狭岡神社


大和国添上郡
奈良市法蓮町604
(P無し、近隣に停め置きできる場所も無し)

■延喜式神名帳
狭岡神社八座の比定社

■旧社格
村社

■祭神
若山咋神
若年神
若沙那売神
彌豆麻岐神
夏高津日神
秋毘賣神
久久年神
久久紀若室葛根神


「一条通」から北へ樹叢に覆われた高台に鎮座。寂れた趣が好まれる「佐保路」を彩る一社。狭穂姫ゆかりの社として認識されています(狹穗彦・狹穗姫 禁断のロマンスと「黒髪山」の記事参照)。
◎創建由緒について社伝では、藤原不比等が霊亀二年(715年)に国家鎮護・藤原氏繁栄として勅許を得てなされたとしています。これは自身の邸宅「佐保殿」の丘上に天神八座を祀ったというもの。
これが「佐保丘天神」「狭穂丘天神」「狭加岡天神」となり、現在の狭岡神社になったとしています。
◎さらに不比等は天平神護景雲年間(767~770年)に、枚岡神社から春日大明神を「御蓋山」へ移し奉祀(春日大社)。以来「佐保殿」は国政の大事や春日詣り前に参籠し、潔斎を済ませ日の出を待って向かったとしています。
以上の社伝については「古事に出ている」としていますが、出自は不明。不比等の邸宅跡、もしくは隣接した地であろうと解されます。
◎社伝ではご祭神は「天神八座」とされていますが、現在列しているのはなぜかいわゆる「地祇の八座」。
この八座は羽山戸神と大宜都比売神との間に生まれた八子(記による)。稲作の一連の流れに沿った神々。
山の神霊(若山神)に始まり、穀霊(若年神)、田植えを司る神(若沙那売神)、灌漑用水の神霊(彌豆麻岐神)、夏の日の神(夏高津日神)、収穫を司る神(秋毘賣神)。そこに稲の成育の神(久久年神)と新嘗祭の建物の神(久久紀若室葛根神)が加わっています(*)なお久久年神は「先代旧事本紀」においては「冬年神」と記され、夏秋冬と一連になっているとも考えられます)。
◎不比等がこれらの八座を祀ることに対して甚だ疑問であり、原始の神々とは異なると思われます。また参籠し潔斎を済ませてから国政の大事や春日大社へ向かうといった由緒から、藤原氏が奉斎していた期間はこれらの神々ではなかったはず。いつの頃から現在の八座に祭神替えがなされたのかは不明。
なお地元では「菅原天神の隠居」とされており、菅原道真をご祭神と考えているようです。
◎境内には狭穂姫が姿見をしたという「鏡池」(下部写真有り)があります。現在のものは一度枯れたのを修復したとか。また「狭穂姫伝承地」という石碑が建てられていますが、これは禊場の跡であると伝わっています。
これらの伝承は信憑性の低いものですが、後に不比等が潔斎の場所として選んだということは、狭穂姫の時代から、或いはさらに往古から霊地とされていたのかもしれません。
物質的な根拠は何も無く、「狭穂」が「狭岡」に転訛したというもののみ。御由緒書には、この泉(鏡池)で若き垂仁天皇とロマンスがあり皇后になられたと。真偽のほどはさておき、美しくも…儚くも…な物語として留めておくべきかと考えています。
◎「大和志」は式内社 狭岡神社をに宛てています。これは「大神分身類社鈔并附尾」(昭和三年)や「大三輪神三社鎮座次第」(昭和七年)に、漢國神社を「狭加岡神社」「坂岡神社」と記すことによるもの。
漢國神社開化天皇 春日率川坂上陵(いざがわのさかのうえのみささぎ)の東隣に鎮座します。そして神名帳には「率川坐神御子神社・狭岡神社・率川阿波神社」と、「率川(いざがわ)」の間に記されます。率川神社は現在は大神神社の境外摂社であるものの、藤原氏の総氏神である春日大社の中社(摂社のこと)であった時代もあります。当社の式内社比定が根拠薄弱であることを含め、「大和志」の考証は強ち否定できないものと考えます。
◎「奈良曝」という貞享四年(1687年)の書に記される内容が気になります。「佐保姫神社 西包永町北側西外れ藪の内にあり 此の神 本は眉間寺山の傍らに坐しまして大社なりしを 松永弾正多聞の城をかまへける時此のミヤを打破り棄てしを 町人かく祀ひきぬ」と。
「西包永町(にしかねながちょう)」とは「佐保山」東南麓、当社からは東へ1km余りの地。ここに「佐保姫神社」という社があったと記されます。「眉間寺山」とは「佐保山」の一角、標高110mほどの山で、松永弾正により「多聞城(平山城)」が築かれたとされる山。「西包永町」のすぐ北側。
現在復社されたのでしょうか。
◎想像を膨らませてみます。この「佐保姫神社」こそが狭穂姫を祀る社であり、また当社も狭穂姫ゆかりの伝承地であった。この霊地に不比等が邸宅を構えて天神を祀り潔斎を行っていたが、不比等後裔も潔斎等を行い続け、遂に八座を祀り創建に至ったと。もちろんこの八座とは現在とは異なる「天神」であった。現状では以上のように考えています。





「天神社」と称され、菅原道真を祀るとされていた時期もあるようです。

こちらが「鏡池」。


こちらが禊場の跡と伝わる「狭穂姫伝承地」の石碑。





昔の「一条通」。境内に掲げられています。