漢國神社
(かんごうじんじゃ)


大和国添上郡
奈良市漢国町2
(P有)

■延喜式神名帳
狹岡神社八座 の論社

■旧社格
県社

■祭神
大物主命
大己貴命
少彦名命


奈良きっての商業地、近鉄奈良駅の西側、「高天」交差点にほど近い地に鎮座する社。
◎鎮座由来として、推古天皇元年(593年)、大神君白堤(オオミワノキミシラツツミ)が、勅を賜いて園神の神霊を祀り、其後元正天皇の養老元年(717年)、藤原不比等が更に韓神の二座を相殿として祀った、古くは「春日率川坂岡社(かすがいさがわさかおかしゃ)」と称したとしています。これは南方すぐに鎮座する率川神社(後ほど記事UPします)と創建年代、由緒ともに同じくするもの。
━━率川坐大神神子神社 大和国添上郡子守ニ在リ 推古天皇御宇 大三輪君白堤 勅ヲ奉ジテ神殿ヲ率川邑ニ造リ 五十鈴命ヲ奉斎ス 率川阪岡神ハ同ジク養老年中 右大臣藤原不比等 益シテ神殿ヲ造リ奉ル━━
「大国主命分身類社抄」という書には━━人皇三十三代 崇峻天皇六年癸丑春二月亥酉朔日 春日里率川旧庭ニ於テ 社壇一所宮柱ヲ立テ安鎮シ奉ル 神躰ナリ 養老元年丁巳朔日甲子 漢國社鎮壇 率川御門北面ノ内 蘭林坊艮ノ方 三所宮桂太敷立テ安鎮シ奉ル 神鉢 淡海(鎌足)公曽孫藤原是公建立ナリ━━と(いずれも当社サイトより)。
◎大神君(天武天皇の御代に朝臣姓を賜る)は、「新撰姓氏録」に「大和国 神別 地祇 素佐能雄命六世孫大国主之後也」とある氏族。言うまでもなく大神神社に鎮まる大物主命が始祖であり、これは大物主命を大国主神とすることからのもの(当ブログにおいて大物主命は、大国主神ではなく事代主命と同神としています)。白堤というのは資料が見当たらず不明ながら、その裔であろうと思われます。「園神」「韓神」は後述します。
◎また清和天皇の貞観元年(859年)、平安城宮内省に当社の御祭神を勧請して皇室の守護神としたとしています(当社サイトより)。
「皇室の守護神」というのは、「延喜式神名帳」に記される宮中・京中の三十六座のこと。このうち「宮内省坐三座」として「園神社」「韓神社二座」が記されています。いずれも宮中では唯一の名神大社で最古の神。
「大倭神社註進状」においては、園神社は大物主神、韓神社は大己貴命・少彦名命を祀るとするとともに、これらの神は素戔嗚尊の子孫であり疫から守る神であるとしているようです。
◎当社社伝においては、この三座を当社から勧請したとしています。━━大神氏家牒ニ日ク、養老年中、藤原史亦 園韓神社ヲ建テ斎キ奉ル。神名帳ニ云ク、宮内省ニ座ス神三座並名神大月次、新嘗園神社一座、韓神社ニ座。旧記ニ云ク、件ノ神等ハ素盞烏尊ノ子孫ニシテ、疫ヲ守ル神ナリ。伝ヘ聞ク、園神ハ、大己貴命ノ和魂大物主神ナリ。(中略)韓神ハ、大己貴命、少彦名命ナリ。(下略)━━
「奈良市史」においては、当社はかつて園韓神社と称されていたとも。
◎ところが平安京の社伝においては、創建当初より宮内省近くにあったとされています。これは当社社伝と相反するもの。どちらが正しいのでしょうか。
◎当社は式内社 狹岡神社八座の論社に挙がっています。これは「大和志」が推すもの。比定社は法蓮町に鎮座する狭岡神社
上述の当社サイトにもあるように、かつては「春日率川坂岡社」とも称されていたと。また「狹加岡社」とも。この「加」が落ち、「狹岡」が残ったとしています。また「神名帳」においては率川神社(後ほど記事UPします)と率川阿波神社(率川神社の境内社)との間に狹岡神社が挟まっています。当社はその率川神社より北へわずか200mほど。「狹岡」と「率川」との間には何らかの関連があるという考え方もできそうです。
◎当社のその後の出来事として、徳川家康が当社にて命拾いし、家康献上の鎧を所有しているといったものも。
「慶長十九年(1614年)、大坂陣(夏の陣)の際、徳川家康公木津の戦に破れ当社境内の桶屋に落忍ばれ九死に一生を得給う。依って報賽祈願の為翌日当社に御参拝、御召鎧一領を御奉納遊ばさる。其後鎧蔵を建立し累世の将軍家は年々使者をお立てになりました」(当社サイトより、追加等微修正済み)と。

これは「茶糸威胴丸具足」(附:漢国旧記 1冊、御鎧之由来・御兜之図 3巻、具足櫃1合)1領からなるもので、奈良市指定有形文化財に。現在は奈良国立博物館寄託、収蔵されているとのこと。


*別記事 → 境内社 林神社


「やすらぎの道」から写したもの。石標は林神社のものも。






境内社 水神社

境内社 源九郎稲荷神社

境内社 葵神社

境内社 八王子社

不明社

一般人の句碑のようです。