趣味悠遊・古代を訪ねて
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2018-12-04

和歌山:紀の國の古代豪族・紀氏の本貫地を歩く

テーマ:ブログ・古墳

今年は小春日和が続き、絶好の古墳探訪日和だ。久しぶりに関西OB会で畿内を訪れる。昔を懐かしみ、お互いの立場を認め合い、そして共に飲み、食べて楽しむ。これも脳の活性化につながる。そして翌日、考古学仲間の井村恵一氏の車で、金谷英文氏(共にOB会幹事)の案内で晩秋の紀の国の古墳巡りを楽しむ。

古来、紀の国は大和と朝鮮半島を結ぶ戦略的な地域だった。

瀬戸内海から紀伊水門を門戸に紀ノ川を遡って大和に入る重要な幹線ルート、その地域を治める古代豪族・紀氏の存在が気になっていた。和歌山市に近い大阪府南部の阪南市の淡輪古墳群に行く。淡輪の地域は瀬戸内から大阪湾に入る重要な入口だ。この海域は、まず淡路島の北側の明石海峡を望む神戸市垂水区、そこには兵庫県では最大の古墳である五色塚古墳(墳長194m、前方後円墳、鰭付朝顔形埴輪などがテラスに並ぶ)が4世紀前半に築造され、眼下の海峡を監視する役目の古墳である。

そして紀淡海峡(写真)を望む淡輪には5世紀前半の西陵古墳(墳長210m、前方後円墳)が、次いで淡輪ミサンザイ古墳・宇度墓(墳長180m、前方後円墳)、西小山古墳(直径50m、円墳)が築造される。これら淡輪の首長も瀬戸内を往来する眼下の船団を見張る海軍的な役目を果たす位置に存在している。これらの大型古墳は、当時では類を見ない、地方豪族としては第一級の墳墓なのだ。五色塚古墳の首長含め、これら淡輪の首長はいずれもヤマト王権から派遣された古代豪族の存在を示すものだ。

淡輪古墳群の西陵古墳(写真)から検出された朝顔形埴輪は埴輪編年Ⅳ形式のもので、仁徳天皇陵・応神天皇陵と同時期の5世紀第一四半期の築造と推定される。埋葬施設は不明、竪穴式石室に凝灰岩製の長持形石棺を納めていたと推測される。この被葬者は紀氏の首長であろう。『日本書紀雄略天皇93月条・5月条に見える紀小弓宿禰(きのゆみすくね)に比定される。紀小弓は新羅征討の将軍に任じられて戦ったが、病気により新羅で亡くなり、「田身輪邑(たむわのむら)」に天皇が古墳を造らせたという。この「田身輪」が「淡輪」なのだ。

淡輪ミサンザイ古墳は宮内庁により「宇度墓」として第11代垂仁天皇の皇子墓に治定されている。立ち入り禁止で周囲から3段築成の墳丘を見る(写真)。墳丘には埴輪が巡らされているという。これらは円筒埴輪は、タタキ技法で製作された埴輪編年Ⅴ段階のもので、雄略期の440~460年に築造されたと歴史学者は判定する。そこには淡輪技法と呼ばれる独特の埴輪を持ち、この淡輪古墳群や紀の川流の古墳のものと共通する。この淡輪地域は古代豪族・紀氏の族長墓が含まれていたことは間違いない。

紀の国の古墳時代には、モノが、技術が、そしてヒトが動き、中国大陸から朝鮮半島から、この和歌山の地に、大きな文化の流れが押し寄せてきた。大和につながる紀の川の河口には、新しい文化の一つ入口として、重要な交通路として、それに関連する多くの遺跡・遺物が残されている。高句麗壁画に描かれた騎馬戦に見られる馬冑・馬甲などの馬具を出土した大谷古墳、日本国内で唯一つの金銅製勾玉を出土した木の本の車駕之古址古墳(しゃかのこしこふん)、渡来系の窯で焼かれた古い土器を出土した鳴滝遺跡等、朝鮮半島の文化によく似た多くの遺跡や遺物は、和歌山と半島との深いつながりを示している。

一説には、紀氏の祖は、渡来人説(百済からの渡来)や九州から和歌山の地に移り住んだ集団であるという。操船技術にたけた海部を統括し、その優れた航海術と交易により 大陸・朝鮮半島諸国との交流網を持ち、大和王権の外交・軍事を担った、伝説的な勇者の本拠地である。

和歌山市秋月にある日前・国懸神社は紀の国の一宮で、由緒は古墳時代に遡ると伝えられ、紀氏との深い関りがある。この地の宮井用水(今も現役の用水)を開き、一帯の平野を一挙に農耕地にしたことが紀氏の豪族としての力を盛り上げたものと思われる。神社に近接して秋月1号墳がある。和歌山県最古の出現期の古墳で、それがこの地に所在することにも注目すべきだ。

次に、大谷古墳(和歌山市大谷)へと足を伸ばす。この古墳こそ朝鮮半島と密接な関係が覗われ古墳である。5世紀末から6世紀初の全長70mの前方後円墳。埋葬施設は家形と長持の要素を持つ石棺で、阿蘇石・凝灰岩製で造られ、肥後の影響が見られる。

それよりも考古学会を騒がせたのは、写真の馬冑である。多数の馬具・武具の優品に混じって出土した逸品である。日本では大谷古墳と埼玉将軍古墳、そして近年発見された福岡県古賀市の船原古墳の3例しかないという。大谷古墳の被葬者は当然、朝鮮半島に出兵した将軍・紀氏一族の墓であろう。

朝鮮半島の加耶国の福泉洞10号墳、玉田3号墳の馬冑と同系統であるという。いずれも大陸的色彩、高句麗の高い鉄加工技術によるもで、製作が非常に難しく、朝鮮半島でも12例しか出土していないという。

大谷古墳の墳長に立ち(左から井村さん、金谷さんをショット )、歴史を思う。「朝鮮半島や大陸の長い歴史交流の中には、深い友好関係の時もあり、不幸な出来事もあった。そこをしっかり見つめ、未来への教訓を得る」というスタンスも大事だ。だが近年、隣国の国民感情が気になる。元徴用工の損害賠償の請求訴訟を起こし、国と国との約束を簡単に反故にする韓国の動きである。

次編では、岩橋千塚古墳や隅田八幡神社・人物画像について述べたい。

 

2018-11-02

栃木県:「東国の古墳時代の幕開け・栃木県」-2

テーマ:ブログ・古墳

時は卑弥呼の時代、邪馬台国と狗奴国の時代だ。日本列島は図に示すように、まさしく天下分け目の関ヶ原の戦いのように、青と赤の2極化の世界が対峙していた。この戦いはどちら

が勝ったのかは一切の記録はない。

多くの考古学者は青の邪馬台国側が勝利し、大和政権が全国を統治したと説く。一方で青である狗奴国側が勝利したという説もある。邪馬台国連合は前方後円墳と庄内甕、狗奴国連合は前方後方墳とS字甕の世界なのだ。このことは2018年7月15日付ブログhttps://ameblo.jp/kadoyas02/entry-12391000850.htmlで述べた。

この狗奴国のS字甕(日常生活の煮炊き土器、極薄くて軽く当時としては最先端の土器)が遠く離れた関東の奥地、下毛野(栃木県)まで渡ったのはなぜか。その謎を解くのが今回のテーマーでもあるのだ。

それを解くキーは冒頭に述べた青と赤の戦争の余波である。当時の戦争は全面戦争ではなく、極地戦争であったはずだが、その政治的な社会緊張から逃れるために、狗奴国の集団は東国へと大移動する。もう一つの原因は、当時の濃尾平野では甚大な洪水と旱魃という「長期サイクル」が繰り返され、弥生人にとっては恐ろしい環境変化が起きていたという分析(図、中塚武教授の研究「年輪セルロースの酸素同位体比)。そのため新天地を求めて人々は東国へと集団移動をしたと狗奴国官房長官を自負する赤塚次郎氏は説くhttps://ameblo.jp/kadoyas02/entry-10925766171.html

さらに注目すべき点は、古代でも河川交通を併用する地域ネットワークがすでに形成されていたという(若狭徹氏・「前方後円墳と東国社会」)。この北関東の奥地である下毛野に至るには太平洋沿岸経て、➀香取海から鬼怒川・小貝川をつなぐ内海ルートを、②利根川・渡良瀬川を遡上して、分かれて下毛野毛野に向かうルート、➂陸路として群馬から栃木を経て福島に至る旧東山道など、人々は活発に行き来し交易・交流しいたことが分かっている。

・当時(2世紀後半~3世紀初頭)の下毛野においては、まだ古墳が誕生していない。そこは二軒屋式土器(写真)を営む弥生のムラムラが小地域に分散した自立的な様相であり、相互

に結合や統合し、穏やかに暮らす社会であった。まだ地域を統括するリーダー的な首長層はまだ登場していない。稲作は普及しているが、人口は少ない地域であったのだ。

それを示す考古学的な資料が地元研究者から数多く示されている。JR雀宮近郊(写真)の低丘陵にはこのような弥生のムラが数珠のように連なっている。まさに二軒屋式文化圏の中枢地だ。

二軒屋式土器とはこの地域のメルクマール・標識土器であり、縄文と櫛描文である付加状縄文を主体とし、首に2~3段の粘土帯があり、壺と甕とが未分化の在地の土器のことである(写真)。我町内も二軒屋式文化圏に含まれるが、隣町内の天狗原遺跡のからは二軒屋敷土器と外来系の土器・S字甕(写真)とが共伴侶(写真)する竪穴式居住地が数件検出されたムラが存在していた。このような事例は本村遺跡・二軒屋遺跡・殿山遺跡などでも知られている(いずれも宇都宮市、田川流域)。

話は変わるが、日本列等には前方後円墳が約5000基に対し前方後方墳は515基と9分の一の存在。それらの古墳の規模と古墳の姿に秩序があるといいい7、前方後円墳は主役、前方後方墳はNo2の地位とされている。だが栃木県はまず前方後方墳(写真・茂原愛宕山古

墳)からスタートする。これは関東各地の古墳の幕開けと同じ傾向である。それはもう一つの主役として捉えるべきである。

その生みの親は前述のS字甕を持った東海西部の集団や南関東系の人々の移入とその定着である。またこの時期になるとに二軒屋式文化はこれらの外来文化に吸収され減衰していく。ここに新たなリーダーの登場と共に前方後円墳を基盤とした時代を向かえることになる。

栃木県で最初に出現した前方後方墳は下野市の写真の山王山南塚2号墳(全長50m)である。 バチ型に開く墳丘で、畿内の要素もあり、3世紀末~4世紀初頭の築造とされる。次いで山王南1号墳(全島46m、4世紀前半)⇒朝日観音1号墳(消滅) 一辺15mの方墳と続くも規模は徐々に縮小する。

これに対して茂原古墳群は逆に規模を大きくしていく。

茂原古墳群(宇都宮市茂原)は3基の前方後方墳の系譜が認められ、4世紀初頭に築造された(図)。

大日塚古墳(全長36m)の前方後方墳(写真)、木棺直葬でS字甕や有段口縁壺などの古式土師器を持つ⇒茂原愛宕塚古墳(全長50m)の前方後方墳、前方部はバチ型に開く 割竹型木棺の直葬で大日塚古墳より大型で埋葬品も豊富で次第に強大化していく地域首長の姿が読み取れる⇒権現山古墳(全長63m)前方後方墳 遺物は見つかっていないので詳細はよく分からない。このように茂原古墳群は徐々に規模を拡大する、この流れは中期の東谷古墳群・笹塚古墳に引き継がれる。

我家は隣接する写真の針ヶ谷グリータウン、その地下からも二軒屋式土器が検出されており(針ヶ谷新田遺跡)、この宇都宮市南部に当たる低丘陵部は、二軒屋式文化圏の中心地であった。古代は穏やかな社会を形成していただろうが、古墳時代を向かえると大きな外来波に飲み込まれたのである。このグリータウンと同じように当時地域開発された特定の地域であったのだろう。この一角に眠る古代ロマンに気が付いている人はどれくらいいるであろうか、買い物をする度に思い起すのである。

2018-10-06

栃木県:秋晴れの奥日光・術後の平癒をかみしめて

テーマ:ブログ・古墳

今夏は異常気象が続く、台風銀座の年でもある。大型台風24号が日本列島を縦断した。そして台風一過の秋晴れに、奥日光に行こう。天下一品の紅葉にはまだ早いが、大自然を満喫したい。というのも今夏は「肝細胞がん」の手術で苦労した。やっと生き帰ったかと安堵の気持ち。帰宅後、窓から男体山の雄姿を眺め、術後の平癒をかみしめる。早速、中禅寺湖畔の一人旅に出かけた。運転免許は返納したので、路線バスの旅を楽しむ。JR日光駅発のバスは中善寺温泉までイタリア観光集団と同行、南欧独特の陽気さに誘われてこちらもついに笑顔に。中禅寺温泉で別れてここからは一人旅である。目的の小田代ヶ原と千手ケ浜の手つかずの大自然に浸りたい。マイカー規正の日光市道1002号線の大自然を低公害バスで進む。まず小田代ヶ原を散策する。ここはラムサール登録湿地、先日の台風24号余波の大雨で高原の中にサッカーグランド程の大きさの湖水が出現している。これは非常に稀な現象だとか。その湖水を前舞台にし、一人佇む「貴婦人」の姿は奥日光を代表する。自然公園とシカやクマとの棲み分けも考えた木道はよく整備され、景色を満喫できる。当日は紅葉にはまだ早い、そこで「貴婦人と草紅葉」のネット写真を借用させてもらう。

そして低公害バスで終点の千手ヶ浜まで足を伸ばす。千手ヶ浜から眺める絶景をショットする。ここも台風の余波、樹木がなぎ倒され、電柱や桟橋など設備が被害を受ける。停泊する観光船、当日は客を乗せられない。修復工事のため作業船として応援に。ところで、カルデラ湖である中禅寺湖は、華厳滝によって魚は遡上できず、本来は魚類が棲まない聖地だった。明治以降放流が盛んになり、今や釣人のメッカ地となる。話は突然変わるが、かの有名な長崎「グラバー邸」、その主人公トーマス・ブレー

ク・グラバーは坂本竜馬や薩摩・長州雄藩の幕末志士の応援や明治期の産業革命や三菱商事などにも貢献したことはご存知。

だがこのグラバーにももう一つエピソードがある。維新後も日本に残り、晩年はこの中禅寺湖畔に別荘を建て、鱒釣りを堪能していたようだと。英国では昔も今も「釣りは紳士のたしなみ」と言われ、スコットランド発祥の釣方といわれる「フライフィッシング」をこ

の聖地で初めて日本に紹介した英国紳士の一人だという。今でもも奥日光ではルアーやフライ(毛バリ)といった疑似餌を使った釣りしか認められていない。時にはこんな大物・レイクトラウトが釣れるとの情報も。そんな西洋風の釣りがよく似合い、環境保護の姿も。

そしていろは坂を下り、日光東照宮前の神橋で下車する。近接する有名ホテルに頼み込んで、ようやく日帰り温泉に浸ることができた。独り占めの湯につかり、健康寿命の有り難さを思う。

折しも、がんの「特効薬」に道を開いた、本庶佑京都大学特別教授にノーベル生理学・医学賞のニュースが飛び込む。同じがん患者としては最高の情報だ。これからはがんになっても救われる道はどんどん広がる、そう教えてくれる日本医学界の世界だ。

とにかく一人一人が前向きに向かうべきだと思いつつ、秋の奥日光を堪能した。

 

 

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