桓武天皇が恐れた怨霊 | 西陣に住んでます

桓武天皇が恐れた怨霊

西陣に住んでます-天皇家-藤原家系図

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これまでに[平安京の王城鎮護バリアシステム] として、

怨霊撃退のために平安京に仕掛けられたサブシステムについて

いろいろと考えてきました。


このあたりでこの時代に桓武天皇が恐れた怨霊について

何回かに分けて地道に紹介したいと思います(笑)。


まずこの記事では、

記録がある日本史上最も古い怨霊である井上内親王&他戸親王の親子と

桓武天皇が最も恐れた怨霊である早良親王について紹介したいと思います。


ちなみにこの3人を含めた天皇家の系図を示すと次の通りです。


西陣に住んでます-天皇家系図

また、この怨霊が発生するプロセスで藤原家が大きく関与しています。

その関係者を中心とする系図を示すと次の通りです。


西陣に住んでます-藤原家系図


なお、天皇家と藤原家の系図を合わせたものは記事の冒頭に示しました。




1井上内親王&他戸親王


一般に、天皇の正式な子女のうち男子、または天皇の兄弟には

親王という称号が与えられ、天皇の正式な子女のうち女子には

内親王という称号が与えられます。
また、これ以外の男子の皇族にはという称号が与えられることになります。

このことに気をつけて以下を読んでいただければと思います。


井上(いがみ)内親王は、
聖武天皇の娘(第一皇女)として生まれました。
母は、正妻の光明皇后ではなく県犬養広刀自です。
天皇の代理として伊勢神宮に奉仕する伊勢斎王を20代後半までつとめた後、
天智天皇の孫の白壁王の妃となり、他戸王を産みました。


この時代のバックグラウンドですが、壬申の乱天武天皇

兄の天智天皇の息子の弘文天皇大友皇子)を滅ぼした後、
奈良時代には天武系が天皇の地位を独占していました。


ちなみに、今の常識的な考え方では、天武系の文武天皇や聖武天皇は

天智天皇のDNAも受け継いでいるので、天智系でもありそうですが、

それは女性を介してのDNAなので、天智系とは明確に異なりました。

これが、皇統における男子男系のルールとされるものです。


さて、井上内親王の父の聖武天皇といえば、天武天皇のひ孫で、

東大寺を創建した天平時代の天皇です。
まさに奈良時代を代表する天皇と言えます。


その聖武天皇の妃といえば、藤原光明子が有名です。
光明子は阿倍内親王(女子)と基王(男子)を産み、
基王は皇太子となりますが、その後にすぐに亡くなったため、

藤原四兄弟vs長屋王の間で後継者争いが起きます。
争いの結果は藤原四兄弟の勝利でした。

長屋王は陰謀によって無実の罪を着せられ自殺しました。


その後、藤原光明子は初の王族出身者でない皇后光明皇后)となり、
阿倍内親王は、初の女性皇太子となります。

天武系には他にも男子がいるにもかかわらず、こういう状況になったのは、
どうしても天皇を藤原氏から出し続けるという藤原氏のゴリ押しです(笑)。


一人勝ちの藤原氏でしたが、その後藤原四兄弟が次々と天然痘でなくなります。
これを長屋王の怨霊の仕業と考えた光明皇后が、
その怨霊を鎮魂するために東大寺を建立したという説があります。
私もそんな気がします。東大寺の場所って都の鬼門にありますからね。


聖武天皇がなくなると、
阿倍内親王が即位して女帝の孝謙天皇(称徳天皇)の時代となりました。
結婚をしていない(結婚を禁じられた?)女帝は、
信頼していた道鏡を天皇にしようとしましたが、
和気清麻呂の働きによって計画はオジャンになります。


孝謙天皇がなくなると、他に天武系に適切な皇位継承者がいませんでした。
そこで次の天皇候補として注目されたのが、井上内親王の夫の白壁王です。


白壁王は天智天皇の孫で天皇から最も遠い位置にあった皇族ですが、

妃が天武系メインストリームの聖武天皇の皇女の井上内親王であったため、

俄然、注目を浴びました。
多分、白壁王の即位は、天武派にとってのギリギリの妥協線だったのです。


というわけで、白壁王が天皇(光仁天皇)に即位しました。


井上内親王は皇后となり、

子の他戸(おさべ)王は皇太子の他戸親王となります。

光仁天皇の妃のうち、最も身分の高いのは井上内親王で
その第一皇子の他戸王が皇太子となるのは自然な流れです。

このときに陰で暗躍したのが藤原北家の藤原永手でした。


ところがその後、藤原永手が死去した後に大きな事件が起きます。


宝亀3年(772年)、井上皇后が光仁天皇を呪った罪で皇后の地位をはく奪され、
他戸親王も皇太子の地位をはく奪されてしまうんです。
そして、他戸親王にかわって皇太子となったのは
光仁天皇と身分の低い帰化氏族出身の高野新笠との子の山部親王です。


その後、井上内親王と他戸親王は

光仁天皇の姉の難波内親王を呪い殺した容疑で幽閉され、

宝亀6年(775年)4月27日にともに急死しました。

2人同じ日に急死したことから毒を盛られたと考えられています。

一方で山部親王は、天応元年(781年)、天皇(桓武天皇)に即位しました。


この一連の事件に関しては、次のような解釈がなされています。


せっかく天武系から皇統を取り戻した天智系としては、
天武系のメインストリームを行く井上内親王の子孫が皇統を継いでいくのは、
天武系の芽を残すこととなり、トラブルの元と考えていたようです。
そこで、天智系を推す藤原式家の藤原良継藤原百川
井上内親王と他戸親王を無実の罪に陥れて消したという説があります。
もちろんその場合、呪いをかけたというのはイチャモンだと思います。
証明のしようがないことですからね(笑)。


その後、天災地変がしきりに起こり、

宝亀08年(777年)には、藤原良継が死去、天皇と皇太子が病気になりました。
これを怨霊の仕業と見た光仁天皇は、

井上内親王の墓を御墓(みはか)と呼ぶことにしました。


それでも、天皇家と藤原家には不幸が続きます。
宝亀09年(778年) には坂合部内親王が死去し、
宝亀10年(779年) には藤原百川が死去しました。




2早良親王


白壁王高野新笠との間には、2人の男子がいました。
このうち兄は山部王で、弟は11歳で出家して奈良の東大寺に入りました。


その後、父の白壁王が天皇(光仁天皇)に即位すると、
兄は皇太子(山部親王)となり、
弟は親王禅師と呼ばれ、東大寺に大きな影響力を持つようになります。


そして、天応元年(781年)、

光仁天皇が譲位して、山部親王(桓武天皇)が即位しました。
またこのとき光仁天皇は、
親王禅師を還俗(出家の逆)させて皇太子(早良親王)にしました。


実はこれがトラブルの始まりでした。


この当時、皇統が天武系から天智系に移ったばかりで、
朝廷は非常に不安定な時期といえました。
朝廷がもっとも恐れたのは、

天武系の巻き返しと大きな権力をもっていた奈良の仏教勢力です。

光仁天皇が早良親王を皇太子にしたのは、
このうち、東大寺を掌握していた早良親王を皇太子とすることにより、
奈良の仏教勢力を味方につけようと考えていたとされます。


ただし、これは桓武天皇の考えていた国家イメージとは
かなりズレがあったようです。
天智系皇統による新しい国家を考えていた桓武天皇にとって、
仏教勢力も目の上のたんこぶで、彼らを避けるために
延暦03年(784年)に新しい都である長岡京の造営を始めました。


そしてまもなくある事件が起きました。


長岡京遷都の責任者の藤原種継が暗殺されたのです。
良継・百川の死後、藤原種継は藤原式家の年長者で
桓武天皇から厚く信頼されていたといわれています。
この種継暗殺には天武派の大伴氏が指導的な関与をしていたとされ、
事件直前に亡くなった大伴家持は生前の官位を剥奪され、
大伴継人は処刑されました。


ただ事件はそれで解決とはなりませんでした。

大伴家持は春宮大夫という役職についていました。
この春宮大夫というのは皇太子を補佐する機関の長官です。
ということで、皇太子の早良親王こそがこの事件を首謀した謀反人である

という嫌疑をかけられ、長岡京の乙訓寺に幽閉されてしまいました。


西陣に住んでます-乙訓寺 西陣に住んでます-乙訓寺



無実を訴える早良親王はハンガーストライキを行い、
785年に淡路島へ移送中に亡くなり、淡路島に埋葬されました。


その後、天皇家と藤原家に次々と不幸が訪れました。


延暦05年(786年)  妻の藤原旅子の母の藤原諸姉が死去
延暦07年(788年)  妻の藤原旅子が死去
延暦08年(790年)  皇太后の高野新笠が死去
延暦09年(790年)  皇后の藤原乙牟漏が死去、皇太子の安殿親王が病気
延暦11年(792年)  長岡京で二度の大洪水


そこで、陰陽師が占ったところ
早良の怨霊が祟りを起こしていることが判明しました。

国家機関の陰陽師が正式に占ったのですから、

早良親王は正式に怨霊と認められたわけです。

これが何を意味するかといえば、

早良親王は無実であったということです。


・・・というわけで、桓武天皇は、怨霊に呪われた都の長岡京を放棄し、

怨霊撃退のための風水都市の平安京に遷都を行ったと私は信じています。

なお、これらの怨霊に対して朝廷が行った対策については

別記事で紹介したいと思います。




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