☆ 成務天皇 狹城盾列池後陵 (佐紀石塚山古墳)
(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)



大和国添下郡
奈良市山陵町字御陵前
(駐車は下部写真参照)



第13代成務天皇の治定陵墓。「佐紀盾列古墳群」西端に位置し、日葉酢媛命 治定陵墓の東隣にくっついて築かれています。また北に200~300mほど隔てて神功皇后陵(後ほど記事UPします)があります。

全長218.5mの巨大前方後円墳。周濠を有しますが、特に日葉酢媛命 治定陵墓がある東側が極端に狭く、重なり合うように築かれており、かなり近しい関係同士であろうと推されます。
なお日葉酢媛命 治定陵墓の方が数十年程度前に築かれたと分かっているようです。これだけをみると、成務天皇と日葉酢媛命との時代は整合します。

成務天皇は事績が乏しく、実在そのものが疑われている天皇。主だったものは、武内宿禰を大臣に任命したこと、国造・稲置を設置したこと、この2点ほど。

武内宿禰も実在したのかどうかは疑わしく、国造などの設置はもっと時代が下ってからではないかというのがもっぱらの通説。したがって実在を決定付けるものは無いと言えるのかも。
また武内宿禰と生年月日がまったく同じというのが、実在性の疑いに拍車をかけているようにも思えますが。

武内宿禰に触れるとキリがないので、この辺にて留め置きます。

また「続日本紀」には、神功皇后陵と間違っていたので正したという面白い記述が残されています。

これも軽く読み過ごすことはできない非常に重要な記述ですが、こちらもキリがないのでこの辺にて留め置きます。

さらに「扶桑略記」には、日本初の古墳副葬品盗掘事件のことが記されています。康平六年(1060年)の興福寺の僧侶によるもので、共犯者とともに17人が処刑され元に戻されたというもの。

ところが幕末にも二度盗掘事件があったとか。詳細は分かりますが、副葬品は元の場所に戻されているのでしょうか。



日葉酢媛命 治定陵墓(向かって右)、成務天皇陵治定墓(向かって左)の間の道。北上すると分岐点があり、その間が周辺古墳見学用の駐車場。

真ん中辺りより右手の方が日葉酢媛命 治定陵墓