天智系に守られた長岡京遷都 | 西陣に住んでます

天智系に守られた長岡京遷都

西陣に住んでます-天智天皇稜



長岡京遷都平安京遷都を行った桓武天皇は、
天智天皇(てんじてんのう)の血を引く天皇です。

実はこのことが遷都のモチベーションの一つになったといわれています。


順を追って説明しますと・・・


飛鳥時代、大化の改新(645年)の中心人物の
中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
本名を葛城皇子(かづらきのみこ)と言います。
661年に母の斉明天皇(さいめいてんのう)が亡くなると、
皇太子のまま天皇に即位しないで政務を行いました(称制といいます)。

この間、朝鮮半島での白村江の戦いで負けたということと、

大津遷都したことが大きな出来事です。
そしてついに、668年に天皇に即位しました。これが天智天皇です。


天智天皇が、即位した4年後の672年に亡くなると、

天智天皇の子の大友皇子(おおとものみこ)
天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)が対立し、
壬申の乱(672年)が起こります。
この乱に勝った大海人皇子は天皇に即位しました。これが天武天皇です。


以降、奈良時代末期まで
「天武系」と呼ばれる天武天皇を祖とする男系男子が皇統を継ぎました。

ちなみに敗者の大友皇子はすでに即位または称制していたという説があり、

明治時代になると、弘文天皇(こうぶんてんのう)として

歴代天皇に名を連ねるようになりました。


西陣に住んでます-天皇家系図


ところが奈良時代末期になると天武系の男系男子が絶え、
「天智系」と呼ばれる天智天皇を祖とする男系男子の

光仁天皇に皇統が移りました。

光仁天皇の退位後は、子の桓武天皇が即位し、
以降、現在に至るまで、天智系天皇が皇統を継いでいます。


このあたりの経緯を詳しく見るために

天武天皇と天智天皇を祖とする男系男子の系図を作ってみました。


まず、↓こちらは天武天皇を祖とする男系男子の系図です。


西陣に住んでます-天武系男系男子


天武天皇には10人の皇子がいましたが、このうち正式な夫人の子は、

草壁大津弓削舎人の5皇子です。

もちろん、正式な夫人が産んだ皇子だけが皇統を継ぐわけではなく、

皇子が皇統を継いだ後で、

その皇子の母が正式な夫人と認められる場合もあります。

ただ、基本的に明らかな序列があったのも事実です。


図の空色の皇族は、天皇の正式な夫人が産んだ皇子です。

それに対して緑色の皇族は、天皇の正式でない夫人が産んだ皇子、

または正式な夫人が産んだ皇子の男子です。

さらに黄色の皇族は、緑色の皇族の男子です。

また、天皇については、枠を太線で描きました。


また、同じルールで天智系の男系男子の系図を描くと↓こちらです。


西陣に住んでます-天智系男系男子


ここで、歴代天皇の皇位継承を見ると、

空色の皇族が天皇に即位し、それがかなわない場合には、

緑色の皇族が天皇に即位するというのが普通で、

黄色の皇族は皇族の身分を離れて(臣籍降下といいます)、

皇統を継ぐことができないのが普通です(例外もあります)。


このことを参考にして、天武系直系の称徳天皇(女帝)の後の

皇位継承について詳しく見てみたいと思います。


天武系の最後の天皇となった称徳天皇が亡くなった770年の時点で

排除されずに生存していた緑色の皇族は、

天武系では、長皇子の男子の智努王(693年生)と大市王(704年生)、

天智系では、施基皇子の男子の白壁王(709年生)でした。

このうち、智努王と大市王はすでに臣籍降下していて、

年齢も智努王が77歳、大市王は66歳とかなりの高齢でした。

このため、当時の天武派の有力政治家である吉備真備

2人いずれかを擁立しようとしても周辺のコンセンサスが得られず、

最終的に、藤原永手藤原良継藤原百川が推す白壁王が

史上最高齢の62歳で天皇に即位しました。これが光仁天皇です。

こうして見てみると、光仁天皇に皇統が移ったのも

あまり違和感なく、ナチュラルな流れのような感じがします。


光仁天皇の後を継いで皇統を継いだのは桓武天皇でした。

この皇位継承の陰には、井上内親王の事件があったことは、

[過去記事]で紹介しました。


そして、この桓武政権も最初はけっして盤石とは言えませんでした。

すぐに親の塩焼王の代から臣籍降下している氷上川継

皇位を狙って反乱を起こしました(氷上川継の乱)。


桓武天皇はすぐに反乱を鎮圧しましたが、この事件がトラウマになって

天武派の残党が多くいる平城京に嫌気をさしたようです。

そして、天智系の天智天皇と大友皇子に対する思いが

より強くなったと思われます。

即位して3年たった784年には長岡京遷都を敢行しました。

長岡京は、天智系のホームグラウンドである大津

母の高野新笠の出身地にも近く、

桓武天皇にとっては平城京よりも安心できる場所だったようです。


ここで、

天智天皇と大友皇子に関連する大津周辺の史跡に注目したいと思います。
それらを地図上にプロットすると、↓こんなふうになります。

西陣に住んでます-天智系スポット

(クリック拡大)


そして、長岡京の大極殿から鬼門方位と考えられる艮(うしとら)

後に平安京で重要視された寅(とら)の方位[→過去記事] に線を引くと

↓こんな感じになります。


西陣に住んでます-天智系スポット

(クリック拡大)


この地図を見ると、日吉大社が見事に艮の方位に位置しているのと、

天智天皇稜弘文天皇陵、そして三井寺がほぼ寅の方位に位置している

のがわかります。


このことから、天智天皇と大友皇子という二人の祖先に守ってもらえるよう

桓武天皇が長岡京のレイアウトを決めたとも考えられなくもありません。


そもそも壬申の乱で大海人皇子は、関ヶ原を抑えて琵琶湖東岸を通って

大津京に攻め入りました[→過去記事]

つまり天智系にとっての鬼(天武天皇)は寅の方位からやってきたわけで、

桓武天皇がこの方位を王城鎮護のポイントとして考えるのは、

めちゃくちゃナチュラルだと思います。


ただ、結果的にはこの後に弟の早良親王の事件があって[→過去記事]

桓武天皇は、天智天皇と大友皇子の霊に

鬼(怨霊)からの守護を依頼することができなくなりました・・・

桓武天皇の弟の早良親王はもちろん天智系ですからね。


来週のメイン記事では、これらの天智系のゆかりのスポットを

写真と考察を交えて紹介したいと思いま~す。

これは平安京の王城鎮護のバリアシステムとも関係すると思われます。




関連記事→[平安京の王城鎮護バリアシステム総合案内]