石切劔箭神社 (本社)


河内国
東大阪市東石切町1-1-1
(有料P有、300円/1h)

■延喜式神名帳
石切劔箭神社 二座 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
饒速日尊
可美真手尊(ウマシマデノミコト)


昭和に神社本庁の登録から外れ、俗に言う新興宗教である「神道石切教」として座する社。表面上は一般の神社と変わりなく、また物部氏の血筋を引く木積家が社家として代々奉斎してきた、非常に由緒ある式内比定社。一般的なイメージの「新興宗教」とは一線を画します。独自の道を歩むことになったきっかけは分かりませんが、当社は饒速日神と可美真手神(さらに長髄彦神も含むか)が鎮まる、古代史の復元には欠かせない神社の一社、あえて独自の道を選んだと評価するべきでしょうか。
◎「石切劔箭神社」には「本社」「上之社」「奥宮」の三社があります。「奥宮」が「上之社」に混同されてしまったものがネットでは散見しますが、正しくは別個のもの。ところが「生駒山」中に祠のみ座するという「奥宮」はかなり荒廃しているもよう(未参拝)。「上之社」は「奥の院」とも称され、混同を増幅しているのかもしれません。
「上之社」は現在改定作業中、リンクには飛びません。
◎木積家の伝承によると、皇紀二年に生駒山系の「宮山」山中に可美真手神が、父神である饒速日神を祀ったのを創祀としています。これが現在の「奥宮」。その後に「上之社」に遷座されました(時期不明、おそらく1700年以降)。また崇神天皇の御代には、可美真手神が「本社」に祀られたとされています。さらに明治には「上之社」を「本社」に遷座合祀させたとのことです。
なお「本社」と「上之社」を線で結ぶと「生駒山」山頂に当たるというのは、この伝承を無視できない事実かと思います。さらに「奥宮」からは古代の土器も出土しているとか。
◎社名の「石切」は、饒速日神または饒速日神の携えた「布都御霊剣」が、石を切るほどの神威を持つことからとするのが一般的。ところが語呂を合わせた感が強く、後世の付会かと思います。これに対しては縄文言語(アイヌ語を含む)に詳しい進藤治氏が、「i-shi-kiri=長髄彦」とする説を提唱しています。
そして社名の「劔」は「布都御霊剣」、「箭(矢)」は「天羽々矢」のこと。「天羽々矢」は「日の御子の証」として、神倭磐余彦(神武天皇)と対峙した際に示したもの。
◎「木積氏」は「穂積氏」の末裔とされています。「穂積氏」は饒速日神の五世孫である伊香色雄神を始祖とする氏族。大水口宿禰神の裔とも。そして「穂積氏」こそが「物部氏」の正統であるとする説も根強くあります。おそらくこの社家に伝わる極秘の伝承が必ずあるはずで、それが古代史解明に繋がると思っています。このことがあえて独自の道を歩んだ原因なのかも。
◎「生駒山」に饒速日神が鎮まるというのは衆知の事実ですが、この「生駒山」(奈良と大阪の県境)を挟んで西(河内側)に当社、東(大和側)に伊弉諾神社(長弓寺内)が鎮座。伊弉諾神社はかつて饒速日神を祀る社であったと思われます。
さらに同じく東(大和側)に添御縣坐神社(三碓)が鎮座。こちらは長髄彦神の墳墓とする伝承が地元民に根強く残っています。
◎若江郡に鎮座する若江鏡神社と、高安郡に鎮座する玉祖神社、そして当社(本社)とを結ぶことで正三角形を成します。「鏡・玉・剣」でいわゆる三種の神器。これは偶然なのでしょうか。
◎「でんぼ(標準語で「おでき」)」に効験があるとの風説が流布してしまい、百度石の周りをくるくるとひたすら廻っている輩が数多存在し、参拝時に支障をきたします。残念ながら当社を維持していくためには欠かせない代物、大阪の風物詩です。

「上之社」は本日18時32分に改定記事のUPを予定しています。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。







「大阪のおばちゃん」を中心に老若男女問わず、くるくる、くるくると…。(比較的少なめな瞬間を狙って撮っています)

年末の参拝。拝している間に茅の輪が設置されました。

穂積氏の祖霊を祀る社と思われます。大水口宿禰神でしょうか。他の参拝客への迷惑を顧みず、いつまでも居座り続ける輩も。

その輩たちのお目当てがこちら。

奥には穂積殿があり、貴重な所蔵品の展示などが行われたりします。過去の展示会では考古学博物館並みの多数の伝世鏡などもありました。

乾明神社

水神社(罔象女神)

五社明神社と神武社

五社明神社

神武社

遥拝所。向きから考えて「生駒山」に鎮まる饒速日神への遥拝でしょうか。