熊本県山鹿市の「防人像」。*画像はWikiより






◆ 「真の持統女帝」顕彰 
~反骨と苦悩の生涯~ (11)






前回の記事をUPしたのは4/8。

この時より「無期限 1日1記事」へと変更しました。

およそ1ヶ月余り。
まだもう少し続けることにします。

「1日3記事」までに戻すのは
気力・体力ともに無理かもしれませんが…。



今回は「国防政策」について触れてみます。


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■過去記事
(1) … プロフィール 1
(2) … プロフィール 2
(3) … 出生~父天智天皇崩御
(4) … 壬申の乱 1
(5) … 壬申の乱 2
(6) … 壬申の乱 3
(7) … 天武天皇即位
(8) … 泊瀬斎宮と神宮派遣
(9) … 天武天皇と陰陽道
(10) … 「龍田 風神」「廣瀬 大物忌神」・外交

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(天武天皇像) *画像はWikiより



■ 「政の要は軍事なり」

天武天皇はこんなことを言ってのけています。…などと言うと語弊があるでしょうか。

天武天皇十三年(684年)に詔しています。
━━凡そ政の要は軍事である。文武官の者たちも用兵・乗馬を習うことに務め、馬と兵器、装束を備えることに務めるように。馬のある者は騎士となり、無い者は歩兵となりなさい。集会には調えて来るように。もし不備があるようなら、親王から諸臣に至るまで罰を与える━━

これは天武天皇の晩年の詔。既に在位中にこの考えに基づいた政策が出されています。

*天武天皇四年(675年)
すべての官人に兵器を備えるように詔。

*天武天皇八年(679年)
2年後にすべての官人の兵器と馬を検校すると予告し、それまでに準備するよう詔。

その2年後に実際に行われたかどうかの記録は無く、行われなかったのかもしれません。ただ執拗に迫っている様子が窺えます。



■ 国防政策(国内)

古代最大の「天下分け目の戦い」、壬申の乱を武力で制して成立した天武政権。
カリスマ性を持った強圧的な専制君主として政権を運営。近江軍に組みした者を次々と配流し排除していきましたが、反勢力の多少のくすぶりはあったのかもしれません。

壬申の乱においての最大の勝因は、東国の兵力を動員できたこと。しかも自ら東国へ赴いていること。そして「不破の関」で近江軍を遮断したこと。

美濃国には鉄資源が豊富にあり一大製鉄地帯。潤沢な武器の提供を行うことができました(→ 南宮大社伊富岐神社伊奈波神社等)。

また信濃国には馬が飼育されており騎馬軍団が提供されました。これは河内国の物部氏が率いた渡来系の長野氏(河内馬飼荒籠、カワチノウマカイノアラコ)が、信濃国へ移住したことによるものとみられます。大阪府河内長野市、長野県の地名はこれによるもの。

これら東国に対して弱腰であった藤原氏とは異なり、東国を積極的に取り込んだのが天武天皇。ただしそれをもっとも危懼していたのが天武天皇ではないかとも。

そもそもヤマト王権は組織化された軍隊を常時保持していないという、稀有な政権と言えます。
朝鮮半島との戦、磐井の乱においては東国の兵が多く駆り出されていたようです。

常設の軍隊が存在しないことを憂慮し、天武天皇は官人を軍隊として組織化しようと目論んだものと思います。


河内国讃良郡の「蔀屋(しとみや)北遺跡」出土の「馬埋納土坑」(5世紀)。*画像はWikiより



■ 国防政策(国外)

天武天皇がもっとも憂慮したのは唐。

天智天皇の時代に「白村江の戦い」にて唐・新羅連合軍に破れた百済・倭国連合軍。以降、唐に対して大変な脅威を感じていました。

ところが唐は前回の記事でも示したように、「遠交近攻」(遠きに交わり近きを攻む)という戦術を取りました。

昨日の友は今日の…。
中国や朝鮮半島はこのような時代からこんな感じでした。日本の戦国時代も同じか…。

そもそも唐は、一時的に新羅と連携して百済を攻め滅ぼし、その後で新羅を滅ぼす算段だったのでしょうが。

新羅は天武天皇が即位して以降、しきりに倭国に朝貢を行い親交を深めました。

特に倭国と親交を深めたわけではないですが(お互いの朝貢は無し)、当たり障りのない程度に。代わりに新羅を攻めました。これは新羅が朝鮮半島統一を阻むもの。

ところが新羅は統一を成し遂げてしまいます(天武天皇五年、675年)。そして唐は新羅を攻め込みますが、まさかの思わぬ敗戦。

次は倭国に攻め込む?
常にそのような恐怖に苛まれていたことと想像されます。

ところがチベットの吐蕃という国が勢力を拡大してきており、唐は新羅への再攻撃や、倭国への攻撃もできるような状態ではなかったようですが。

天智天皇の御宇には、
*対馬や大宰府に「水城」を設けた
*「防人(さきもり)」の配備
*海際の「難波」から内陸の「近江」へ遷都
*大和国と河内国の境に高安城を築く
などが知られます。

天武天皇の御宇には、
*新しい中央集権国家の建設
*遣唐使の中断
*新羅と連携し唐に対処を図る
*官人総軍隊化
などが考えられます。

官人を総軍隊化させたのは、国内向けの国防というよりも、唐に対しての国防という側面が強かったと思います。



さて…
持統天皇が一切出てきておりません。

軍事に関しては男の世界だ…

いやいや!
ことこのご夫婦に関しては、持統天皇主導だったのではないかと想像しています。もちろん壬申の乱も。

天武天皇は豪傑な一面を持ち合わせますが、どちらかというと細かい戦術等に長けていたのではないか、持統天皇は大勢を見極める能力に長けていたのではないか、

…そんな風に思えるのです。

つまり持統天皇主導で、天武天皇が手先で動いていたのではないかと。もちろん持統天皇は一歩引きつつ…裏方的に夫を操り…

壬申の乱で大海人皇子に帯同したのがその理由の一つ。
また白村江の戦いの捕虜が天武天皇の崩御直前からどんどん帰還しますが、持統天皇は彼らに対して褒章を行っています。
そのやり取りを考えうるに、持統天皇の人柄というか…政治力が見え隠れしているように思うのです。

またその時代を記事にする際に触れることになりますが。


「百人一首之内 持統天皇」 *画像はWikiより



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。