☆ 顕宗天皇 磐園陵墓参考地 (築山古墳)
大和国葛下郡
奈良県大和高田市築山字城山
(墳丘北側の「築山児童公園」内に駐車可)
地名を指す「傍丘(片岡)」は当地から離れた地であり、「傍丘」の「南」であるとするなら、治定墓の方が妥当なところでしょうか。
こちらは推定210mの超巨大な前方後円墳、周濠付き。全国第27位の規模。
築造は推定4世紀前半。陪塚らしきものは現存するもので10基近くも。
この時期のこれほどの古墳なら陵墓であるとするのが自然かと思われます。
同時期と推定される大和国内の巨大古墳は以下の通り。
*西殿塚古墳(手白香皇女陵) … 230m、3世紀後半
*桜井茶臼山古墳 … 全長207m、3世紀末~4世紀初頭
*メスリ山古墳 … 全長224m、4世紀初頭
*西山古墳 … 全長183m(前方後方墳)、4世紀前半
*崇神天皇陵 … 全長242m、4世紀前半
*垂仁天皇陵 … 全長227m、4世紀後半
*日葉酢媛陵(垂仁天皇皇后) … 全長207m、4世紀後半~5世紀前半
*景行天皇陵 … 全長300m、4世紀中葉~後半
*成務天皇陵 … 全長
以上が該当しそうな巨大古墳でしょうか。
築造時期から「纏向」に出現した王朝と時代は概ね合致。「古市百舌鳥古墳群」、さらにその前の「佐紀楯列古墳群」へ移行する前といったところかと。
顕宗天皇の陵墓とするには…
*築造推定年代が間違っている
*当地こそが「傍丘」である
*大王(天皇)陵ではない
*延喜式の記述自体が間違っている
このいずれか。
*築造年代に関しては、現実に当古墳から4世紀前半の埴輪片(鰭付円筒埴輪)が発見されていることから、信用するしかないのでしょうか。
*「傍丘」に関しては、当地にその名残は一切見当たりません。一方、現在に「片岡」の地名が残る地付近に顕宗天皇陵と、同名「北陵」として武烈天皇陵が治定墓として存在します。「傍丘」という地名はすっかり消え失せたのでしょうか。
*延喜式の記述自体が間違っているのかもしれません。編纂された時には既に500年ほど経っています。
「山陵志」(蒲生君平)は、新山古墳(後ほど記事UPします)を武烈天皇陵(傍丘磐坏丘北陵)に、当墳を顕宗天皇(傍丘磐坏丘南陵)に比定しています。そのように記載している古地図も存在するようです。
当古墳と言えば折口信夫氏といってもいいほどに魅了された一人。たびたび拝していたようです。当古墳が宮内庁の陵墓参考地に指定(帝室陵墓伝説地)された際には「狂喜した」とのこと。
*写真は2019年10月と2023年11月撮影のものとが混在しています。