45.明世神社探検記(常陸太田市亀作) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

今回の探検は常陸太田市亀作(かめさく)町の明世(あけせ)神社です。


10年ほど前、カガセオ(天津甕星)が大甕神社≒風神山を本拠地(牙城)にしていたのでは、と漠然と考えていたので、風神山周辺をうろつき、カガセオに関係のある神社を探している時に遭遇した神社した。

その時以来の参拝となりました。


二の鳥居

拝殿


亀作は甕作とも甕裂とも変換できますから、亀のシンボルの豊玉姫や甕のシンボル岐神(息栖神社の男瓶、女瓶)、裂で表されるコノハナサクヤ姫などを想起することができます。


「茨城県神社誌」の由緒沿革によれば、

祭神はイザナギ、イザナミ。創立年月は不詳。初め悪所明神と称した。神体木像(男体は衣冠、女体天冠を戴く。)元禄4年光圀(黄門様)がこれを見て「これ上世のもの、決して後世の及ぶところにあず」といって特製の函に納めさせた。元禄12年に社号を現社号に改めさせた。


元禄4年といえば、光圀は藩主を降り水戸に移った後、常陸太田市の西山荘に居を構えた頃です。

光圀はこの頃、積極的に史跡を巡り、有名な所では、下野国湯津上村の前方後円墳を発掘し、保存させるなど、考古学の礎を作った由縁と言われています。

同時に水戸藩内では「八幡潰し」を実施してい

ます。


さて、ご神体木像の「衣冠」とはコトバンクから引用すると

 
平安時代後期に始った男子の最高の礼装である束帯の略装の一形式。もと,昼装束 (ひのしょうぞく) たる束帯に対して,衣冠は宿直装束 (とのいしょうぞく) として用いられたが,のち,皇族,公家,上位の武家が参内の際に用いるようになった。


天冠とはコトバンクから引用すると

幼帝が即位のときにつける冠。
仏や天人がつける宝冠。
騎射や舞楽などの際に小童が用いる冠。金属製、透かし彫りのある山形のもの。
能のかぶり物の一。金属製の輪冠に、中央に月や鳳凰(ほうおう)などの立物(たてもの)をつけ、四方に瓔珞(ようらく)を垂れる。女神・天人などの役に用いる。
葬式のときに、近親者または死者が額に当てる三角形の白紙。


衣冠にしても、天冠にしても見ることはできないので推測するしかないのですが、それらが上記の引用説明のものであったのかどうかでさえ不明です。

つまり、ご神体の衣冠について言えば、平安後期の最高の礼服だったのかどうかも確認できないということです。

光圀をして「上世」と言わしめたことは、時代的にさらに遡る可能性も視野に入れておく必要がありそうです。


  

       天冠 


 
      衣冠


 
   

 扁額                     本殿 千木は女千木

 

 ご神木の榧(カヤ)の木            亀作の榧の立て看板

                           

探検後、車の方へ向かうと近所の奥さんが畑仕事をしていたので話しを聞きました。


奥さんの話によると、元宮が世矢町の御所と言うところにあるよということだったので、台地を下り探し回りました。

直線距離で2,3kmの距離なのですが、坂を下りたり登ったり、田んぼのあぜ道を走ったり、自転車に乗ったおじいさんや、軽トラのおじちゃんに聞いたりして、最後は佐竹氏の傍流の子孫だという、元PNC(動力炉核燃料開発事業団)今の原子力開発機構に勤めていた歴史好きの紳士に場所を教えてもらい、何とかたどり着きました。

場所は久慈川の北側を流れる茂宮川沿いにあります。

   

元宮といわれる御所(ごしょ)地区の祠


平地に造成されて神社があった形跡はあります。


光圀が悪所神社と呼ばれていた神社を明世神社と改めたとの伝承は何を意味するのでしょうか。

参拝時は何も気づか無かったのですが、明世と元宮の鎮座する大字「世矢」は「世」という共通文字があります。


世矢は瀬谷姓の本貫と言われており、ルーツは中臣氏とも言われているらしく吾妻鏡によれば鹿島宮の権禰宜(ごんねぎ)に世谷氏の名前があります。 

ということはこの地域は鹿島神宮、つまり中臣氏つまり藤原氏から一目置かれていたことを示唆していると考えられます。


さらに気になるのが「御所」という地名です。御所とは高貴な方がいたところです。

ご神体を直接見ることができれば、具体的な検討もできるのですが、何せ箱入りご神体ですから、まず見ることはできないでしょう。

現在は宮司さんはいないようで、近隣の方の自主管理となっていると、常太田市郷土資料館の係の方が言っていました。

地域的に見て、ご神体は短絡的に長髄彦としてしまってもよさそうなのですが、少し慎重になりましょう。

常陸国北部で伝承がある天皇やそれに準ずる高貴な方といえば、これまでの探検記によると長脛彦、ヤマトタケル、称徳天皇(孝謙天皇)、安徳天皇、後醍醐天皇らですが、夫婦あるいは対となって祀られ可能性のあるのは、前者の三人です。ヤマトタケルは弟橘姫、称徳天皇は弓削道鏡、長髄彦はコノハナサクヤ姫またはオキツヨソ足姫が対となりそうです。

弓削道鏡は下野国の薬師寺に流されて、茨城栃木県境の御前山(常陸大宮市および城里町)に「崩した後」の称徳天皇とともに移り住んだという伝承がありますが、常陸太田では聞いたことはありませんし、ヤマトタケルは、常陸国風土記の多賀郡の条(日立市北部)に、弟橘姫との仲睦まじい記載あるのですが、やはり常陸太田での伝承はなさそうです。

このように簡単な消去法ではありますが、長脛彦とコノハナサクヤ姫またはオキツヨソ足姫を疑うのが順当ではないかと考えます。

 元の神社名「悪所明神」ですが、悪所は「あくしょ」「あしょ」あくせ」「おしょ」と、さほど無理なく読むことができます。

「あくせ」と「明世」、「おしょ」と御所、つまり明世は御所の同義と考えることができます。

これまでの常陸国の神社探検による知見から推測すれば、由緒沿革に言う「初め悪所明神と称した」の「初め」は江戸時代初期に光圀がご神体を見て「これ上世のもの、決して後世の及ぶところにあらず」と驚愕した時からであり、そのとき元来の神社名を「悪所明神」と変え、ご神体を函(ハコ)に納め封印してしまったと考えられます。


藤原の子孫と考えられる光圀(番外4.御所山安徳寺とは・・・参照)に、御所を悪所と変えさせられるのは長脛彦≒天津甕星において他にはいないだろうと推測するのです。しかし光圀は死期を悟った元禄12年に由緒にあるように明世神社と改名させたと思います。良心の呵責でしょうか。


さて、本殿の千木は女千木でした。つまりご祭神は女神であるということです。

ここで思い出すのが菅原道真を祀る神社に女千木の神社があり、百嶋先生はこれを現地妻の神社と定していることですが、ご神体の女体が天冠を戴いていることから考えれば、相当の格式だと判断できるので現地妻ではなさそうです。

ということは、やはりコノハナサクヤ姫かオキツヨソ足姫になるのでしょう。

明世神社から北を望めば、まだ探検していない「常陸五山」の一つ真弓の峰がそびえています。

常陸五山を「常陸五山の山岳信仰」から引用します。


常陸五山は真弓山、東金砂山、西金砂山、竪破山、花園山を指し、 (1)坂上田村麻呂が蝦夷征伐のとき参籠祈願した。(2)慈覚大師が山王権現の分霊を勧請した。(3)源頼義、義家が奥州下向のとき戦勝を祈願した。(4)祭神は大己貴命(大物主神)である。など共通する開山の縁起をもっている。


真弓神社は慈覚大師が日吉山王権現の分霊を遷して社殿を建立し、真弓山王八所大権現と称したとされていおり、現在では大己貴をと少彦名祭神としていますが日吉山王権現を勧請しているので、本来は大山咋を祀っていたはずです。

大山咋は「長髄彦の叛」のあと、金山彦の打った天の叢雲の剣を天照に献上する役目を全うし、豊玉彦らに賞賛されたのです。

これが「扇褒めの神事」です。この扇が常陸五山の神社の神紋であり、佐竹氏の家紋になっているのです。

また、岩瀬町の鴨大神神主玉神社の神紋でもありますから、神主玉の父親の豊玉彦や母親である前玉姫(コノハナサクヤ姫=かぐや姫)との関連も見えてきます。(29.鴨大神神主玉神社探検記参照)




また、結果的に大山咋は長脛彦の尻拭いをしたという、うがった見方もできます。東国での大山咋は長髄彦の足跡を消すため、いや隠すために祀られているのではないかと考える所以でもあります。

隠すということは、長髄彦の敵方ではなく擁護する勢力が施策したということになります。

ですから、明世神社から眺望できる真弓神社は長脛彦を祀っていたのであって、その麓の明世神社は、その妹(いもうとでも、いも)であるオキツヨソ足姫を祀るとともに、簡単には参拝できない真弓神社の遥拝所としての役割を果たしていたのではないかと推測しています。


八溝峯神社に対する近津神社も遥拝所であろうと考察しています。(7.近津神社と八溝峯神社探検記参照)


おまけの動画

https://youtu.be/HO85ypEKE3Q



百嶋神社考古学にご興味の方は、久留米地名研究会 古川さんまで。090-6298-3254