趣味悠遊・古代を訪ねて
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

石川県:能登の歴史歩きと能登地震

2024年の幕が開いた。今年はどんな年になるのだろうか。元旦そうそう石川県能登地方を震源とする「令和6年能登半島地震」が発生。山海の幸がぎっしりと

誇った名所が「激甚被害指定」になった。

「能登はいいぞ」、コメも取れるし、魚もうまいと織田信長が配下の前田利家に領地として与える能登半島の魅力を語る。また能登は「日本最古のおにぎり」の出土地。中能登町の弥生時代の杉谷チャノバタケ遺跡から発見された。おにぎりは災害時の非常食でもあり、被災時はおいしさで涙があふれそうになったと東日本大震災、気配りのおにぎりが被災地に。

さて能登の歴史について少し触れたい。古代日本海は古代外交の表舞台だった。中でも能登は昔から、海による交易で栄えた土地だった。そして大陸からの表玄関口でもあった。

海をつらぬく道は今もまだ生きている。その代表的は港は福浦湊(石川県志賀町、写真)である。図に示すように北朝鮮北東部からロシア日本海沿岸には「まぼろしの王国・渤海」が成立していた(698~926年)。中国の東北からロシア極東に住んでいた「靺鞨(まっかつ)」が高句麗の遺民たちと共に建国したという。約200年の間に36回もの渤海国使が来航し、日本からは14回使節団を送っている。その渤海の使節団を受入れた歴史的な港の一つがこの福浦湊である。この渤海という馴染が薄い国は、建国以来一度も戦争をしたことがないという穏やかな王国でもあったという。この福浦の港は無事開港できる状態なのか。

また今回の地震で甚大な被害を受けた七尾市、この地に須曽蝦夷穴古墳(写真)がある。この地域には他に古墳がなく、孤立的な存在の貴重な国指定遺跡なのだ。古墳時代の終わり頃(7世紀後半)に築かれた有力豪族の墳墓である。一辺25m、高さ4.2mの方形墳で、長尾尾湾に出口を向けた横穴式石室が2基儲けられた磚槨式石室である。この古墳の特徴は日本では例が少ない高句麗式の構造で天井部が隅三角持送技法(ドーム状)の手法を用いている。これは能登島というという位置が古代朝鮮半島とこの地との間に何らかの文化交流があった事を示すものである。この須曽蝦夷穴古墳の被害もどうであったのか。

このように日本海につらぬく道は古くから交通の要所として、経済や文化の交叉点となってきた。 そして能登の海運を担い、繁栄をもたらしたのが江戸時代の「北前船」であり、その活力が、今もまだ奥能登には伝承されているのだ。

回の地震は交通インフラがズタズタ。今でも道路が遮断されている孤立の被災地が残されている。その一つに石川県輪島市白米町にある千枚田(写真)であった。日本の棚田百選の名所(国指定文化財)で海とのコントラスがまさに絶景の世界農業遺産の代表地である。ここにもどうやら支援物資が届いたというニュースが。

そして地震と猛火で全滅状態となった輪島朝市。一昔前に奥能登の人情と活気があふれた朝市をぶらりとと訪れた(写真)。売り手のお婆さんの能登弁につられ、つい海産物を「買ってしもうた」「そうけ、そんでいいんや」とのやり取りは北陸の情があふれ懐かしい。

の足で輪島の漆工房(写真)を見学。これぞ日本の伝統工芸、漆は縄文時代の遺跡、若狭湾の鳥浜貝塚からも出土している。この輪島で熟成された漆工芸は先ほどの渤海使節が手が出るほど欲しかった産物の一つ、毛皮などと交換、交易したとの記録が残されている。このように日本海の風雪に耐えた能登の風土とその伝統を間近に感じ、古代日本の歴史を思い起させられたのだ。

もう一つ懸念されるのが、石川県中能登町の眉丈山(標高188mの山頂を中心に、4世紀の中頃~5世紀の初めにかけて造られ36基の古墳からなる雨宮古墳群の存在である。その主墳である雨宮古墳1号墳(写真)は北陸地方最大級の前方後方墳(全長64m)で、眼下に平野を望む絶好のポジションにある。14年前に故大塚先生(日本考古学会会長)と雪中の踏査おり考古学の奥深さを語られ、そのかしき古墳である。ここも山崩れのダメージを受けたようだが、まだ実態報告はない。

して能登の根元、大型バスや自家用車が走る渚、ここでしかし体験できない日本海の浜辺、千里浜(石川県羽咋市、写真)のなぎさドライブウェーに歓喜した思いがある。万葉歌人でもあり、『万葉集』の編者でもある大伴家持もこよなく能登の風景を愛し多くの歌を残した。大伴家持は当時、越中国(富山県と石川県能登地方)合わせた国守と赴任していた。その家持の歌碑が千里浜に建てられている。この羽咋市一帯は今回は比較的被害は少なかったようだ。

元日から能登半島を襲った大地震、未だに余震が続き、その混乱の中、見えぬ全容、届かぬ支援、関連死が。その状況を示す厳しい珠洲市のニュースも。

かつて阪神や東日本を襲った時、苦境の中にも節度をもって支え励まし合う被災者達に海外メディアは驚き、その姿を世界に伝えた。まさに能登の人々もそれ以上の頑張りだ。

豊かさは必ず取り戻せる、「能登はいい」と言われる日は必ずくると願いつつ、かって歩いた能登の歴史に思いを馳せ、少なからぬ支援ができればと思う次第であります。

(参考)「大塚先生と行く」①:能登の古墳・雪中踏査は天下一品 | 趣味悠遊・古代を訪ねて (ameblo.jp)

栃木県:牛塚古墳(宇都宮市)と倭の五王の世界・画文帯神獣鏡を通じて

長く苦しかった新型コロナ禍からようやく明けた。ため込んでいたエネルギーは大きな転換点を。社会経済活動の制限が緩和され、観光地にはにぎわいが戻る。明るい兆しの蔭で、政界の「政治とカネ」に対する国民の不信感が揺らいだ。

そうした中でゆったりと時間を持ちたい。ここで、足元の遺跡や遺物を見直し、

の地方の進歩や文化の多様性を理解することとしたい。従来から気になっていた古墳がある。最寄りのJR雀宮近辺の「牛塚古墳」(写真)である。この牛塚古墳は宇都宮市新富町に所在した古墳であったが、現在はなんの変哲もない墓場が残るのみである。そこの小さな祠には大人(うし)との表現があり、大人とは集団を治めた首長・領主・貴人指す意味であるのだが、ヌシの意味が転じてウシとなり、牛塚と呼ばれるようになつたようだ。おしいことに東北本線建設時(大正2年)に破壊消滅してしまった。この牛塚古墳は全長57m、墳丘の周囲には、円筒埴輪や形象埴輪を持つ、5世紀末~6世初頭の「しもつけ型」帆立貝式古墳である。この古墳は江戸時代から三度も調査され、その副葬品は鏡、馬具、

短甲、武具など

非常に豊富な遺物、それは東京博物館に一括貯蔵されている。特に専門家が注目しているのが画文帯神獣鏡(写真)という鏡だ。それはヤマト王権と深い結び付きの証で、有力な首長しか持ってなかった鏡である。

古代のの鏡は、単なる化粧道具ではない。古代豪族の憧れの品であり、威信罪として権力の象徴を現す意味があったのだ。アズマエビス・蝦夷の盤踞するエリアだったと考えられるこの下野国に、なぜこのような貴重な鏡が持ち込まれていたのかという背景が気になっていた。因に文帯神獣鏡は神像と獣形を主文様とし、その外側に画文帯がまわっている鏡で、最近の調査によれば全国で40面の画文帯神獣鏡が知られている。かの著名な熊本県江田船山古墳は神様が同じ方向を向く「同行式神獣鏡」で牛塚古墳と同型式であり、埼玉県の稲荷山古墳は神様が向かい合う「対置型神獣鏡」であり、そのモーチーフによって分類されている。江田船山古墳も稲荷山古墳も銘文入り大刀と鉄剣(写真)でその時代のエポックと

り、学問的にも非常に重要な古墳である。このように牛塚古墳はこれらの古墳と同時代(5世紀末~6世紀)のもので、ヤマト王権に上番し仕え、親衛隊として、地方官として活躍した人物であったことが想定される。先に述べた「しもつけ型古墳」(図)の地方豪族達もも同じようにヤマトに上番し、大王下の官僚組

織に組み込まれていたのであろう。下野における琵琶塚塚古墳(写真・墳長120

m)の出現などから、東国豪族も重要な位置を占めたことが明らかである。  さてこの時代はまさに倭の五王の時代なのだ。倭の五王の活動は、5世紀(古墳時代中期)のできごとであり、彼らの活動を反映した記念物である巨大前方後円墳が百舌鳥・古市古墳群に造営される。五王の最後を飾る武(ワカタケル)は「東は毛人を征すること五十五国」と宋に上表したのは、東方のクニグニもまた王権構成の重要なメンバーであり、王権の対外活動の担い手であったことを意味している。そして上番して大王を左治した一員の中に牛塚古墳のヌシがいたとみるべきで、そして鏡や武具などの威信財などを得て下野の故郷に錦を帰ったのであろう。そして今年の考古学トピックスは富雄丸山古墳の類型のない謎の「だ龍文系盾形同鏡(写真)」と国内最大の「蛇行剣」の存在であり、盾形鏡の出現で

鏡の持つ意味合いは一層深まることになり、研究結果が待たれる。このように地域の歴史を学ぶことで、現代社会成り立ちや仕組みなどの原型と基盤を理解することができるのだが、足元では冒頭に述べたように、国民を無視した政権の腐敗に対する不信感が。今日より明日へとの願いを込めて、年末にブログを投稿した次第であります。

栃木県:牛塚古墳(宇都宮市)と倭の五王の世界・画文帯神獣鏡を通じて

長く苦しかった新型コロナ禍からようやく明けた。ため込んでいたエネルギーは大きな転換点を。社会経済活動の制限が緩和され、観光地にはにぎわいが戻る。明るい兆しの蔭で、政界の「政治とカネ」に対する国民の不信感が揺らいだ。

そうした中でゆったりと時間を持ちたい。ここで、足元の遺跡や遺物を見直し、

の地方の進歩や文化の多様性を理解することとしたい。

従来から気になっていた古墳がある。最寄りのJR雀宮近辺の「牛塚古墳」(写真)である。この牛塚古墳は宇都宮市新富町に所在した古墳であったが、現在はなんの変哲もない墓場が残るのみである。そこの小さな祠には大人(うし)との表現があり、大人とは集団を治めた首長・領主・貴人指す意味であるのだが、ヌシの意味が転じてウシとなり、牛塚と呼ばれるようになつたようだ。おしいことに東北本線建設時(大正2年)に破壊消滅してしまった。この牛塚古墳は全長57m、墳丘の周囲には、円筒埴輪や形象埴輪を持つ、5世紀末~6世初頭の「しもつけ型」帆立貝式古墳である。この古墳は江戸時代から三度も調査され、その副葬品は鏡、馬具、短甲、武具など

非常に豊富な遺物、それは東京博物館に一括貯蔵されている。特に専門家が注目しているのが画文帯神獣鏡(写真)という鏡だ。それはヤマト王権と深い結び付きの証で、有力な首長しか持ってなかった鏡である。

古代のの鏡は、単なる化粧道具ではない。古代豪族の憧れの品であり、威信罪として権力の象徴を現す意味があったのだ。アズマエビス・蝦夷の盤踞するエリアだったと考えられるこの下野国に、なぜこのような貴重な鏡が持ち込まれていたのかという背景が気になっていた。因に画文帯神獣鏡は神像と獣像の形を主文様とし、その外側に画文帯がまわっている鏡で、最近の調査によれば全国で40面の画文帯神獣鏡が知られている。かの著名な熊本県江田船山古墳は神様が同じ方向を向く「同行式神獣鏡」で牛塚古墳と同型式であり、埼玉県の稲荷山古墳は神様が向かい合う「対置型神獣鏡」であり、そのモチーフによって分類されている。江田船山古墳も稲荷山古墳の銘文入り大刀と鉄剣(写真)で、その時代のエポックと

り、学問的にも非常に重要な古墳である。このように牛塚古墳はこれらの古墳と同時代(5世紀末~6世紀)のもので、ヤマト王権に上番し仕え、親衛隊として、地方官として活躍した人物であったことが想定される。先に述べた「しもつけ型古墳」(図)の地方豪族達も同じようにヤマトに上番し、大王下の官僚組

織に組み込まれていたのであろう。下野における琵琶塚古墳(写真・墳長120

m,しもつけ型前方後円墳)の出現などから、東国豪族も重要な位置を占めたことが明らかである。  

さてこの時代はまさに倭の五王の時代なのだ。倭の五王の活動は、5世紀(古墳時代中期)のできごとであり、彼らの活動を反映した記念物である巨大前方後円墳が百舌鳥・古市古墳群に造営される。五王の最後を飾る武(ワカタケル)は「東は毛人を征すること五十五国」と宋に上表したのは、東方のクニグニもまた王権構成の重要なメンバーであり、王権の対外活動の担い手であったことを意味している。そして上番して大王を左治した一員の中に牛塚古墳のヌシがいたとみるべきで、そして鏡や武具などの威信財などを得て下野の故郷に錦を帰ったのであろう。

そして今年の考古学トピックスは富雄丸山古墳の類型のない謎の「だ龍文系盾形銅鏡(写真)」と国内最大の「蛇行剣」の存在であり、盾形鏡の出現で

鏡の持つ意味合いは一層深まることになり、研究結果が待たれる。

このように地域の歴史を学ぶことで、現代社会成り立ちや仕組みなどの原型と基盤を理解することができるのだが、足元では冒頭に述べたように、国民を無視した政権の腐敗に対する不信感が。今日より明日へとの願いを込めて、年末にブログを投稿した次第である。

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>