大阪上本町の誓願寺には、

武田麟太郎の文学碑がある。

その碑は「井原西鶴」から引用し、

伝記でなく鱗太郎の小説である。

 

井原西鶴(1642-1693)は俳諧

師から天和2(1682)年10月浮

世草紙「好色一代男」を出版し、

作家へ転進する。

 

誓願寺は井原西鶴の墓所である。

西鶴の法名は「仙皓西鶴信士」

で、鎗ヤ町の自宅で52歳のとき

に没。(「鎗ヤ町 松寿軒井原西

鶴 五十二」)墓の傍に西鶴自筆

の句がある。

 

 

井原西鶴墓(仙皓西鶴信士)と句碑(鯉ハ花見ぬ里もあり今日の月)

 

誓願寺と武田麟太郎(井原西鶴)

誓願寺の山門の傍に『井原西鶴』を

抜粋した文がある。

 

 

誓願寺の山門傍の武田麟太郎「井原西鶴」文学碑

 

武田麟太郎『井原西鶴』

誓願寺から生玉の方への生玉。

生玉には生玉社(現生国魂神社)

があり境内の南坊で延宝8(16

80)年に一昼夜4000句の独吟

矢数の俳諧をつくった地。

 

 

『井原西鶴』(武田鱗太郎)

「誓願寺を出ると」の前段を、小

説のあらましがわかるかたちで、

物語にしてみる。

 

西鶴は薄雲太夫をめぐって高安大

尽と競い、薄雲は高安に身請けさ

れる。

ある日、亡くなった高安の長屋の

家にいくが主(薄雲)はおらず、

恋敵の墓がある誓願寺に参ったと

きの噺。

高安の墓のかたわらで弟子団水が

幼児の小さな墓石に指を差した。

彼(西鶴)はふと思う。妻と娘の

法名を共に彫ってしょうと、不幸

な彼女たちの一生を思って笑って

みせた。死者を悼む心は感じ易い

が時が経ち、心の底に死ねばそれ

までというおもいが根強くはびこ

っていた。団水は金子があるなら

浮き世の愉しみに回した方がよっ

ぽほど身の供養と、冗談のような

冗談の言い方をした。

古い墓石と墓石との間を歩き、

敷石伝いに門の方へ出よとしたそ

のとき敏い彼の鼻は色っぽい匂い

を嗅いだ。その女が様子見をして

庫裡の中に消えた後ろ姿を見た。

このとき坊さんもやっぱり生き身

が大事とみえると独り言のように

云った。

このニ三日急に暑さが増したが、

今は夕暮れ近く日もかげり勝ちで

風さえ出て来て、そどろ歩きには

ちょうどよかった。

誓願寺を出ると夏祭りを兼て遷宮

の儀式があるという生玉の方へひ

とりでに足が向いていた。

 

武田鱗太郎『井原西鶴』

長編小説の『井原西鶴』の結びを

同じく自己流で物語にしてみる。

彼は富めるもの貧しいもの悲喜劇

に興味を惹かれる男であった。

 

近頃、彼について俳諧をたしなむ

肥前屋の主人に逢いにいった。

難波橋を渡って中の島にあり、

肥前屋は、北浜の商人のうちでも

日の出の勢いを見せ盛大を誇って

いた男。よくおいでやったと先夜

の運座の礼を言い、今日はなんぞ

楽しまひょうと迎えてくれる。

高安と同じ年配であろう男は、俗

事にかまけて忘れようとするらし

かった。

僅かな暇を存分に享け楽しんだ肥前

屋は、ひるからの場が立つと、番頭

を召使の女に呼ばせ打ち合わせるや、

すぐ戻ります、待って下さりますか

という。

彼はいいえ、もうお暇しますと彼も

忙しい恰好になった

この昼から豪奢な部屋では、悲しさや

乏しさなぞすべて人の世の陰であるも

のがおこかに存在しているとは微しも
想像できぬ空気であった。

金子を借りにいくが言えずに終わっ

た。が、彼はその方がよかったと思う。

肥前屋をでて、いろいろ思い耽ってい

るうち長町まで来てしまっていた。

その路地の入口から歩きにくいでこ

ぼこの狭い、からだを横にして細道

に入り、高安の家に来た。

戸は閉まっていて、近くの勧進坊主

が来て、頼みもしないのに教えてく

れた。

そこのひとならゆうべ、やや子がえ

ろう悪く、動かしたら死んでしまう

のに夜逃げみたいに宿替えしてしも

うたで、という。

彼は長い間そこに佇んでいた。

置き忘れて行ったのであろう。鉢植

えの朝顔がびしょびよに雨に打たれ

てたおれていた、彼は傘を傾けてそ

れを起こそうとしていた。

 

 

武田麟太郎(年譜「西鶴」)

昭和8(1933)年(29歳)

「西鶴町人物雑感」を文芸2月号

に発表。

昭和13(1938)年(34歳)

『現在語訳国文学全集第21巻』に

「好色五人女」「好色一代女」「

西鶴置土産」の口語訳を収め、非

凡閣より刊行。

中央公論7月号に「井原西鶴」を

発表。これは「人民文庫」既存発

表分を加筆修正し、「井原西鶴」

の第一章として発表するが、第

二章以下は果たさなかった。

昭和35(1960)年(56歳)

1月「眼と嵐」を群像に発表、

同月1月24日武田鱗太郎永眠。

 

武田麟太郎(年譜)

明治37(1904)年5月9日

大阪市南区日本橋筋東1丁目(現

浪速区日本橋東1丁目)父左二郎

の長男として誕生。当時父は天王

寺警察署勤務。

父の転勤に伴い住居は転々とする。

明治44(1911)年(7歳)

4月大阪市東平野尋常小学校入学。

大正6(1917)年(13歳)

3月大阪府東成郡安立町(現大阪

市住之江区安立町)の安立小学校

尋常科を卒業。

4月大阪府立今宮中学校に入学。

今宮中学校で藤沢恒夫と知り合う。

大正7年(1918)年(14才)

4月から3ヵ月ほど左二郎の元同僚

の村上吉五郎巡査のもとへ預けら

れる。村上は、釜ヶ崎発出所に自

ら志願し勤務した名物巡査だった。

鱗太郎は村上に連れられ、儒学者

藤沢黄坡(恒夫の父)の早朝講義

に訊きに行く。8月米騒動が大阪に

茂及び見聞する。

大正9年(1920)年(16歳)

1月母スミエ急死。

大正10年(1921)年(17歳)

父左二郎再婚

大正12年(1923)年(19歳)

4月第三高等学校文化甲類に入学。

田山花袋の『西鶴小論』に感動。

昭和元年(1926)年(22歳)

3月三高を卒業し、東京帝国大学

文学部フランス文学家に入学

昭和8(1933)年(29歳)

「釜ヶ崎」を中央公論3月号に発

表。

 

 

 

誓願寺(大阪府大阪市中央区西4丁目)

 

 

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