伊勢に神宮がある謎に挑む3 | 西陣に住んでます

伊勢に神宮がある謎に挑む3

西陣に住んでます-伊勢(朝熊山)の夜明け



「伊勢に伊勢神宮がある謎に挑む」も今回が最終回です。
今回は最終的な結論を用意していますので安心してお読みください(笑)。


過去記事→[第1回] [第2回]


さて、

伊勢神宮の正式名称は単に「神宮」ですが、

神宮と名のつく神社は日本に30社弱あります。


そのうち、神武天皇までのいわゆる神代のエピソードに関連する祭神

を祀る神宮を抜き出すと次の通りです。


右矢印皇室祖先系


伊弉諾神宮 イザナギ、イザナミ(伊弉諾尊、伊弉冉尊)
伊勢神宮 アマテラス(天照大神)
英彦山神宮 アメノオシホミミ(天忍穂耳尊)
霧島神宮 ニニギ(瓊瓊杵尊)
鹿児島神宮 ホオリ(穂々出見尊)
鵜戸神宮 ウガヤフキアエズ(鸕鶿葺不合尊)
宮崎神宮 神武天皇
橿原神宮 神武天皇


右矢印天孫降臨バックアップ系


鹿島神宮 タケミカヅチ(武甕槌神)
香取神宮 フツヌシ(経津主神)


右矢印アイテム系


日前神宮 日像鏡
國懸神宮 日矛鏡
石上神宮 布都御魂剣
熱田神宮 草薙剣


参考までにこれらの神社を地図にプロットすると↓こんな感じです。


西陣に住んでます-神代の神々を祀る神宮


また、これらの神宮の祭神を系図に示したものが↓こちらです。


西陣に住んでます-神代の神々の系図と神宮


これらの神々は、主として天孫降臨日向三代神武東征

エピソードに登場します。[→第2回参照]


これらの神宮は、日本に星の数のようにある神社の最高峰に位置します。


「神宮」の社合を名乗ったのは、日本書紀では伊勢神宮石上神宮だけで、
平安~江戸時代の期間では伊勢神宮鹿島神宮香取神宮だけでしたが、
明治になると、皇祖神天皇神器などを祀った
いくつかの重要な神社が選定され、神宮と呼ばれるようになりました。


この選定にあたっては、戦後まで天皇の許可が必要でした。
私はこの点にかなり大きな意味があると思っています。

なぜかというと・・・


古事記の最も大きなエピソードの一つである天孫降臨神話で
ニニギが降臨したのは、筑紫(九州)の日向高千穂です。
実は、この「日向の高千穂」の有力な候補として次の2つがあって、
古くから論争の的となっています。


右矢印宮崎県北端にある西臼杵郡高千穂町
右矢印宮崎県と鹿児島県の境にある霧島山地高千穂峰


このうち一般的に高千穂として知られているのは、西臼杵郡の高千穂です。


皇室の祖先である皇祖神が天孫降臨した地は、
天皇家の起源にも深く関係すると考えられるため、

とっても気になるところです。


ここで、天孫降臨神話を主演しているニニギを祀った神社は
全国にいくつもあり、二つの高千穂にも当然存在しています。
その中で、西臼杵郡の高千穂にあるのは高千穂神社
霧島山地の高千穂にあるのは霧島神宮です。


もうおわかりかと思いますが、ストレイトに考えると、
「神宮」という社格を与えたことから
天皇家は、霧島山地の高千穂を重視しているように思えます。
もちろん、それだけの事実で
天孫降臨のモデルが霧島山地の高千穂峰であるとするのは乱暴ですが、
天皇家には代々伝わる非公開の伝承があるはずで、少なくとも
その伝承に基づいて霧島神宮に神宮号を与えた可能性があります。


なお、戦後に神宮に選定されたのは、
伊弉諾神宮英彦山神宮、そして北海道神宮の3社です。
これらの神宮は、戦前に選定された神宮と比べると
天皇家におけるプライオリティーが低かった可能性があります。


ここで、ことわっておきますが、もちろんそのようなプライオリティによって
神社と地域の優劣が決まるわけではありません。
神々が分祀されている以上、どの神社も重要なことに変わりはありません。
ただ、この記事では「神宮という社号が神話と深く関連する」という
仮説に立って考えてみたいと思っています。


それではまず、九州南部から考えていきます。

九州南部にある神武天皇以前の皇祖神が祀られている神宮を
ピックアップしたのが↓こちらの地図です。


西陣に住んでます-九州南部の神宮


この地図には神宮に加えて、古代遺跡を同時にプロットしています。
一見、何の規則性もないように見えますが、
あるコンセプトの下に線を引いてみると↓、

各神宮と遺跡が規則的にプロットされていることがわかりますビックリマーク


西陣に住んでます-九州南部の神宮


このコンセプトは太陽の道(レイライン)と呼ばれるもので、
特定の季節の太陽の日の出日の入の方位に沿って
古代の重要地点が並ぶというものです。


私が言うまでもありませんが、日の出、日の入の方位は
太陽を観測する場所の緯度日時によって決まります。

ちなみに国立天文台が作成した[ページ] で緯度と日時を入力すれば
日の出、日の入の方位を知ることができます。


レイラインのうち代表的なものは次の3つの季節のレイラインです。


晴れ日の出、日の入の太陽が最も北に近づく夏至
晴れ日の出、日の入の太陽がそれぞれ真東、真西となる春分秋分
晴れ日の出、日の入の太陽が最も南に近づく冬至


また、夏至の日の出の方位と冬至の日の入の方位は逆の方位で
同様に冬至の日の出の方位と夏至の日の入の方位は逆の方位です。


地図がなかった時代に場所を移動したり、
カレンダーがなかった時代に季節を知るためには、
日の出、日の入の方位というものは重要なインデックスでした。


そういった意味で、高千穂峰というランドマークに対して
日の出や日の入の方位に太陽の観測所を置くことは
農耕社会における地域のリーダーの仕事として
非常に重要であったと考えられます。


さらに、その方位は次第に神格化されていき、
神聖な方位として重要視されるようになったと考えられます。
春夏秋冬がはっきりした日本で太陽信仰が発達したのは
このためではないかと私は思います。


ところでレイラインですが、自分の都合のいいように結構いい加減に引いて
ラインから全然離れているものを関連付けている例も結構あります(笑)。
なので、今回は前出の国立天文台の[website] の計算結果を反映しました。


北を0度として時計回りに方位角を記述すると、

この霧島地域の場合、次のような方位のレイラインになります。


■春分・秋分の太陽の日の出:90度
■夏至の太陽の日の出:61.5度(90-28.5)
■冬至の太陽の日の出:118.5度(90+28.5)
■春分・秋分の太陽の日の入:270
■夏至の太陽の日の入:298.5度(270+28.5)
■冬至の太陽の日の入:241.5度(270-28.5)


ここで、もう一度地図に戻ります。


西陣に住んでます-九州南部の神宮


まず、ニニギを祀る霧島神宮から見ると、
天孫降臨した高千穂峰の方位は夏至の太陽の日の出の方位にあります。
夏至は太陽のパワーが最も強くなる季節なので、
基本的に太陽信仰をベースとしている古代の日本においては、
もっとも重要な方位の一つであったと考えられます。


そして、高千穂峰から見て夏至の太陽の日の出の方位には、
西都原古墳を含む古代古墳群が散在しています。
日本最大の帆立貝形古墳の男狭穂塚(おさほづか)
ニニギの陵墓という伝承もあります。


次に、ニニギの子のホオリ(山幸彦)を祀った鹿児島神宮から見て、
ニニギを祀った霧島神宮は、レイラインとは異なりますが、
正確に東北の方位にあります。


また、ホオリの子のウガヤフキアエズを祀った鵜戸神宮から見て、
高千穂峰は夏至の太陽の日の入の方位にあります。


さらに、神武天皇が東征する前に宮とした宮崎神宮から見て
霧島山地最高峰の霧島山は真西に位置しています。


以上のことから考えると、霧島神宮、鵜戸神宮、宮崎神宮の3か所で

日の出または日の入りの太陽をいつも観測していれば、

春分・夏至・秋分・冬至という季節の節目を知ることができるはずです。

これは農耕を行う上でめちゃくちゃ重要な情報であったと思われます。


さて、これらのレイラインのうち、最も注目すべきなのは、
天孫降臨伝説に出てくる高千穂とニニギが関係している
夏至の太陽の日の出の方位です。
そして、この聖なる方位をどんどん延長して行くと先に何があるかですが、
なんと伊勢があります!!


西陣に住んでます-高千穂-伊勢ライン


ここで、もう少し細かく見ていきますと、
まず、夏至の夜明けに高千穂峰(標高1574m)の頂上からは、
61.5度の方位に日の出が観測され、

そのポイントには四国の足摺岬を見ることができるはずです。


以前示した↓この図を用いれば、今ノ山という山の尾根(標高約500m)が
高千穂峰から観察できることが理論的にわかります。


西陣に住んでます-どこまで遠くが見れるか


ちなみに、高千穂から日の出を見ると、

高知県は太陽の「左にある土」に見えるはずです。
これが土佐(旧名:土左)の起源なのでは?とも思ってしまいます。


同様に、夏至の日の出の方位には、

足摺岬(61.2度の方位)からは室戸岬笠木山(598m)が、
室戸岬(61.0度の方位)からは近畿最高峰の八経ヶ岳(1915m)が、
そして、八経ヶ岳(60.7度の方位)からは伊勢を観察できるはずです。

これらのランドマークを基準に微調整することによって

日の出の方位を正確に把握したのだと思います。
そして、肉眼でレイラインを確認したのですから、

その方位線としての精度は十分に保障されていると考えられます。


ちなみに、伊勢のどこをこのレイラインが通っているか?ということですが、
ヤマトヒメが最初に祠を建てたとされる磯宮(いそのみや)の伝承地である
磯神社のすぐ近くです。


こんなふうにして、太陽が最もパワーをもつ夏至の日の出に
ニニギと高千穂とアマテラスが一直線に照らされたわけです。

天孫降臨の神話でニニギは、アマテラスから八咫鏡(やたのかがみ)

わたされ、その鏡をアマテラスと思って祀るように言われました。
現在も八咫鏡は伊勢神宮の御神体となっているとされていることから、
結果的にそのリクエストは完璧に実践されています。


なお、ニニギを高天原から高千穂に導いたガイド役の猿田彦
伊勢の国津神で、天孫降臨後、猿田彦を伊勢まで送ったアメノウズメ
伊勢神宮(内宮)の手前にある猿田彦神社猿女神社に祀られています。


西陣に住んでます-猿田彦神社


ちなみに、アメノウズメは猿田彦から「猿」の字をもらい、猿女と改名しました。


西陣に住んでます-猿女神社


私はこの猿田彦と猿女の「猿」という文字が気になって仕方ありません。
なぜなら、伊勢神宮から見た高千穂の方位、

つまり冬至の太陽の日の入の方位(約240度)は
「申(さる)」の方位に他ならないからです。


猿田彦神社の境内の中心にはこんな石が置かれていました。


西陣に住んでます-猿田彦神社


猿田彦神社でも方位を重要視してきたことの証拠です(笑)。


もしかしたら鬼門封じの猿のコンセプトは、

このときに生まれたのではないかとも思ってしまいます。


過去記事→[鬼門と猿ライン] [グローバルな猿ライン]


そんなわけで、太陽信仰をもっていた天皇家の祖先が、
最もパワーのある夏至の日に向かって実際に進み、
伊勢の地に到着したのではないかと思います。




さてさてさて、


ここまでの話、線を引いた私が言うのも何ですが、
これってちょっとデキすぎてはないでしょうか(笑)。


偶然じゃないの~?って考える方々や
ホントに太陽の方位なんて関係あるの~っ?って考える方々も
いらっしゃると思います。


そこで、もう少し検証してみたいと思います。


実はこれ以外にも、
神宮のレイアウトに夏至の日の出の方位のレイラインが
めちゃくちゃ関係していることがわかる例が3つあります。



1伊勢神宮と富士山


[第1回] では、伊勢神宮の東に位置する朝熊山(あさまやま)が、
伊勢神宮の祭祀を行う場所であるということを
「常世」というコンセプトと関連付けて示しました。


この朝熊山の頂上からは、夏至の日の出が60.5度の方位に観測されますが、
実は、そこにはなんと日本一高い山である富士山があるんです!

つまり夏至の日には富士山のあたりから昇る太陽を見れるはずなんです。


西陣に住んでます-朝熊山-富士山ライン


これってちょっとデキすぎてはないでしょうか(笑)。


もちろん、この位置関係についてはまったくの偶然と思われますが、
伊勢神宮の位置を決めた人は、何とも神々しい畏れを感じたと思われます。


なお、磯宮と朝熊山は同一のレイライン上にのっていないため、
高千穂から富士山までが一つのレイラインで結ばれいるわけではありません。



2神武東征


古事記&日本書紀において、天孫降臨後の大きなエピソードといえば、
神武天皇東征です。ここで日本書紀の記述を基にポイントを紹介します。


ニニギの天孫降臨から約1,792,470年後、
ニニギの曾孫のイツセイワレビコの兄弟は、
東の方に青い山に囲まれたよい土地(大和)があるという情報をつかみ、

高千穂からその地に移動して都を作ることにしました。
船軍を率いて日向を出発した神武天皇は

何年もかけて瀬戸内海を通過して行きました。


浪速(大阪)の白肩津(しらかたのつ)に到着すると
上陸して大和を支配していた長髄彦(ながすねひこ)の軍隊と戦いましたが、
兄のイツセが矢に当たって負傷してしまいます。
「自分は日神の子孫なのに日に向かって戦うのはよくない。」
と思った弟のイワレビコは、一旦退却してから船で紀伊半島を南に進み、
負傷したイツセが亡くなった後、熊野に上陸しました。
ここでイワレビコは、天孫降臨で活躍した神であるタケミカヅチから
布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)をもらいますが、

この後、快進撃が始まります。そして、ついには長髄彦を滅ぼし、

大和の橿原宮初代天皇に即位しました。


この初代天皇が神武天皇で、

橿原宮は現在の橿原神宮の場所にあったと考えられています。

何年もかけて瀬戸内海を通過して行ったのは、

たぶん途中寄り道して出雲吉備を平定していたんでしょう。


↓こちらは、神武東征のルートです。


西陣に住んでます-神武東征のルート


神武天皇東征の出発地としては、いくつかの伝承地があります。


このうち、有力な伝承地とされる美々津は、
西臼杵郡の高千穂を出発地とする場合には便利ですが、
霧島山地の高千穂を出発地とする場合には
鵜戸神宮のすぐ裏手にある伝承地の宮浦の方がコンビニエントです。

なので、この記事では宮浦を出発地として仮定します。


ここで、宮浦から「日に向かう(夏至の日の出)」レイラインを引くと、
紀伊半島の熊野を通ります。


西陣に住んでます-宮浦-熊野ライン


つまり、熊野はもともとの上陸目標であった可能性があります。


また、そのレイラインを延長した先には、熊野でフツのミタマの剣

イワレビコに授けたタケミカヅチを祀る鹿嶋神宮
フツヌシを祀る香取神宮があります。


西陣に住んでます-熊野-鹿嶋ライン


これもちょっとデキすぎてはないでしょうか(笑)。


余談ですが、このレイラインは湘南を通過しています。

湘南といえば、青春ドラマのメッカです。

冬至の日に砂浜を走る青葉高校剣道部の森田健作千葉県知事が

本気で夕日を追いかけていけば、鵜戸神宮に到着することでしょう(笑)。


なお、なぜ神武天皇が、ニニギとアマテラスをつなぐ
霧島神社-伊勢神宮ラインを使わないで、
わざわざ横の鵜戸神宮-熊野ラインを使ったかということですが、これは、
「神社を参拝する時に参道の真ん中は神の通り道なので歩いてはいけない」

という禁止事項と一緒のような気がします。

アマテラスとニニギは紛れもない天の神様ですが、それに対して、

ホオリ、ウガヤフキアエズ、神武天皇はすでに人間化が進んでいました。

このため、アマテラスとニニギを結ぶ天の神様のラインを進むことを

遠慮しなければならなかったのではないでしょうか。


神武天皇としばしば同一視される崇神天皇が、

恐れ多いということで宮中に祀っていたアマテラスを宮中の外に遷座し、

さらにそれを垂仁天皇が伊勢に遷座し、
以降は天皇の代理としてケガレを完全に落とした存在である伊勢斎王

アマテラスを祀ることを任せたこととも整合的です[→第1回参照]


アマテラスを自分と同一視した持統天皇[→第2回参照] 以外の天皇が、
誰一人として直接伊勢神宮に参拝しなかったのもこのためと私は思います。
ちなみに霧島神社-伊勢神宮ラインにある神宮はありません。



3アイテム


天孫降臨と並んで、古事記&日本書紀のクライマックスとなっているものに
天岩戸(あまのいわと)八岐大蛇(やまたのおろち)があります。


これらのエピソードに関連深いのが三種の神器です。
三種の神器とは、アマテラスがニニギに預けて天孫降臨させたアイテムで
持っていることで天孫の子孫であることを証明することとなります。
このため、天皇の皇位継承には不可欠なアイテムと言えます。


三種の神器というのは、具体的に次の3つのものです。


右矢印八咫鏡(やたのかがみ)
右矢印八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
右矢印天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)→通称:草薙剣(くさなぎのつるぎ)


このうち、八咫鏡と八尺瓊勾玉は、天岩戸に隠れたアマテラスを
外におびき出そうと他の神々が考えて造ったアイテムです。
一方、天叢雲剣はスサノオが八岐大蛇のシッポから取り出した剣です。
これらのアイテムに加えて、八咫鏡のに先立って造られた鏡とされる
日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)
前出のタケイカヅチが神武天皇に与えた布都御魂剣が重要視され、
それぞれ次の場所に安置されているといわれています。


右矢印八咫鏡の実物:伊勢神宮(内宮)
右矢印八咫鏡の形代(霊がよりついた代わりのアイテム):宮中の賢所
右矢印八尺瓊勾玉の実物&天叢雲剣の形代:宮中の剣璽の間
右矢印天叢雲剣の実物:宮簀媛命邸(氷上姉子神社)→熱田神宮
右矢印日像鏡・日矛鏡:日前神宮・國懸神宮
右矢印布都御魂剣:宮中→石上神宮


ここで、宮中を神武天皇の都の橿原宮に読み替えてプロットすると

↓こちらのようになります。


西陣に住んでます-天皇家のアイテムライン


特別な存在である伊勢神宮を除けば、
これらの神宮が概ね夏至の日の出の方位に並んでいることがわかります。
この事実に対して合理的な説明を加えることは今のところできませんが、
興味深いレイアウトであることに間違いはありません。


なお、記紀を読み返すと、八咫鏡を除くこれらのアイテムは
軍隊を意味していたのではないかと私は思ってます。

日像鏡・日矛鏡→日向軍、八尺瓊勾玉→大王親衛隊
天叢雲剣→出雲軍、布都御魂剣→東国軍といった具合です。
そして、これらの神宮の場所は、橿原宮を防御するために

それぞれの軍が配備された場所と対応しているのではと思ってます。



以上の話で、戦後に神宮に選定された伊弉諾神宮と英彦山神宮を除き、
神代のエピソードに関連する神宮がすべて登場しました。


それでは、アマテラスの両親のイザナギ・イザナミを祀る伊弉諾神宮と
アマテラスの子のアメノオシホミミを祀る英彦山神宮はどうなの?

ってことですが、↓こちらを見てください。


西陣に住んでます-昭和に認定された神宮


メインのレイラインを形成する伊勢神宮と高千穂峰から
それぞれほぼ真西真北に位置していることがわかります。
距離が172kmある伊勢内宮と伊弉諾神宮は緯度方向に600mのずれ、
距離が176kmある高千穂峰と英彦山神宮は経度方向に450m位のずれ

といった具合です。これはきっと、メインのレイラインの形成後に

その基点から位置が決定されたんだと思います。


なお、神話で言えば、伊弉諾神宮が一番古い神社であるはずで、
仮にその説が真実である場合には、
伊弉諾神宮から見た真東のレイラインと
高千穂峰から見た夏至の日の出のレイラインの交差点を伊勢神宮としたと
考えられなくもありませんが、私はそれはないと思います。

イザナギ・イザナミの東の方位に
アマテラスをレイアウトする合理的な理由が私にはわかりませんし、
伊勢神宮の位置を決定するのに寄与したのであれば、
当然、明治の初めには神宮に認定されていたと思われます。
私はあくまで伊勢神宮の位置が決定された後に
アマテラスの両親を没する太陽の方位に

伊弉諾神宮をレイアウトしたんだと思います。



・・・というわけで、
神代のエピソードに関連するすべての神宮のレイアウトが
レイラインによって関連付けられていることがわかりました。

↓こちらがその結果です。


西陣に住んでます-神宮とレイライン


祭神で表示すると↓こちらのようになります。


西陣に住んでます-神宮の神々とレイライン


私は、どちらかといえば、これまでレイラインというものに懐疑的でした。


というのも一般に全然並んでもいないものを
無理やりつなげて、神秘的な思わせぶりをしているようなケースが

多々みられるからです(私の大好きな東スポみたいに・・・笑)。


例えば、「大江山元伊勢から見て伊勢神宮は冬至の日の出の方位にあり、
そのルートの間に千年の都の京都が位置している」

とするレイラインもその一つです。


実際見てみると、大江山の元伊勢から見て冬至の日の出の方位は
伊勢よりはかなり東に位置していて、渥美半島の先端付近を通過します。

西陣に住んでます-元伊勢-伊勢ライン


また、桓武天皇は平安京が元伊勢から伊勢へのルートにあるので、

平安京遷都を行ったいうのもめちゃくちゃ考えにくいことです。
大江山の元伊勢が素晴らしい場所であるだけに
科学的に根拠のないこういった風説が流布しているのは残念です。


ただ今回、古代の太陽神に限定すれば、

レイラインも結構いい線(笑)いっているのではないかと思った次第です。


さて、


ここで、今回のテーマであった伊勢神宮に伊勢がある謎について
私の推理をまとめたいと思います。あくまで推理ですが・・・(笑)


九州南部のキーパーソンだったアマテラスの孫のニニギは
春分・夏至・秋分・冬至を正確に把握するための太陽の観測所を
霧島山地の高千穂峰の周辺に開設し、農耕に役立てました。


時が過ぎ、ニニギの曾孫のイワレビコは、
神聖なる太陽の方位(夏至の日の出の方位)に理想の地があると考え、
神聖なアマテラスの形見の八咫鏡をお守りに、

親衛隊(八尺瓊勾玉)と日向軍(日像鏡・日矛鏡)を率いて

宮浦から海路を瀬戸内方面に進みました。


途中、出雲や吉備の平定に時間をかけながらも兵力を増強し(草薙の剣)、
豊かな地方を次々と平定しながら東に進み、浪速で上陸を試みます。
しかしながら、そこで対峙した大和軍はかなりの強敵で敗走しました。
太陽に向かって敵と戦ったことが敗戦の原因と考えたイワレビコは、

当初に上陸を予定していた紀伊半島東岸の熊野にまわりこみ、
そこで東日本の豪族の軍(布都御魂剣)と合流して、大和に進撃しました。
この結果、イワレビコは大和の豪族を滅ぼし、橿原宮で天皇に即位します。


天皇に即位したイワレビコ(別名ミマキイリビコ:崇神天皇)は、
西と北の勢力から大和を守るための要所である紀伊と大和北部に
それぞれ、日向軍(日像鏡・日矛鏡)と東国軍(布都御魂剣)を配備し、
橿原宮には親衛隊(八尺瓊勾玉)と出雲軍(草薙剣)を配備しました。
また、途中の戦いで怨霊と化した出雲の神を三輪山に祀る一方で、
畏れ多いアマテラスの八咫鏡を本格的に祀る場所を模索しました。


イワレビコの子のイクメイリビコ(垂仁天皇)の時代になると、
出雲軍(草薙剣)を預けられた斎王のヤマトヒメが、
高千穂から見て夏至の日の出にあたる方位で、
常世の波が打ち寄せる伊勢の礒宮に祠を建て八咫鏡を祀りました。

これが伊勢神宮の起源です。


イクメイリビコの子のオオタラシヒコ(景行天皇)の時代になると、
出雲軍(草薙剣)はヤマトヒメからヤマトタケルに委譲されて、
その後、尾張の熱田に配備されます。


・・・時は過ぎ、
持統天皇は自らをアマテラスとシンクロさせた書物である
古事記&日本書記を編纂させ、

自分の子を中心とする皇統の正当性をオーソライズしました。
またこの時、天皇家のシンボルとするインフラとして、

伊勢神宮の内宮、外宮、斎宮を
それぞれ葛城山、橿原宮、檜原神社の真東に建造しました。


持統天皇は歴代天皇ではじめて直接アマテラスを参拝しましたが、
その後、皇統が絶えてしまうという不運に見舞われたため、
以降、明治時代まで

天皇が伊勢神宮を直接参拝することはありませんでした。


以上が私が考える推理です。

かなり東スポ的ではありますが(笑)、

一応、これまでの考察結果をすべて反映しています。


最後に、今まで書いてきたことを
すべてひっくりかえしちゃうようで怖いのですが(汗)、
私自身が本音で思うのは、
丹波の籠神社から伊勢の外宮まで
わざわざシェフのトヨウケビメを呼び寄せちゃうくらい
グルメな天照大神のことですから
「伊勢エビやアワビなどの海産物が美味しい伊勢が気にいった」
というのが一番の理由ではなかったかということです(笑)。


3回にわたり長文をお読みいただき、ホントにありがとうございました!