時代がかわっても変わらない。
と思うことがよくある。
母娘は恋多くし、歌も共に「百人
一首」のなかで選ばれている。
小式部内侍
小式部内侍(999-1025)は女流
歌人として知られた和泉式部の娘。
和泉式部との最初の夫・橘道貞と
のあいだにもうけられた女で、の
ち一条天皇の妃・中宮彰子に仕え
る。
母親譲りの美貌と才気で、小式部
は、藤原定頼、藤原教通、藤原公
成など宮廷の貴族との交際で知ら
れる。
小式部内侍(百人一首)
小式部内侍の百人秀歌。
大江山いくのの道の遠ければ
まだふみもみずあまの橋立
大江山、そして生野を越えてゆく道
は、とても遠いので、私はまだ天橋
立さえも見ておりません。
という意味になる。
天橋立の景勝
大江山は山城と丹波との国境追坂。
「生野」は丹後国天田郡(現福知山
市)で、「行くの」道のりは遠いが
、まだ「踏み」も「文も」見ずの天
橋立の景勝を詠む。
当時、小式部内侍は歌合せに詠進す
ることになったが、藤原定頼は彼女
に「代作を頼む使者はだしましたか」
とからかった。このときに即興でこ
の歌を詠んだ。当意即妙の受け応え
に狼狽し、藤原定頼は、返歌も出来
ずに立ち去り恥をかき、その後小式
部内侍の歌人としての名声が高まる。
和泉式部の娘・小式部内侍
小式部内侍と和泉式部
万寿2(1025)年に藤原公成の子
(頼忍阿闍梨)を出産した際に小
式部は亡くなり、周囲を驚かせた。
このとき和泉式部は歌に詠む。(
『後拾和歌集』哀傷)
とどめおきて誰をあはれと
おもふらむ子はまさるらむ
子はまさりけり
亡くなった娘は、この世に自分の
子どもと母親の私を残して、誰を
あはれと思っているのだろう。
我が子を想う気持ちがまさってい
るだろう。
私もあの子との死別が何よりもつ
らかったのだから。
和泉式部の百人一首「あざらむ此よの外の思出に」
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