日食とアマテラスと卑弥呼
[前記事] で軽く触れましたが、
古事記と日本書紀に描かれた神代のクライマックスともいえる
アマテラスの天岩戸伝説と日食が関連しているという学説があります。
天岩戸伝説は要約すれば次の通りです。
弟スサノオの乱暴な行為に怒った太陽神アマテラスが
岩の洞窟に隠れると世界は真っ暗となりました。
困った神々は作戦を立ててアマテラスの興味を引き、
なんとかアマテラスを洞窟の外に出すことに成功しました。
アマテラスが戻ると、世界は明るくなりました。
スサノオは神々によって追放されました。
このようなエピソードの中で、
まずは、簡単に天岩戸伝説の中で日食と関係している部分を書き出します。
古事記(上)講談社学術文庫<現代語訳>
これを見て、天照大御神は恐れて、
天岩戸の戸を開いて中におこもりになった。
そのために高天原はすっかり暗くなり、
葦原中国もすべ暗闇となった。
こうして永遠の暗闇がつづいた。
(中略)
八百万の神々がどっといっせいに笑った。
そこで天照大御神は不思議に思われて、
天の石屋戸を細めに開けて・・・
(中略)
こうして天照大御神がお出ましになると、
高天原も葦原中国も自然に太陽が照り、明るくなった。
日本書紀(上)講談社学術文庫<現代語訳>
これによって怒られて、天岩屋に入られて、
磐戸を閉じてこもってしまわれた。
それで国中常闇となって、夜昼の区別も分からなくなった
(中略)
御手で少し磐戸をあけて外をごらんになった。
そのとき手力雄神が、天照大神の御手をとって、引き出し奉った。
ここでこの天岩戸神話を解釈する説として
2つの説を紹介したいと思います。
斉藤・井沢・安本説
斉藤国治氏、井沢元彦氏、安本美典氏の各氏は
天岩戸のエピソードが古代に発生した日食のことを語っているとし、
邪馬台国とからめながら論じています。
斉藤氏の「古天文学への道」、井沢氏の「逆説の日本史」で
述べられているこの日食-天岩戸-邪馬台国説を要約すれば
次の通りです。
日本国では、太陽信仰における巫女であるアマテラスが
国家の諸事を決定する最高指導者として君臨していた。
そんな中、AD248年に皆既日食が発生すると、
国の指導部は、このような由々しき世界の危機が起きたのは、
ひとえにアマテラスが不徳であるためと考え、アマテラスを処刑した。
アマテラスの後任も同様に女性が任命された。
なお、この一連の出来事は、民衆に対しては、
太陽神アマテラスが天岩戸にこもったので太陽が欠け、
その後、天岩戸から出てきたので太陽も元に戻ったと説明された。
この太陽信仰における巫女のアマテラスこそ日巫女(ひみこ)、
すなわち邪馬台国の女王卑弥呼で、
アマテラスの後任が邪馬台国の新女王の台与(トヨ)である。
とても興味深い説だと私は思います。
さて、この時代にアマテラスが実在していたかということですが、
安本氏はこの時代にアマテラスが実在したことを
「数理文献学」という手法を開発して証明を試みています。
以下、この説について順を追って説明します。
↓この図は第一代の神武天皇から今上陛下まで
天皇の代と即位年をプロットしたものです。
(持統天皇以前の天皇の即位年は正史の日本書紀を参照しています)
図-1 天皇の代と即位年の関係
図を見てわかるように履中天皇を境界にして
天皇の代と天皇の即位年の関係を示すラインの勾配が
大きく変化しています。
これは、履中天皇よりも古い時代には、
多くの天皇の寿命が100歳を超えるなど、
現在の統計値からしてみれば
合理的ではない年齢の天皇が続出するためです。
この高寿命の理由については、(1)捏造説および(2)倍暦説があります。
このうち捏造説は、何らかの理由から
日本書紀の記述が筆者によって捏造されたとするものです。
一方、倍暦説は、古代の歴は現代でいう1年を2年と数えたり(2倍暦)、
4年と数えたり(4倍暦)したとするものです。
↓こちらの図は、履中天皇即位前に2倍暦(赤)または4倍暦(緑)が
使用されていた場合のラインを描いたものです。
4倍暦を使用した場合、直線性が高くなることがわかります。
図-2 2倍暦と4倍暦を加えた天皇の代と即位年の関係
いずれにしても、自然科学をベースに考えた場合、
この高寿命を額面通り考えるのは合理的ではなく、
過去を予測するためには、何らかのフィロソフィーが必要となります。
安本氏は天皇の即位年を離散的に統計評価し、
天皇の在位期間は約10年であるとし(古代天皇の平均在位年数十年説)、
↓こちらの図に示すような直線を考え、神武天皇より5代前にあたる
アマテラスの事件が起きたのは247年の日食であると論じました。
図-3 安本説によるアマテラスが関係した日食
さて、NASAのwebsiteを見ると、20年期間ごとに過去に発生した日食が
図化されています。
↓こちらの図はAD240年からAD260年の間に発生した日食の図です。
(青は皆既日食で、赤は金環日食を表します)
図-4 AD240年~AD260年の日食(NASA)
この図を見ると、247年3月24日と248年9月4日の2回にわたって、
確かに日本列島で皆既日食があったことがわかります。
ただし、いずれの日食についても邪馬台国の場所として有力な
九州、出雲、大和では部分日食であったと考えられます。
松中説
この安本説について、真っ向から批判を行ったのは、
独自の古代史観をもつことで知られている古田武彦氏を信望する
松中祐二氏です。
松中氏は、天岩戸で夜昼も区別ができないほど暗くなったこと、および
「天岩戸を細めに開けた」という表現から、
日食は皆既日食でなければならず、247年と248年の日食は成立しない
としました。
また、安本氏の古代天皇の平均在位年数十年説を論拠の低いものと批判し、
天皇の在位年数ではなく、天皇の世代(ジェネレ-ション)の平均年数で
過去を予測すべきであるという説を打ち立てました。
この説では、天皇の平均在位期間といった人間が関与する時間ではなく、
天皇家の世代の平均年数という生物学的な特徴に着目しています。
↓こちらの図は第一代の神武天皇から今上陛下まで
皇統に名を連ねる各世代につき一人の天皇の生年をプロットしたものです。
(持統天皇以前の天皇の生年は正史の日本書紀を参照しています)
図-5 天皇の世代と生年の関係
この関係についても継体天皇を境界にして
天皇の世代とその生年の関係を示すラインの勾配が大きく変化しています。
これも天皇の代と即位年の場合と同様の理由によるものと思われます。
松中氏の結論は↓こちらの図に示す通りです。
図-6 松中説によるアマテラスが関係した日食
松中氏は、プロットの直線部分を外挿することで
紀元前205年6月6日に観測された皆既日食が
天岩戸伝説に関係しているとしています。
なお、↓こちらの図をみていただくとわかるように、この場合についても
邪馬台国の場所として有力な九州、出雲、大和では皆既日食は
観測できません。
図-7 BC200年~BC220年の日食(NASA)
松中氏によれば、天岩戸伝説は朝鮮半島の伝説であり、
その話がのちに日本にもたらされたとしています。
以上、2つの説について概観しましたが、
私はこれらの2つの説は不合理な点をいくつか持っていると思います。
図-8 安本説と松中説
まず、安本説ですが、松中氏も一部指摘していますが、
図-2の時系列プロットを見る限り、統計区間の設定方法を変えれば、
必ずしも年代をさかのぼるほど天皇の平均在位年数が短くなっている
わけではなく、むしろエポックメイキングな歴史イベントによって
複雑に変化する非定常時系列と考えられます。
図-8を見ても、周辺のプロットから勘案した場合、
ラインの勾配はもう少し大きくなると考えられ、
必ずしも合理的な回帰線にはなっていません。
なお、この説を直接批判するものではありませんが、
安本氏が2倍暦を支持していると宣言している割には、
このことをまったく無視するかのように、8倍暦のような線を引いてます。
研究者でいらっしゃる限り、ぜひ整合性をとっていただきたく思います。
一方、松中節ですが、
バイオロジカルな着目点は素晴らしいと思いますが、
それを外挿する際に利用する値である天皇の世代データが
完全にオーソライズされたものではないところが
決定的な弱点であると思います。
兄弟継承を中心に皇位継承していた天皇が、
なぜ履中天皇を境にしてそれ以前にすべて父子継承になっているのか、
研究者でいらっしゃる限り、合理的な理由の説明が必要だと思います。
このことが成立しなければこの説もまったく成立しなくなります。
また安本氏と同様に2倍暦を支持していると述べている割には、
2倍暦とは勾配が異なる線を引いているかと思います。
それと古事記では
「そのために高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となった。
こうして永遠の暗闇がつづいた。」
と書いてあるにもかかわらず、BC205年の皆既日食はたったの2分弱の
日食です。「永遠の暗闇」とはほど遠いですね(笑)
確かに皆既日食は幻想的なのでしょうけど・・・
さらに両方の説ともに欠史八代をありうると決めつけて論じています。
もう少し丁寧な説明が必要になると思います。
・・・というわけで
この両者の弱点をうめちゃうような新たな説を考えてみました(笑)
私が考えるのは↓この図のようなシナリオです。
図-9 私が思うに・・・
天皇の代と即位年の関係をベースにして、
履中天皇から4倍暦にしたがって線を外挿します。
4倍暦は春夏秋冬をそれぞれ1年と数えるもので、
暦の表記法や天皇の年齢が低くなりすぎる問題点はあるものの
その部分のみ日本書紀の記述が正しくないことを仮定すれば、
履中天皇以降のデータとの直線性も十分に高く、
日本書紀や2倍説よりも合理性は高いと考えます。
また、欠史八代は現在の史学会の大勢の論理に従って考慮に入れず、
2人のハツクニシラススメラミコトの神武天皇と崇神天皇を同一視します。
そしてこれから5代先がアマテラスとすると、
西暦158年6月13日に大和地方で観測された皆既日食と
西暦168年12月17日に西日本で観測された金環日食が
天岩戸伝説に相当するのではと思います。
図-10 AD140年~AD160年の日食(NASA)
図-11 AD160年~AD180年の日食(NASA)
このうち、邪馬台国東遷説を支持する私[→関連記事] が注目するのは
168年12月17日の金環日食です。
この金環日食は日食と同時に日没になるというものです。
昼間に発生する金環日食とは異なり、
この時間帯の太陽は肉眼で見ることも可能であると思います。
そして日食で欠けた太陽がそのまま地平線に沈みます。
BC205年のたった2分弱の皆既日食とは異なり、
「そのために高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となった。
こうして永遠の暗闇がつづいた。」
といったような世界が広がるのではと思う次第です。
日食の正しい知識のない古代人にとっては、
もしかしたらこの後、太陽が一度も出てこないのでは?と思うくらい
不安な長い夜を過ごしたのではと思います。
また、次の日に東の地平性を見れば、「天岩戸を細めに開けた」
ような風景も観れたことと思います。
こう考えれば、必ずしも天岩戸伝説=皆既日食ではないと私は思います。
以上、いろいろと書いてきましたが、
太陽神が最高の信仰の対象であった日本にとって
日食というものは極めて特別な天体ショーであるかと思います。
明日なんとか見れればよいのですが・・・(笑)