常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

「星座神話の起源」古代メソポタミアの星座 近藤二郎著 P96 「オリオン座とその周辺の星座」の項に、古代メソポタミアの星座には、現在のオリオン座に相当する場所に「アヌの真の羊飼い」というものがあったと書かれている。


シュメール語では、(Mul) Sipa-Zi-An-Na [(ムル) シパ・ジ・アン・ナ]といい、アッカド語ではシタッダル

(sitaddaru)という。


ここでわれわれは仏教の創始者である釈迦の名前、Gautama siddhartha=ゴータマ・シッダールタを思い起こすに至った。


つまり、ゴータマ・シッダルタ→goat ama sitaddaru→羊の群れの先頭にいる山羊ということに気付くのである。そしてそれは「盲目の子羊を導く指導者」であった。それはキリスト教ではイエスのことであった。


この一点を以って、仏教もメソポタミア由来のものであることと理解するとともに、日本仏教に対する考え方が決まったのである。僧侶や歴史家のうちの何人がこの事実に気付いているであろうか。


だから私のアイコンはメヤギなのだ。(草刈り用に飼ったに過ぎないが、笑)


イエスキリスト同様釈迦など存在しなかった、それらはメソポタミア神話の焼き直しであった、というのが我々の考え方である。そしてそのもとになったのは縄文人と呼ばれる人たちであっただろう。


すべての歴史は為政者によってねつ造されたものである。


だから、われわれはこれを壮大な GO JAP PAY と呼ぶのである。




当サイトはリンクフリーです。このバナーをお使いください。


こちらの関連ブログもお読みいただくと、理解が深まります。



先日、福島県須賀川市の神社を巡った。

茨城県北部の、久慈、那珂地区、そして栃木県北部の那須地区を中心に発展した(仮称)八溝共和国の痕跡を求めての旅だった。

わたしは、いわゆる常陸国の中心地を久慈那珂地区だと考えている。式内社の数からもそう考えられるだろう。まぁ延喜式は平安時代中期の話になるのだが。

(仮称)八溝共和国は、素戔嗚、長髄彦から始まった、一連の文化圏を示す私の造語だ。

素戔嗚はSUSAN-Oで御岩神社(薩都神社の立速日男、長髄彦はナーガスネーク彦で大甕倭文神社の天津香々背男だと推定した。


素鵞神社の分布


そして彼らこそヤタガラスの源流だろうと。

ヤタガラスは、魂の永続性を科学的に示したシステムである。それはミトラに端を発していると私はたどり着いた。

 

番外18.御岩神社について-アカデミズムの怠慢 | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった (ameblo.jp)

番外27."甕"の語源は雲母(mica)だった | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった (ameblo.jp)

 

八溝山は、福島、栃木、茨城の三県にまたがった1022mの山だが、阿武隈川、那珂川、久慈川の源流である。その流域は、金、楮、の産地であった。見逃しがちなのは、谷地田である。初期の稲作は谷地田で始まった。また丘陵地では畑作も行われていただろう。畑作は水田より容易である。

これらの産物でこの地区は繁栄した。

典型的な弥生時代の遺物が少ないのは東日本の特徴としてもよいだろう。

発掘された土器からは、縄文文化を残しつつ古墳時代に突入しているように見えるのだ。

 奈良県桜井市の纏向石塚古墳、箸墓古墳などは、弥生時代晩期の3世紀のもので、最も古い前方後円墳だと考えられているが、実は東日本にも同時期の築造だと推定される千葉県市原市の神門5号墳がある。古墳は発掘しないと、古墳であることや築造年代の特定はできないから、今後の発掘により歴史が変わることになるかもしれない。

ただ、少なくとも東日本にも黎明期の前方後円墳があったことは確からしい。

この事実は、前方後円墳や後方墳がいわゆるヤマト王権の専売特許ではないかもしれないことを示唆している。

あるいはヤマト王権の源流が西国だけではなく東国にもあったのでは、という推測も生まれてくる。

わたしの提唱する「八溝共和国」とはまさにそのひとつなのだ。

通説では文化の発達は西からだという。

これは神武東征神話を前提とした思考だろう。

江戸中期から後期にかけて流行した国学や、明治新政府による記紀をベースにした国家神道の影響を受けての学説ではないか。

鹿島曻の言うところの偽史シンジケートだ。

しかし、列島には1万年以上に及ぶ縄文時代があった。

とくに東日本の縄文文化は三内丸山遺跡に代表されるように、集落を形成していた。つまり定住し農耕をしていた。

わたしは、これらの末裔が、何らかの理由で西遷した可能性を考えているのである。

 この考えの発端となったのは、栗本慎一郎の著書「シリウスの都 飛鳥」だった。

栗本が言うところでは、蘇我氏はペルシャからきたサカ族であり、シリウスを奉斎する民で、冬至の深夜0時に東南に輝くシリウスの方向を聖なる方位としている。

冬至≒クリスマスである。

ペルセポリスはこの聖方位を基準にして、都市計画がなされている。

東南160°にかがやくシリウスを拝むように祭祀場を作ると、社殿は北西20°向いて建てられることになる。

彼らは、聖方位を持つ秋田の古四王神社を始めとし、福島県中通りを経由し,天栄村の大徳坊で縄文の太陽のネットワークとペルセポリスの聖方位を融合させながら、安積、須賀川、栃木県大田原市須賀川、常陸大宮市尺丈山、同五所皇神社、茨城県那珂市菅谷、自然と北西に20度傾いている鹿島台地を経由し鹿島神宮へ南下し、ついに大和の地にたどり着いたとしている。


なかでも、尺丈山と鹿島神宮の位置関係は驚愕ものだ。


これは結果だけ見れば、松本清張の「ペルセポリスから飛鳥へ」説と似ているが、松本は北廻りルートは想定していない。

北廻りルートの鹿島は、中臣鎌足の出身地(経由地)だという説が本稿のテーマのひとつだ。

鹿島は征夷の拠点だったというのが通説だが、わたしは真逆のことを考えているのだ。

アジスキタカヒコネや武内宿禰、坂上田村麻呂や八幡太郎伝説は、東国の真実を隠すために創作されたのではないのか。


 我々が古代史研究の資料としている、百嶋系図では、中臣の祖を崇神天皇=中臣烏賊津臣だとしていた。しかし、資料をよくよく見てみれば、中臣氏の真の先祖は長髄彦であると言いたかったことがわかってくる。

長髄彦は那賀須泥毘古とも表記する。わたしはここに、那賀(那珂)と那須を見出したのだ。

そう、だから八溝山が重要になってくるのである。

長髄彦は登美長髄彦である。

略して長登美=ナカトミなのであるw

本稿の中心をなすものは、蘇我氏と中臣氏は同集団なのではないかという提起である。

他稿ですでに書いているが、蘇我氏と物部氏の祖は、素戔嗚、長髄彦の親子だ。

蘇我氏の太祖が素戔嗚で、物部氏の太祖が長髄彦で良いだろう。

通説の饒速日は、私の分析だと長髄彦になる。

百嶋翁は、藤原氏は武甕槌と饒速日のハイブリッドだと考えていた。いわば、鹿島神宮と香取神宮の祭神である。

 さて、前方後円墳の数は、千葉、茨城、群馬の順だ。さらに栃木、埼玉を含めたら、ヤマト王権の象徴たる前方後円墳の分布の中心が関東地方にあることがわかる。

4世紀後半から5世紀にかけて作られた、奈良から大阪にかけてみられる超巨大型前方後円墳は、太陽のネットワークを持つグループがヤマトに西遷したあとに築造されたのではないか。

 

さて、今回の須賀川神社探検で、あらたに興味あることを発見したので記録しておく。

須賀川駅近くに鎌足神社があるのだが、社名の示すように中臣鎌足が祭神である。

鎌足は、中大兄皇子と乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたことで有名だ。

鎌足は死の直前に藤原姓を賜り、子の不比等、藤原四家、そして摂関政治の礎を築いた藤原氏の祖だ。 

鎌足神社は、鎌倉時代の初頭、建久元年(1190)に鎌足の子孫である関東将軍の藤原(波多野)義定の次男、小次郎義政が勧請したことになっている。

このあたりの信ぴょう性は定かではないようだ。

わたしは、鎌足の先祖を調べてみた。

神社看板にもあったように、父が御食子だったことは知っていたが、それ以前のことがよくわからなかったからだ。

鎌足の祖先をまとめておこう。

鎌足の生年は614年とされるから、ひと世代28年でおおよその生年を推定した。

 

名前―配偶者                   生年  主君

(中臣)音穂                   390

年 雄略 倭の五王?

(中臣)阿毘古                  418年 武烈(飯豊青の時代)

(中臣)真人                   446年 継体

中臣鎌子(賀麻大夫)               474年 欽明?

中臣黒田―都夫羅古娘               502年 継体

中臣常盤―物部尋来津首橘の女・宇那古娘      530年 欽明

中臣可多能祜―山部歌子娘・那爾毛古比売、珍子娘  558年 敏達

中臣御食子―大伴咋娘・智仙姫           586年 推古-舒明

中臣鎌足―車持与志古娘、鏡王女          614年 孝徳-斉明-天智

定恵 643年、不比等 659年               持統、文武、元明、元正

 

  

気になる名前をマークした。

まず阿毘古は千葉県我孫子市を思い出す。

安日長髄彦は、彼らの先祖だと思われてくる。

安日とは、百嶋系図では武甕槌であり天児屋根であり天忍穂耳だ。

都夫羅古は須賀川市に多い苗字、円谷(つぶらや)を思い出した。

ご存じのように、ウルトラマンで有名な「特撮の神様」円谷英二は須賀川市の出身だ。

もう一人、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲った円谷幸吉がいる。

車持は、竹取物語に登場するが、モデルは不比等だともいわれている。母親が車持氏だからである。この時代は、いわゆる通婚なので、不比等は車持の家で育ったはずだ。

そして車持といったら、茨城県筑西市(旧明野町)の雲井宮郷造神社だ。

車持は倉持の語源だという。

主祭神は、武甕槌(タケミカヅチ)である。

 百嶋系図では、タケミカヅチは崇神(=中臣烏賊津臣)の祖父である。

148.雲井宮郷造神社探検記(筑西市倉持) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった (ameblo.jp)

 

百嶋脳内系図、そう、かっくん系図だと、母親の鴨玉依姫の父は長髄彦だった。

つまり、崇神=中臣烏賊津臣の2人の祖父は安日長髄彦なのである。


そしていちばん気になったのが宇那古娘だ。

なぜかといえば、須賀川市には宇奈己呂和気神社があったからである。

宇那古娘=宇奈己呂ではないかと「ぴぴぴぴぴーん」ときたのである。(笑)

それに、夫は常盤だ!

常盤と常磐はよく混同されるし、どちらもときわと読む。

そして、茨城と福島南部で常磐だ。


宇奈己呂和気神社は、なぜか瀬織津姫を祀っている。

瀬織津姫は、近年「縄文の女神」などとスピ系界隈で有名になっているが、中臣神道の大祓詞やホツマツタエに出てくる四柱のひとつだ。古事記にも日本書紀に記載はない。中臣神道と縄文が、弥生、古墳時代を飛び越えていかにつながるのか、知りたいものである。


さあ、中臣氏と須賀川地区がつながってきたw

宇奈己呂和気神社は、東吾妻山を拝するように建てられている。

つまり、ご神体は東吾妻山になるだろう。

あー、吾が妻やとヤマトタケルが嘆いたのは、碓氷峠だとか、足柄山だとか言われているが、案外吾妻連峰だったかもしれない。

ヤマトタケル伝説の北限はこの辺りになるのだから。

 

  

 

 

 

 

 

 

しかし、宇奈己呂和気神社の奥宮は東吾妻山にはないのだ。

それは高旗山にあった。

そして、なんと鎌足神社は高旗山を拝するように作られていたのである。

つまり、鎌足神社のご神体は高旗山の宇奈己呂和気神社奥宮だったのだ。

鎌足神社を参拝すると、鎌足の曾祖母の宇那古娘を拝んでいることになるのである。

興味深いではないか?

 

 

 

 

 

 

 

もう一つ、高旗山を拝する神社があった。市内宮の杜に鎮座する滑川神社だ。

滑川神社は、ヤマトタケルが疲れをいやすために川で足を浸したところ、川底がすべすべしていたので滑川と名付けたという伝承がある。

福島にはたくさんのヤマトタケル伝承があるのだ。

 宇奈己呂と、初代石背国造建彌依米の父である、茨城国造建己呂は、その名前からして、深い関係があると考えるのが妥当だろう。

さらに、建彌依米と建御名方や武甕槌が無関係とは思えない。かっくん系図では、鴨玉依姫と建御名方を姉弟と推定している。

そして、彼らの配偶者は天日鷲とイヨだとした。この2人は、武甕槌と木花佐久夜毘売の子だとしたのであった。



雲井郷造神社の相殿のヒナラスは、ヤマトタケルだろう。

常陸国風土記には、ヤマトタケルがヒナラスに井戸を掘らせて、その井戸水に袖を浸したからヒタチになったという、時代を錯誤した説話が記載されている。

ヤマトタケル=安曇磯良と屋主忍男武雄心(=建己呂)

だろう。


 

 

 

 

 

 

飯豊青の痕跡が福島に多く見られることも興味深い。郡山市安積地区にある飯豊和気神社の祭神は、御食津神になっているが、大中臣系図にもその名が出てくる。

まさに倭の五王の時代は、関東、福島に中心があったと見た方が良いのではないか。

ヤマトタケルは崇神である、というのがわれわれの説なのだが、その説明をしておこう。

崇神はよく神武と同一視される。

崇神の和風諡号がハツクニシラススメラミコトなので、初代の天皇ではないかというのである。

初めて国を治めた大王というほどの意味だ。

だから、欠史八代という言葉は、崇神=神武説から始まったと理解できる。

百嶋翁は、崇神を中臣烏賊津使主だと推定した。

前述した中臣系図には出てこないが、烏賊津使主は雷大臣(雷はいかづち)や伊賀津臣と推定される。

大中臣系図から音穂以前の系統を記しておく。

生年はひと世代28年として推定した。

 

名前      推定生年 主君

天児屋根    -2       百嶋系図では武甕槌、天忍穂耳、大歳神、安日彦、海幸

天押雲根    26

天種子     54   神武      日本書紀に記載、菟狭津姫を娶る

宇佐臣     82  神武  別名菟狭津彦 宇佐神宮と関係あり?

御食津     110

伊賀津臣    138     これこそ烏賊津臣ではないか?母は天女w

梨迹臣     166     近江国風土記に逸文記載 余呉湖の羽衣伝説と竹生島  

神聞勝     194  崇神  常陸国風土記に記載 

久志宇賀主   222  垂仁  探湯主(くかたち)    

国摩大鹿島   250  垂仁  別名大鹿島 五大夫のひとり

巨勢山     278  景行、ヤマトタケル   常陸国風土記に記載 御船祭り

雷大臣     306  仲哀、神功、允恭  烏賊津臣とされている

大小橋     334  成務  大阪比売許曽神社の祭神? 下照姫か?

中臣阿麻毘舎卿 362  仁徳  

音穂      390  倭の五王(飯豊青の時代)

 

記紀によると崇神の三代後がヤマトタケルの時代となる。

崇神―垂仁―景行―ヤマトタケルだ。

しかし、百嶋翁は崇神の生年を195年、ヤマトタケルを190年と推定した。

つまり、ほぼ同世代であるとしたのだ。しかも景行を大足彦、天種子とし、200年生まれとしていた。通説の父子の順序が入れ替わっているのである。

これは百嶋翁は60年間研究した結果であり、わたしにはその理由は皆目見当がつかないのだが、百嶋系図で注目する点は、崇神も景行も垂仁も贈天皇としているところだ。

つまり、彼らは天皇ではなく、後世何者か天皇に仕立て上げたのではないかという疑念があるということだ。

常陸国風土記ではヤマトタケルは天皇になっている。上記の大中臣系図からは、その時代の中臣氏は久志宇賀主から鹿島の巨勢山あたりになる。

久志は久慈に似ている。

宇賀は宇賀神を思い出す。

八溝山の東麓、久慈川水系の最上流部は福島県棚倉町だが、阿武隈川との分水嶺には宇迦神社が鎮座していた。

もしかしたら、久志宇賀は棚倉町にいたのかもしれない。


本来のリーダーたる、スサノオ系の、いわゆる正統物部氏、後裔の蘇我氏、安日長髄彦系統の中臣氏の系統を参考(乗っ取り)、記紀を作らせた人物が最も張本人である可能性が高いということになるだろう。

つまり、記紀編纂時の最高権力者である不比等が最も怪しくなってくる。

大陸から渡来した不比等が、蘇我氏同族の鎌足を父とする系図を作り上げ、天皇近侍=八咫烏という地位を獲得し、その後の摂関政治、そして現代においては宮内庁に深く潜む礎を作ったと推測するのが、今の私にはもっとも蓋然性が高いのだ。

不比等の主人あるいはヒモは持統だった。

持統は、天武の后だった。

則ち天武の后だったのである。

不比等が出国した唐には、武則天がいた。

武則天は、列島では則天武后と呼ばれる。

それは、即ち天武の后だったからではないのか?

武則天の字は照である。

天の照である。

ここから、天照が創作されたのではないか。

つまり、天照は武則天であり、持統天皇だったと考えられるではないか。

だとしたら、國體主義者のいう、男系男子は根本から崩れ去ることになる。

今、ユーチューブやTikTokなどでしきりに天皇アゲをする番組が多く見られるが、彼らの最大の目的は天皇制を維持し、不労収入あるいは税金の搾取で、末永く安泰でいることなのかもしれない。

そういう意味では、藤原氏も秦氏も偽ヤタガラスも同じ穴のムジナなのだろう。

国家、国家とほざく輩にちがいないと私には思えて仕方がない。

大事なのは国体ではなくて国民なのだから。

祈ることだけでは何も変わらないのだ。

行動を起こすべし!