大河ドラマ「光る君へ」に登場する

清少納言。

清少納言は随筆『枕草子』で知られ、

同じく宮廷に仕えていた小説「源氏

物語」の紫式部とは、いろいろ違う

ところがあるようだ。

 

『枕草子』

『枕草子』の始まり(一段)。

春は、曙。やうやう白くなりゆく。

山ぎは少し明かりて、紫だちたる

雲の細くたなびきたる。

 

春は夜明けの曙がいい。しだいに

空が白みはじめる。

山のきわが少し明かり、紫がかり

雲が細く長くひいている。

と、いう。

京の都に立ちてふと思う。季節は、

やがて春から夏、秋、冬とゆるや

かに移ろいゆくが、自然の姿を吟

じるものが京の都にあるのだろう。

 

 

 

京都御所からみる東山の峰々(5月中旬)

 

『枕草子』(香炉峰の雪)

宮仕えをしていた清少納言。

かの女は自分の体験をもとに随筆

を書いている。そのひとつ、香炉

峰(こうろほ)の雪の話がある。

ある雪の降り積った日。

女房たちが格子をおろし、世間話を

している。そのとき中宮が、

「少納言よ、香炉峰の雪いかならん

と仰せらるれば、御格子あげさせて、

御簾を高くあげたれば、笑わせたま

ふ。」とある。

中宮の「香炉峰の雪いかならん」は、

漢文『白氏(はくし)文集』の一

節に「遺愛寺鐘欹枕聽香爐峰雪撥簾

看」とあり、遺愛寺の鐘は枕をそば

だてて聴き、香爐峰の雪は簾を欹(

かかげ)てみる、とある。

少納言が御簾をまきあげてみせ、中

宮は少納言に(さすがね~と)ほほ

えまれた。という話である。

 

 

「枕草子(香炉峰の雪)」の清少納言

 

清少納言と藤原氏(道隆)

清少納言の仕えた藤原定子の父、藤

原道隆の一門は中関白家と呼ばれた。

嫡男・道隆は父・兼家の権勢を受け

継ぎ、娘・定子を一条天皇のもとに

入内させ、990年に摂政・関白とな

り、長男・伊周(これちか)を重用

させる。しかし長徳元(995)年道

隆は病気で急死。

清少納言と藤原氏(道隆→道長)

藤原道隆の弟・道長(兼家の五男)

は道隆なきあと権勢を奮う。

道長は父を喪った伊周を政敵とし、

翌年に伊周とその弟の隆家を花山院

への不敬の罪で左遷させる。

長保元(999)年道長の長女彰子

が一条天皇のもとに入内。

翌年長保2年定子は皇后に、彰子

が中宮にという、二后並立の異例

の措置がとられる。

同年長保2(1000)年12月、定子

は第二皇女を出産したまま25歳

の生涯を閉じる。

 

 

       清少納言と父・清原元輔      紫式部と父・藤原為時

 

清少納言と紫式部(年譜)

康保3(966)年 清少納言誕生 

         藤原道長誕生

天延元(973)年 紫式部誕生

天元5(982)年 清少納言(17歳)結婚

         夫・橘則光(18歳)      

天元6(983)年 清少納言出産(男・則長)

永観2(984)年

8月円融天皇譲位。花山天皇践祚。

10月紫式部父・藤原為時式部に任ぜられる。

寛和2(986)年

1月清少納言父・清原元輔、肥後守に任ぜられる。

6月花山天皇。出家、退位。一条天皇践祚。

中納言藤原義懐(花山天皇叔父)出家。

同月藤原兼家、摂政となる。

7月詮子(兼家娘)皇太后となる。

永延2(988)年

3月兼家、六十の賀。

藤原彰子(道長・倫子の娘、紫式部の女主)出生

永祚元(989)年

2月道隆、内大臣に任ぜられる。

12月兼家、太政大臣に任ぜられる。

正暦元(990)年

1月一条天皇元服。定子入内する。

5月兼家、関白となり、道隆、摂政となる。

6月清原元輔、任国肥後で死去。

7月兼家死去。

10月定子、中宮となる。

権中納言道長、中宮大夫を兼ねる。

正暦2(991)年

12月道隆、四十の賀。

正暦4(993)年

4月摂政道隆関白となる。

11月清少納言(27歳)宮に初出仕

長徳元(995)年

1月 藤原原子(関白道隆女。定子妹)、

   東宮に参入。

4月 道隆出家・死去。

   藤原道兼(道隆弟)が関白

5月 関白道兼、死去。道長に内乱の宣旨。

7月 この頃から伊周と道長の論争。

   隆家従者と道長従者の闘争相つぐ。

長徳2(996)年

1月 

伊周・隆家、従者に花山法皇を射さ

せる。

紫式部は父・為時が越前守に任ぜら

れ、ともに下向する。

4月

伊周を太宰権、隆家を出雲権守に

左遷。

5月中宮定子、二条邸において出家。

伊周を播磨に、隆家を但馬にとどめる。

6月二条邸焼失。

中宮定子高階明順邸に移る。

夏頃少納言久しく出仕せず。

10月

貴子(故道隆妻、定子・伊周らの母)

が重病。伊周ひいそかに入京。露見し

筑波に追われる。同月貴子死去。

12月中宮定子、脩子内親王を出産。

長徳3(997)年

6月中宮定子、職の御曹司に入る。

長徳4(998)年

紫式部(25歳)、父の任国より帰京し、

宣孝と結婚。

長保元(999)年

11月彰子入内、女御となる。

中宮定子、第一皇子敦康親王を出産。

長保2(1000)年

中宮定子を皇后と、女御彰子を中宮とする。

長保3(1001)年

4月紫式部(28歳)、宣孝と死別

『源氏物語』の執筆始まる。

少納言、宮仕えを辞去する。

寛弘2(1005)年

道長四十の賀。

倫子(道長妻、彰子母)正二位に

(前年3月)

寛弘5(1008)年

花山法皇崩御。

7月中宮彰子出産のため土御門邸に

移る。道長、女郎花を折って式部を

訪ね、歌を贈る。

11月藤原公任「わかむらさきや侍ふ」

と式部に戯れかかる。

12月内裏に引きはぎ(盗人)侵入。

寛弘6(1009)年

4月和泉式部、中宮彰子に出仕。

夏に道長、梅の実に寄せて歌を贈る。

一夜、道長が戸を叩くが式部応じず。

寛弘7(1010)年

2月藤原奸子(道長女)、東宮(三条

天皇)に参入。

寛弘8(1011)年

2月為時、越後守となる。

秋に惟規、父の任地に赴き死去。

6月一条天皇崩御。三条天皇践祚、

敦成親王、東宮。

長和元(1012)年

2月中宮彰子を皇太后に女御奸子を中

宮とする。

長和2(1013)年

この頃皇太后彰子の取次役として、藤

原実資らと応接する。

紫式部、この頃家集「紫式部集」編集、

「源氏物語」完成。

長和3(1014)年

1月皇太后彰子病気で式部清水寺参詣。

伊勢大輔と会う。

6月為時、越後守を辞して帰京。

為時三井寺で出家(長和5・1003年)

寛仁3(1018)年

2月紫式部没。紫式部とし45歳。

万寿2(1025)年

清少納言没。とし61歳

万寿3(1026)年

12月藤原道長没。道長とし62歳

 

 

 

藤原道隆(井浦新) 妻・高階貴子(板谷由夏)  道長(柄本佑)

 

 

 

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