神武天皇の日本建国時の橿原を考える
(橿原神宮と畝傍山)
2月11日は日本の建国記念日です。
正史の日本書紀の記述から、初代天皇の神武天皇が橿原宮で即位した
「辛酉年春正月、庚辰朔」の元旦を現在のグレゴリオ暦に変換すると、
2月11日に相当するからです(今年は紀元2674年)。
神武天皇が実在したかについては議論が多いところですが、
欠史八代の天皇(系譜のみ存在する第2代~9代の天皇)を含めて、
存在を肯定あるいは否定するだけの史料が十分にないことは確かです。
生物学的な観点から、1年を平均365.25年と定義した場合の2674年が
神武天皇の即位から経過しているということは否定されるべきと思いますが、
倍暦・4倍暦説(現在の1年が2年・4年と定義されていた説)を導入すれば
古代天皇が長く生きすぎるという問題は、そんなに大きなハードルには
ならないと考えます[→過去記事:日食とアマテラスと卑弥呼] 。
この記事では、あくまで神武天皇と欠史八代の天皇が存在することを
仮定して、神武天皇の日本建国時の都である橿原の地政学的な環境を
考えてみたいと思います。
神武天皇と欠史八代の天皇が葛城王朝として存在したということを
論じた著名な書として、鳥越健三郎氏の「神々と天皇の間」があります。
本書では、非常に緻密かつ論理的に葛城王朝の存在が検証されていて、
特に興味深かったのは各天皇の都と陵墓の空間的位置関係です。
古代においては、穢れを祓う理由から天皇の代が変わるごとに
都も変えて移動していました。
鳥越氏は、下図に示すように都の位置(水色の点)に対して
墓の位置(黄色の点)は東北ないし、西北に位置するとするものです。
(実際には安寧天皇陵だけは都の東南にあります)
私が特に注目するのは、これらの関係が単に東北・西北というのではなく、
角度を測ってみると、綏靖天皇のケースを除いて、いずれも
容易に方向を決定することができるシンプルな角度であるということです。
1 神武天皇:N30E
2 綏靖天皇:N50E
3 安寧天皇:冬至日の出
4 懿徳天皇:N30W
5 孝昭天皇:秋節分の日の入
6 孝安天皇:N45W(東北)
7 孝霊天皇:秋節分の日の入
8 孝元天皇:N45W(東北)
9 開化天皇:N30W
日の出日の入りの方位はもとより、
30度または45度という方位角についても、北極星の位置に対して
3本または4本の長さの等しい棒を利用することで決定可能となります。
以上のことから何が言えるかといえば、
日本書紀における欠史八代の都と陵墓の記述は
「創作」というには手が込んでいて、
その存在を肯定する方が合理的であるように私は思います。
次に各天皇の陵墓の位置関係について見てみたいと思います。
下図に示すように、第14代までの天皇陵は橿原神宮周辺に集中しています。
しかも安寧天皇を除けば、畝傍山を通過するN30E-S30Wのライン上に
位置しています。そしてこのラインの延長先には神武天皇社があります。
神宮天皇が即位して政治を行った橿原宮は橿原神宮ではなく、
葛城の地にある柏原の神武天皇社の場所であるという説があります。
神武天皇が即位した後に国見をした腋上の嗛間の丘(ほほまのおか)は
神宮天皇社の背後にある本馬山(ほんまやま)であるという説があり、
陵墓の並びを外挿した重要ポイントに神宮天皇社があるという事実は、
この説に一定の合理性を付与するものと私は考えます。
さて、橿原神宮周辺において、
神武天皇、欠史八代、および第10代の崇神天皇の時代における
重要な宗教インフラや特徴的な山をプロットしたものが下の図です。
まず、この地図におけるレイラインの存在を推定したものが下図です。
神武東征において、大和に進攻した神武天皇が最初に
大和の国見をしたのが鳥見山で、その麓には等彌神社が存在しています
この等彌神社から見て節分の日の入りの方位には、
天香久山、橿原神宮、葛城山が存在し、
基本的に神武天皇はこの順に大和を制圧していったと考えられます。
このように見ると、畝傍山の麓の橿原神宮は大和制圧の中心といえ、
神武天皇にとって特別な軍事拠点であったと考えられます。
一方、神武天皇陵から見て夏至の日の出の方位に存在するのが
出雲のオオクニヌシの和魂であるオオモノヌシを祀った三輪山があります。
基本的に神武天皇の進攻前に大和を支配していたのは
出雲の勢力であったと考えられ、
オオモノヌシが怨霊となることを大和朝廷は恐れたものと考えます。
そのオオモノヌシを丁重に祀る位置に神武天皇陵を位置させたのは
極めて合理的なカウンターメジャーであると私は考えます。
次に、太陽の運行に関わるレイラインに関係しないラインの存在を
推定したものが下図です。
まず、畝傍山と葛城地域の最も高い山である金剛山を結ぶ
S51W-N51Eのライン上には、鴨都波神社、孝昭陵、葛木一言主神社という
葛城地域における重要な宗教インフラが並びます。
このうち、鴨都波神社は、神武天皇の舅であるコトシロヌシ(事代主)
を祀った神社であり、欠史八代の天皇にとっての祖神とも言えます。
ちなみに、綏靖天皇の都と陵墓の方位はこのラインの方位とほぼ一致し、
このラインを参照して引かれたものと推察します。
一方、畝傍山と大和における極めて特徴的な形をした山である
耳成山を結ぶS39W-N39Eのライン上には、南から
高鴨神社、考安天皇陵、本馬山、畝傍山、耳成山、崇神天皇陵が
並びます。
高鴨神社は葛城地域で最も重要な神社です[→葵祭りのルーツを探る] 。
本馬山は先にも述べたように神武天皇が国見をした場所と考えられます。
私はこのラインの並び自体、
本馬山からの眺望によって形成されたのではと推察します。
そして興味深いのは、葛城王朝を滅ぼして大和王朝を作ったとされる
崇神天皇の陵墓がこのライン上にのっていることです。
以上のラインをすべてプロットしたものが下図であり、
一見ランダムに位置しているように見える各インフラや山の大部分を
数本のラインによってカテゴライズすることができるということです。
・・・というわけで、もちろん断定はできませんが、
日本建国当時の宗教インフラ間の位置的関係に
関連性があるという事実は、神武天皇と欠史八代の天皇の存在を
暗にほのめかしているように私には感じられます。
(橿原神宮)
いずれにしても、古代の宗教観に起因する地理的な規則性を基にして
古代人のある種の意図の存在の有無を議論することには
一定の合理性があると思われ、
これからもボ~っとしながら地理的関係を見ていきたいと考えます(笑)