社] 少彦名命
[式内論社 能利刀神社] 天兒屋根命または太詔戸命
[式内論社 田中神社] 衢神または鈿女命
[式内論社 楯井神社] 太田命または猿田彦命
[式内論社 速玉神社] 速玉之男命
[式内論社 布吾弥神社] 埴山姫命または稚産靈命


「意宇川(いうがわ)」上流に鎮座。霊峰「熊野山(天狗山)」に鎮まる大神への祭祀に端を発する社であり、出雲国造家が斎祀っていました。出雲国一ノ宮。
【ご祭神/櫛御気野命】
◎当社が掲げるご祭神名は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」。「伊邪那伎日真名子」とは字の通り、イザナギ神の御子神であるということ。「加夫呂伎(カブロギ)」は「神祖」とも記され、つまりあらゆる神の祖であると解されるかと思います。「櫛御気野命」の「櫛」は「奇霊(くしび)」、「御気」は「御食(みけ)」のことであるとされています。
◎一方「出雲国風土記」においては、「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(イザナキノマナゴ クマノニマス カムロノミコト)」。
◎また「出雲国造神賀詞」においては「熊野大神櫛御気野命」と。当社ではこれらに表記される神を素盞嗚尊の別名としています。
◎多説出されてはいますがイザナギ神の御子神がスサノオ神であり、そして熊野大社に鎮まるのはスサノオ神であると解釈するのが素直でしょうか。また熊野本宮大社に鎮まる家津美御子大神もスサノオ神、あるいはさらにその御子神である五十猛大神のどちらかとするのが素直な解釈かと。
【霊峰「熊野山」】
原始の鎮座地は「熊野山」の山頂。「天狗山」「天宮山」とも称される標高610mを最高到達点とする連峰。古代出雲国においてもっとも発達していた「意宇川」下流の平野部からは、この山が頭一つ抜きん出ています。また「宍道湖」対岸からも山容を望むことができます。ここに出雲国筆頭の大神が鎮まるとし、古代より崇め奉っていたものと思われます。壮大なスケールの「神奈備山」であったと言えそうです。
【出雲国一ノ宮】
◎同じ出雲国一ノ宮として杵築大社(出雲大社、記事未作成)が存在しますが、そちらを差し置きあらゆる面において当社が筆頭でした。
「出雲国造神賀詞」では常に熊野大神が先じて唱えられ、遅れて杵築大神が唱えられます。神階においても当社が一足先に授与され、少し遅れて杵築大社に授与されました。
この二社の優先順位は厳格に守られていたことと思われます。
◎「令義解」には「天神とは伊勢 山城鴨 住吉 出雲國造が斎く神等の類是ぞ」とあり、対して「地祇とは大神 大倭 葛城鴨 出雲大汝等の類是ぞ」とあります。つまり出雲国造家が斎祀っていた熊野大神は「天神」であり、出雲大汝(大国主神)は「地祇」であるという明確な違いが存在しました。
【日本火出初神社】
◎当社は「日本火出初神社」とも称され、杵築大社の宮司は当社の「燧臼と燧杵(ひきりうす・ひきりぎね)」の神器を拝戴することで世襲が行われます。
◎さらに「鑽火祭(さんかさい)」の「亀大夫神事」では、杵築大社宮司が新嘗祭に用いる「燧臼と燧杵」を受け取るために、奉納する餅を携え当社に参詣。当社ではその餅の出来ばえに対し難癖をつけるのが、この神事の特徴。上下関係がここでもはっきりとしています。
【東から西へ】
◎出雲国造家は初め「大庭」にて居住していたと伝わります。現在の「松江市大庭町」であり、ここには神魂神社が鎮座します。こちらは出雲国造家代々の私斎社だったのではないかとも。第25代出雲臣広島まではこちらを拠点とし、第26代果安の代に出雲国西部へ拠点を移したという伝承があります。
◎「出雲国風土記」を編纂したのは出雲臣広島。この時代にヤマト王権への体裁であったのか、或いは命じられたのか、杵築大社が鎮座する西部へ移住しています。
記紀神話において、始祖の天穂日命は瓊瓊杵命に先立ち地上へと下ろされますが、大国主神に取り入り葦原中国を平定しなかったと記されます。これは史実とは異なる創作神話であるのかもしれません。出雲国造家はこの記紀神話に準じて、大国主神が鎮まる西部へ移動したのではないかと考えます。以降、興隆する当社は衰退していきました。
◎杵築大社は本来はスサノオ神を奉斎する社ではないかという説があります。理由の一つが「先代旧事本紀」に「建速須佐之男尊は出雲国の熊野 杵築の神の宮に坐す」とあること。もう一つは杵築大社の拝殿から拝む先には素盞嗚尊を祀る祠が鎮座しており、大国主神は横を向いているということ。

【創建~沿革等】
◎創建は紀によると、斉明天皇五年(659年)に出雲国造が勅命により「天狗山(熊野山)」(標高610m)山頂に宮殿を造営したと記されます。そちらには磐座が座しており、古代の磐座祭祀に端を発する社と見ることができようかと思います。
◎建久年間(1190~1199年)頃までに現社地に遷座。中世には熊野信仰と習合、「熊野権現」と称される「上ノ宮」と「伊勢宮」と称される「下ノ宮」とに分かれました。
戦国時代には焼失したりとやや衰微したものの、時の権力者により庇護され再建、現在に至っています。
【出雲「熊野」と紀伊「熊野」】
◎紀伊国の熊野本宮大社との関係については、定説がありません。当地から移されたというものや、まったく異なる系統の社というものまで多種多様に。社伝では八雲町熊野から紀伊国へ移住した際に勧請したとされています。
◎紀伊国日高郡(現在の御坊市)に鎮座する熊野神社(いやじんじゃ、未参拝)の社伝では、「往古、出雲民族が紀伊に植民する際に、その祖霊の分霊を出雲の熊野より、紀伊の新熊野に勧請する途中、当社に熊野神が一時留まった」とあるようです。
また伊弉冉命の墓所の候補地の一つとされる花窟神社が鎮座する紀伊国牟婁郡(現在の「熊野市有馬町」)では、「炭焼きを生業とする集団が縄文晩期に大挙して出雲から紀伊に移住した」という伝承があるようです。縄文時代というのが不可解ですが、何らかの伝承を反映したものかもしれません。



*写真は2015年頃と2016年11月、2022年11月撮影のものとが混在しています。













摂社 伊邪那美神社

摂社 稲田神社

鑽火殿


舞殿





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