懐徳堂

懐徳堂は江戸時代中期に大坂の商人がつ

くった学問所で、明治初年に閉校。

大正時代に再建し、太平洋戦争で罹災焼

失し、現在大阪大学文学部が継承してい

る。

 

懐徳堂設立と三宅石庵

享保9(1724)年大坂の豪商ら5人(

三星屋・富永義春・船橋屋・備前屋・

池)が出資し、三宅石庵を学主にに迎え

船場の現在の地今橋3丁目に懐徳堂を設

立する。

三宅石庵(学風)

懐徳堂初代学主の三宅石庵(1665-

1730)は朱子学を主とし、陽明学、

古義学、医学などを自由に取り込む

石庵の学問は、ぬえ学問と称され、

懐徳堂の学風に以後影響を与える。

 

 

 

「懐徳堂跡」(日本生命株式会社・大阪市中央区今橋3丁目)

 

 

 

 

誓願寺(中井家墓所)

誓願寺は懐徳堂の設立・発展に尽力

した中井甃庵・中井竹山・中井履軒

などの中井家と縁戚の並河家の墓所

である。

 

 

誓願寺(中井甃庵・中井竹山・中井履軒先生墓)

 

中井甃庵

中井甃庵(1693-1758)の先祖・

中井竹庵は前田玄以、黒田孝高に仕

えその子・玄瑞も龍野藩で医業に携

わった。玄瑞の五男二女の四男とし

て生まれ宝永3(1706)年父と大坂

に移住。

甃庵(しゅうあん)は、漢学塾・懐

徳堂を創立し、彼学問の師三宅石庵

を学主に迎えた。

三宅石庵のあと、甃庵が二代学主と

なり、甃庵の長男は中井竹山、次男

が中井履軒。

中井竹山

竹山は、江戸の昌平黌が官学化された

ように官立学問所になることに勤める。

機会が巡る。天明8(1788)年6月老

中になった松平定信が来阪し、政治・

経済・学問などを竹山に諮問。竹山は

「草茅危言」を書き定信に献上。

享年75歳、誓願寺に葬られる。

 

 

中井竹山墓と奥右端(履軒中井先生墓)

 

中井履軒(学風)

中井履軒(1732-1817)は、兄の

竹山とともに町人学問所の懐徳堂を

代表する儒者であるが西洋の文献や

自然科学に通じていた。

履軒の著書『顕微鏡記』は、顕微鏡

の観察記録で、日本最古の文献。

履軒の越俎弄筆」は「解体新書」

が刊行される前年の安永2(1733)

麻田剛立の解剖に立ち合った解剖

図。

履軒自ら華胥国(かしょこく)の王

に擬し、国家の統治のあり方を論じ

た『華胥国物語』などがある。

懐徳堂の文人の合理的・近代的な学

風は履軒によって確立される。

 

 

中井履軒の墓

 

懐徳堂(閉校・再建)

明治政府によって旧幕府から受けて

いた諸役免除などの特権が廃止され、

懐徳堂はいったん閉校となる。

明治43(1910)年西村天囚(186

5-1925、朝日新聞社)が江戸時代

につくられた懐徳堂の復興・顕彰活

動に取り組み、大正5(1916)年に

懐徳堂は再建される。

その後昭和24(1949)年に大阪大

学へ移管される。

 

 

2018.6.16

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誓願寺(大阪府大阪市中央区西4丁目)

 

 

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