伊勢に神宮がある謎に挑む2 | 西陣に住んでます

伊勢に神宮がある謎に挑む2

西陣に住んでます-伊勢神宮



「伊勢に伊勢神宮がある謎に挑む」全3回のうち、第2回で~す。


[第1回] の記事では、伊勢の地が

不老不死信仰の理想郷である常世を臨む地であることを示しました。


第2回のこの記事では、それまで(ほこら)に過ぎなかった伊勢神宮

国で最も重要な祭祀施設にまでブレイクした

飛鳥時代の日本にスポットライトを当てて考えてみたいと思います。


まずは今回のポイントとなる飛鳥時代の女帝持統天皇について

簡単に紹介したいと思います。


持統天皇は、本名を鸕野讚良(うののさらら)といいます。
飛鳥時代に中大兄皇子(後の天智天皇)の娘して生まれ、
13才で、中大兄皇子の弟の大海人皇子に嫁ぎました。


天智天皇が亡くなった後、天智天皇の子の大友皇子に対して
夫の大海人皇子が反旗をひるがえし、皇位をかけて争います(壬申の乱)。


当初、吉野で偽装出家をしていた大海人皇子と鸕野讚良は
命からがら吉野を脱出、伊賀伊勢の国を通って美濃に逃れます。
その後、戦いに勝利した大海人皇子は天皇に即位(天武天皇)し、
律令国家をめざして大改革を行います。
そして、鸕野讚良は皇后に、子の草壁皇子は皇太子になります。


天武天皇が亡くなった翌日、

天武天皇と大田皇女(鸕野讚良の実姉)の子である
大津皇子の謀反が発覚し、皇子は自殺します。

その後、鸕野讚良は2年間かけて天武天皇を葬りますが、

今度は天皇即位を目前とした皇太子の草壁皇子が病死します。


皇太子を失った鸕野讚良は自ら天皇に即位(持統天皇)し、

基本的に天武天皇の政策を継承しました。


伊勢神宮に関しては、第1回式年遷宮を実行すると同時に

晩年には天皇自らが伊勢神宮を参拝ました。


その後、草壁皇子の息子の軽皇子に譲位(文武天皇)し、

しばらくして亡くなりました。
遺体は天皇ではじめて火葬され、天武天皇と同一の墓に葬られました。
和風諡号(おくりな)は
高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)です。


・・・という持統天皇の一生でしたが、少し説明を加えたいと思います。


このブログでもたびたび登場していただいている天智天皇は、
乙巳の変蘇我入鹿(可愛いネーミングですよね・・・笑)を滅ぼした
あの大化の改新中大兄皇子です。本名を葛城皇子といいます。


天智天皇が亡くなった後に起きた壬申の乱は、

大海人皇子大友皇子が皇位を争った叔父vs甥の戦いです。


大海人皇子と妃の鸕野讚良は吉野から美濃にのがれる途中で
伊勢神宮の方位を向いて戦勝を祈願します。

これがこの夫妻と伊勢神宮との親密な関わりのキッカケでした。


大友皇子を破った天武天皇は天智系男子を排除して天武王朝を築きます。
そして、律令制度(法治国家)の確立に向けた改革を進めますが、
そんな改革の陰で次のようなことを行っています。


(1) 陰陽寮&占星台の設置
 国をあげて陰陽道に取り組む機関を創設するとともに
 科学的な天体観測を行うための天文台を創りました。
(2) 古事記&日本書紀の編纂
 子の舎人親王に日本の歴史をまとめるよう命令しました。その成果物の
 古事記日本書紀が正式に完成するのは、奈良時代初期になります。
(3) 伊勢神宮の祭祀の制度化
 未婚の内親王(天皇の娘)または女王(皇族の女子)の中から

 伊勢神宮に奉仕する天皇の代理である斎王を選び
 伊勢神宮の斎宮に派遣するという制度が確立しました。

 また、原則的に20年ごとに社殿を建て替え神座を遷す神宮式年遷宮

 という制度を定めました。


なお、意外なことに

持統天皇は明治維新前に伊勢神宮を直接訪れた唯一の天皇です。
代々の天皇は、即位すると斎王を指名して伊勢神宮を祀ってきたのですが、
天皇自身は直接的に伊勢神宮に参拝しなかったわけです。
これには必ず理由があるはずですが、定説はありません。
第3回の記事で私の考えを紹介したいと思います。


西陣に住んでます-伊勢神宮


ところで、天智天皇は弟の天武天皇になんと4人の娘を嫁がせています。


大田皇女(おおたのひめみこ):大津皇子の母
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ):草壁皇子の母
新田部皇女(にいたべのひめみこ):舎人親王の母
大江皇女(おおえのひめみこ):長皇子・弓削皇子の母


このことから、天武天皇が、

天智天皇から一目置かれる実力者であったことがわかりますが、
皇女4名がそれぞれ皇子を産んだため、
はからずも後継者争いが起こることになります。


大田皇女の大津皇子はかなり優秀な人物で、
天武天皇から愛されていたそうですが、
大田皇女が早く亡くなったこともあり、天武天皇が即位した後には、
壬申の乱で天皇と行動をともにした鸕野讚良が皇后に
その息子の草壁皇子が皇太子に指名されました。
天武天皇が亡くなった翌日に謀反が発覚して自殺したというのも
タイミングがよすぎるため、鸕野讚良による陰謀説があります。


なんとか、草壁皇子を皇位に一番近い位置までもってきた鸕野讚良ですが、
その努力も空しく、草壁皇子は病死してしまいます。
その時点では草壁皇子の子の軽皇子はまだ7才で

皇太子にもたてられません。

一方で天武天皇には子がたくさんいるため[→過去記事]
ひとたび皇位を譲ってしまえば、軽皇子には天皇になる目はなくなります。

そんなときに鸕野讚良が思いついた秘策が、
皇后である地位を利用して自らが天皇になることでした。
軽皇子が大きくなるまで自分がポストを守るというものです。

そしてこの作戦は見事に成功しました。

その後、持統天皇に譲位された軽皇子は、即位して文武天皇となりました。

そして、この作戦を強力にバックアップしたとされるのが、
大化の改新でブレイクした藤原鎌足の息子の藤原不比等です。
この藤原不比等は、ある史料では天智天皇の落胤とされています。


持統天皇との密約があったのか、
その後、藤原不比等の娘の藤原宮子が文武天皇に嫁ぎ、
藤原宮子が生んだ首皇子(後の聖武天皇)は皇太子となり、
その首皇子には藤原不比等の娘の藤原光明子が嫁ぐという
黄金のルール(パラサイトともいわれてます・・・笑)が確立します。

つまり、このルールによれば天武&持統天皇の子孫と藤原氏の女子が
皇統を継いでいくというものです。


さて、一見無茶をしているようなこのような体制の
正当性を証明する根拠となったとされる書物があります。
それは、持統天皇の在位中に編集されていた古事記日本書紀です。

日本書紀には次のような天孫降臨のエピソードがあります。


天にあった高天原(たかまはら)に住んでいる天津神(あまつかみ)のトップ、
アマテラス(天照大神)タカミムスビ(高皇産霊神)は、
地上にあった葦原中国(あしはらなかつくに:日本)を治めるべきなのは、
アマテラスの子孫のアメノオシホミミ(天忍穂耳命)であると考え、
アメノオシホミミに天降りを命じましたが、
アメノオシホミミは、葦原中国は物騒なので帰ってきてしまいました。
そこでアマテラスは、
タケミカヅチ(武甕槌)フツヌシ(経津主神)

を派遣し、葦原中国に住んでいる国津神(くにつかみ)の

コトシロヌシ(事代主)タケミナカタ(建御名方神)を屈服させ、

国津神トップのオオクニヌシ(大国主命)に葦原中国を譲るよう迫りました。
大国主命は大宮殿(出雲大社)を建てることを条件に国を譲りました。


アマテラスは、アメノオシホミミにもう一度天降りを命じましたが、
アメノオシホミミは子のニニギ(邇邇藝命)が適任というので、
最終的にニニギを指名しました。

そして三種の神器八尺瓊勾玉八咫鏡草薙剣)をニニギに持たせ、
葦原中国では八咫鏡をアマテラスの御魂と思って祀るよう指示しました。
葦原中国にある伊勢の国津神のサルタヒコ(猿田彦命)のガイドのもと、
ニニギの一行は、筑紫(九州)の日向高千穂の山に降臨しました。
ニニギはともに降臨したアメノウズメ(天鈿女命)
サルタヒコを伊勢まで送って行き、名前をもらって仕えるよう指示しました。


その後、ニニギは、山の神であるオオヤマツミ(大山祇神)の娘の
コノハナノサクヤビメ(木花開耶姫)笠沙の岬で出逢い、結婚します。
生まれた子供のホデリ(海幸彦)ホオリ(山幸彦)はその後争いますが、
海の神であるワタツミ(綿津見大神)の支援を受けたホオリが勝利します。
ホオリはワタツミの娘のトヨタマヒメ(豊玉姫命)と結婚し、
ウガヤフキアエズ(鵜茅不合葺命)が生まれます。
ウガヤフキアエズは、ワタツミの娘で育ての母のタマヨリビメ(玉依姫尊)
と結婚して神武天皇を生みました。
神武天皇は、東征をするために日向を旅立ちました。


こちらの系図は天孫降臨に関わる神々の系図を示したものです。


西陣に住んでます-天孫降臨


この古事記&日本書紀は、皇室にある古くからの言い伝えを編纂して
日本の正史を作るというもので、編集長は天武天皇の子の舎人親王でした。

そして、政権を握っている持統天皇にとって、

この言い伝えを少々変更して自分の都合のよいように歴史を作ることは

そんなに難しいことではないことは明らかです。


そんな変更があったかどうかは別として、

日本書紀の天孫降臨のストーリーを見ると、登場する神々が
持統天皇を中心とするキャストによって見事に再現されています。


↓こちらを見てください。


西陣に住んでます-天孫降臨と持統王朝


主人公であるアマテラスは持統天皇自身です。
イザナギタカミムスビは天智天皇のダブルキャストです。


スサノオを天武天皇とする考えもありますが、
私は素直に弟の大友皇子だと思います。

オオクニヌシはスサノオの子孫なので、
国譲りの話というのは壬申の乱に対応しています。


それなら天武天皇はどこにあらわれているかということですが、
持統天皇が一体化してると考えているか、眼中にないか(笑)

のどちらかだと私は思います。


ここで、しばしば指摘されるのは、
このストーリーが「天子降臨」ではなく、「天孫降臨」であることです。
の草壁皇子が急死したにもかかわらず、
皇統をの軽皇子(文武天皇)に継がせたかった持統天皇は
天孫降臨のエピソードを一部書き換えて
持統天皇から将来続くであろう皇統の正当性を主張したとするものです。


私もこの説を支持します。


もともとは、壬申の乱で勝利した天武天皇が、

自らの皇位の正当性を示したストーリーを

持統天皇がその一部分を書き換えて、

自ら始まる皇統の正当性を示したストーリーをつくったと考えます。


どこを一部書き換えたかについては、かなり奥深い(笑)ので
いつか別記事で示したいと思います。

一つ言えることは、ある一部だけを書き換えるだけで

対応するキャストがドラスティックに変化するということです。


さて、ここで、ポイントとなっているのは、
もう一人のダブルキャストである藤原不比等です。
山の神オオヤマツミ海の神ワタツミを演じている藤原不比等には、
天智天皇の落胤説がありますが、
このキャスティングを見る限り、それも納得です。
もともとオオヤマツミとワタツミも同一神であるという説もあります。


こうやって皇統を維持していこうとした持統天皇と藤原不比等ですが、
実際にはこのようなシナリオどおりにはいきませんでした。
聖武天皇に皇統を継ぐ男子は生まれず、
そのために天智天皇系の光仁天皇・桓武天皇親子に皇統が移り、
平安京遷都が実現したわけです。


さて、持統天皇としては、自らを祖とする皇統を確実にするためには、
この天孫降臨神話を

なんとかしてオーソライズしなければならなかったわけです。
このことは、先に亡くなった天武天皇にとっても
壬申の乱で勝ち取った自らの皇位を正当化する上で
重要な課題であったと考えられます。


そこで重要となるのが、アマテラスを祀る伊勢神宮です。
それまでにはそれほど重要視されて来なかった伊勢神宮を
国家の中心に置く必要があったわけです。


そこで、天武天皇&持統天皇は伊勢神宮に立派な社殿を建築し、
その権威をいつまでも保つために
神宮式年遷宮という制度を創ったんだと思います。
そしてその第1回神宮式年遷宮が持統天皇4年の690年に行われました。


西陣に住んでます-神宮式年遷宮


ここで、ちょっと気になることがあります。
第1回神宮式年遷宮ということは、それ以前は伊勢神宮創建以来、
アマテラスは同じ祠に鎮座していたということになります。


西陣に住んでます-五十鈴川


最初の祠があった場所は五十鈴川の畔というので
内宮は現在の場所にもともとあった可能性もありますが、
実際にはこの第1回神宮式年遷宮の時に

場所が確定したのではないかと私は思います。

というのは、あまりにも伊勢神宮の位置というものが、

大和飛鳥地方の重要な場所の緯度と正確に対応しているからです。

こんな正確な測量ができるかということですが、

方位の測量は距離の測量に比べて簡単であることと、

天体観測をする陰陽寮と占星台の創設によって

方位の測量の精度はかなり高かったものと考えられます。


↓この地図を見てください。


西陣に住んでます-大和と伊勢


↑この地図の伊勢の部分を拡大したのが↓この地図で


西陣に住んでます-伊勢


大和&飛鳥を拡大したのが↓この地図です。


西陣に住んでます-大和


第1回で紹介しましたが、斎宮は大和の檜原神社と同緯度にあります。

ここで、内宮外宮の同緯度を見てみると、葛城山(かつらぎさん)

畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)があります。


どのくらいの緯度の違いかといえば、こんなにわずかです。


檜原神社-伊勢斎宮→200m

畝傍橿原宮-伊勢外宮→100m

文武天皇稜-朝熊山→50m

葛城山-伊勢内宮→100m


大和-伊勢間が約100kmあるので、

真東との差は0.03~0.1度位ということになります。

太陽の見かけの大きさが0.5度であることを考えると、

これはもう完ペキに誤差の範囲内であると考えられます。


ここで葛城山と畝傍橿原宮についてそれぞれ見ていきますと・・・


葛城山については飛鳥の地において最も目立つ山です。


西陣に住んでます-葛城山


大和朝廷は、もともと三輪大王家(天皇家)と葛城葛城氏の連合が

ベースといわれてますが、その葛城氏のシンボリックな山が葛城山でした。

こういった神聖なランドマークの位置に完全に対応させて
伊勢神宮の内宮の位置が決まったことは十分に考えられると思います。
そして、持統天皇の父の天智天皇の本名が葛城皇子というのも
葛城氏との関係が推察される証拠の一つです。
当時の皇子の名前は、育てられた氏族の名前をとってつけるのが
よくあるパターンでした。

持統天皇自身も葛城の神社を訪れた記録が残っています。


また、伊勢神宮に参拝しようとした持統天皇に対して、

農業が忙しい春に参拝するのは農業の妨げになるというのを理由にして
三輪氏が職を賭けていさめたというエピソードも気になります。

三輪氏といえば、葛城山の反対側に位置する三輪山を本拠とする
葛城氏のライバルです。

葛城氏のシンボルの山が起点となっている伊勢神宮に

天皇が参拝することを許せなかったという可能性があります。

そうでなければ、職を賭けていさめる必要はないと思います。


一方、畝傍橿原宮には初代神武天皇の宮殿がありました。
神武天皇が学術的に実在するか否かは別として、
重要なのは、この時代に編纂されていた日本書紀に
初代天皇の神武天皇がこの大和の地に宮殿を造って政治を行った

と書いてあることです。


初代天皇の聖地が皇祖神を祀った伊勢神宮と対応しているのは

とても自然なことであると思います。


そして、[第1回] の記事で聖なる場所とした朝熊山ですが、

これと対応するのが、文武天皇陵です。


この関係については、朝廷の陰陽寮が

先のキャスティングで重要なニニギ役となっている文武天皇が眠る地を

聖なる朝熊山から逆に測量して決定したのではと思います。


西陣に住んでます-文武天皇稜


そして、この文武天皇陵のすぐ北、

飛鳥でもっとも日当たりのよい丘の上には、天武・持統天皇陵があります。


西陣に住んでます-天武・持統天皇陵

西陣に住んでます-天武・持統天皇陵

西陣に住んでます-天武・持統天皇陵


このポイントは、内宮と外宮の緯度のほぼ中間点に位置しています。

もっとも多くのパワーを受けることができる場所ということで

位置が決定されたのかもしれません。


ちなみにすぐ近くには、田道間守常世から

非時香菓(橘)を持って帰ってきて植えたという橘寺があります。


西陣に住んでます-橘寺



・・・というわけで、この第2回で説明した私の考えをまとめますと、


伊勢神宮には、

天武・持統天皇が自らの皇統の正当性を主張するために編纂した

古事記・日本書記をオーソライズするためのテーマ館としての役割があり、

その正確な位置については、陰陽寮の最新科学技術を駆使して決定された

ということです。


ただ、今回の考察でも、

伊勢神宮がだいたい伊勢のあたりにあることを前提として、

正確にレイアウトを決めたことだけをウジウジ言っているわけで(笑)

残念ながら、依然として、なぜ伊勢にあるのかという問題に対して

明解にこたえているわけではありません。


なにしろ壬申の乱のときに、

大海人皇子が伊勢神宮の方位を向いて戦勝祈願したのですから、

そのときにはどんな形であれ、伊勢神宮はあったわけです。


そこで、最終回の第3回では、

天孫降臨神宮太陽信仰という3つのキーワードをもとに

グローバルな視点から、

伊勢神宮がなぜ伊勢にあるかを明解に示したいと思います。


実はここまでの話は、第3回で結論を言うためのプロローグにすぎません。

私が考える答は実はとってもシンプルです。


ヒントを出しておきます。


「ちっちゃいことは気にするな~それタカチホ~タカチホ~」(笑)。