神社とゆかりある人物などを通し

て移りゆく時代の町の姿をみるこ

とができる。

 

大阪南部の街の大森神社。

菅原道真を祭神とした神社で厄払

いの祈祷をしてもらう。

 

 

 

大森神社(大阪府泉南郡熊取町大宮)

 

熊取の大森神社

熊取の地名がはじめて歴史の舞台

に登場するのが文献「日本後記」

に記載される。という都から遠く

離れた地であった。

 

 

熊取と桓武天皇(熊取野狩猟)

ときは延歴23(804)年。

桓武天皇は、和泉国を経て紀伊国

玉津嶋に着き、10月13日雄山道

より日根の行宮にかえる。翌14日

熊取野(現熊取町)で狩猟する。

難波行宮に戻ったのが2日後(10

月15日)。

熊取野周辺を含む和泉国南部は、

耕地の開発が遅れ、天皇は、行幸

・狩猟をし、その地域の群臣・豪

族が従うことを確かめ、開発可

能な土地をめぐって議した。

 

 

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桓武天皇の熊取野狩猟(延歴23・804年10月14日)

 

桓武天皇と平安京

桓武天皇(737-806)は、光仁天皇

皇子として誕生。母が皇族出身でな

いために、45歳にして遅く即位する。

七代70年余り続く奈良の都では、

や貴族の力強く、思い通りの政治はで

きないために784年、都を奈良の平

城京から交通の便利な山背(やましろ

・京都府)の長岡に移す。

ところが、都造りの責任者・藤原種次

が殺される事件が起きるなど、長岡京

の造営は進まなかった。そこで桓武天

皇は、長岡京の建設を中止し、和気清

麻呂を造営大夫として都づくりに専心

させ、794(延歴13)年10月22日、

京都に遷都した。

桓武天皇は都・平安京の完成を見

ず、70歳で歿。

 

和泉国南部は10世紀頃まで進

捗が見られないままつづく。

 

 

明治28(1895年)年、桓武天

皇の京都への遷都にちなみ、平安

遷都1100年を記念して桓武天

皇を祀る平安神宮がつくられた。

 

イメージ 3

 

平安神宮(大極殿・京都府京都市左京区岡崎西天王町97

 

桓武天皇と柏原陵

桓武天皇の陵所は、柏原陵で、桓

武天皇の異称が柏原天皇による。

戦国時代に、桓武天皇の柏原陵は、

伏見城の敷地内にはいったため、

幕末にあらためて現在の場所を柏

原陵に定めた。

 

イメージ 5

 

伏見桃山城付近の武天皇柏原陵

 

大森神社祭神(菅原道真)

大森神社菅原道真公を祭神としている。

 

 

 

菅原道真(天神信仰)

天神様はもともと天津神(あまつかみ)

といい、天照大御神ら天界を司る神々

を意味した。

しかし怨霊となった菅原道真が神の位

に昇り「天満大自在天神」という神名

で呼ばれると、道真を天神様と呼ぶよ

うになり、天神様を祀る神社を天満宮

という。

 

宇多天皇ー菅原道真と藤原時平ー

宇多天皇(867-937)は「寛平の治」

と呼ばれ、親政を敷き、関白・藤原基

経が没すると道真を重用した。天皇は

譲位に際し「政務の一切を道真と時平

を通して行うように」という詔を発す

る。これに反撥した貴族ら。醍醐天皇

の新政で道真の立場は弱くなる。

 

菅原道真(大宰府)

901年道真56歳のとき。政治家として

名を成し、「管家文草」を醍醐天皇に

献上する。が、この成功は藤原時平ら

の陰謀により突如、太宰府権帥(ごん

のそち)に左遷される。

道真は、延喜3(903)年2月25日没。

刑死ではないが、衣食住もままならず

窮死に等しかった。

 

菅原道真怨霊と藤原時平

道真死後の京の都では、天変地異が相

次ぎ、また道真左遷にかかわった人物

やその子孫が次々に死亡した。

張本人の藤原時平は909年39歳で病死、

時平につき右大臣になった源光は狩猟

中に沼に落ちて水死。

 

延喜23(923)年醍醐天皇の最愛の

子・保明親王が没したとき「世をあげ

て云ふ。菅帥(道真)の霊魂宿忿なす

所なり」(『日本紀略』)とある。

同年4月道真に対し本官の右大臣に戻

す詔が下り、左遷の勅書が破棄され

た。そして延長8(930)年6月清涼

殿で恐怖の事件が起こった。

公卿らが雨乞の相談をしていた最中、

黒い雲が湧き起こり、光が辺りを包

み、すさまじい雷雨が轟き、雷が落

ちた。

これにより大納言・藤原清貫が即死、

平希世は顔を焼かれ、他にも死傷者

がでた。

醍醐天皇は、朱雀天皇に譲位し、ま

もなく崩御した。(同年930年)

 

 

延長8(930)年6月清涼殿落雷事件(雷神になった道真公・北野天神縁起絵巻)

 

道真御霊と藤原北家

道真を追い落とした時平の死後。

時平の子孫は長生きできず、それは

道真のたたりであると考えられてい

た、時平の三男・敦忠「私は短命の

血筋」(『大鏡』)だという。

一方、道真の生前左遷に反対した時

平の弟・忠平とその一族は怨霊の被

害に遭っていない。

藤原師輔と菅原道真公

天徳3(959)年、忠平の子・藤原

師輔は、北野に社前を造営し、その

際「男をば国家の棟梁として、その

意に任せ太子の祖と成し、女をば国

母皇后帝王の母たる我が姓藤原の氏

と千代に名を伝え」と藤原氏の繁栄

を祈願している。

藤原道長と菅原道真公

孫の代には藤原北家の全盛期を築い

た藤原道長が登場してくる。

藤原道長は、菅原道真公に正一位

太政大臣の官位を贈った。

こうして人臣として最高の栄養を受

けた菅原道真の怨霊は、ときが移り

変わり、天神様として信仰の対象に

なってゆく。

 

 

道長の祖父・藤原師輔建立の北野天満宮(京都市上京区馬喰町)

 

神社(祭神:菅原道真)

京都の北野天満宮を筆頭に、天神信仰

は全国に広まり、現在神社総数約8万

のうち、天満宮の数は1万2000を超え

るという。

 

 

大森神社境内の十二支(龍)

 

 

大森神社(大阪府泉南郡熊取町大宮)

 

 

 

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