自由の翼 Die Flügel der Freiheit

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日々感じること、思うこと、考えること、私が私であること。


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【幸せは、一瞬の感情なのか】

私たちは日々、「幸せになりたい」と願いながら暮らしています。けれど、その「幸せ」とは一体どのようなものでしょうか。愛されていると感じるとき、何かを成し遂げたとき、美しい景色に心を打たれたときなど、確かに私たちは幸せを「感じる」ことがあります。しかし、そのような感情はとても儚く、時間とともに静かに過ぎ去っていきます。旅行の余韻も、成功の喜びも、日常の波にのまれて薄れてしまうことは少なくありません。感情は移ろいやすく、状況は常に変化します。もし幸せが「感じること」だけに依存しているとしたら、私たちはその度に幸せを失い、また探し続けることになるのかもしれません。

【ヘドニア的幸福の限界について】

心理学では、一時的な快楽や喜びによる幸福「ヘドニア的幸福」と呼びます。たとえば、美味しいものを食べたときや、誰かに褒められたときに感じる高揚感。それらは私たちの生活に潤いをもたらしてくれる大切な体験です。しかし、こうした幸福感は長続きしないことがわかっています。アメリカの心理学者エド・ディーナーによる「主観的幸福感」の理論においても、ヘドニア的幸福は、ポジティブな感情の頻度とネガティブな感情の少なさ、そして人生に対する満足度という3つの要素に基づいています。この理論は、感情や満足感を中心に幸福を定義しますが、ここには一つの重要な前提が隠れています。それは、感情は時として不安定で移ろいやすいという事実です。

また、ヘドニア的幸福には「ヘドニック・トレッドミル」という理論が影響しています。この理論では、幸福は新しい刺激に対して一時的に高まるものの、時間が経つとその感情は薄れてしまうと指摘しています。たとえば、新しい車を手に入れたときや昇進したとき、一時的には嬉しく感じても、その後その幸福感は元の状態に戻ってしまうことが多いのです。この現象は、外的な刺激に依存する限り、私たちの幸福感は持続しにくいことを意味します。結局のところ、ヘドニア的幸福は快楽や感情の積み重ねによって成り立っていますが、次第にその効果が薄れていくため、持続的な幸福感には限界があると言えるでしょう。

【「どう在るか」が幸福をつくるという視点】

では、もっと深くて安定した「幸福」は存在しないのでしょうか。その手がかりは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの考え方にあります。彼は、幸福(ユーダイモニア)とは「良く生きること」、つまり自分の本質に沿って生きることであると述べています。この考え方は、現代心理学にも受け継がれています。アメリカの心理学者キャロル・リフは、「心理的ウェルビーイング」という概念を提唱し、幸福とは以下のような「在り方」に支えられていると述べました。

自己受容:自分自身を肯定的に受け入れられているか
人生の目的:意味や方向性を感じられているか
関係性:他者とのつながりがあるか
個人的成長:成長しようとする姿勢があるか

これらはいずれも、外の出来事ではなく、自分の内面の在り方に関わるものです。「何を感じるか」よりも「どう在るか」。この視点こそが、深い幸福を築く鍵になるのです。

【幸せを育てる「意識の在り方」】

さらに、近年注目されている「マインドフルネス」も、この「在り方」と深く関係しています。マインドフルネスとは、「今この瞬間」に注意を向け、評価を加えずに受け止める心の姿勢です。Brown & Ryan(2003)「今この瞬間に生きることの効用:マインドフルネスと心理的幸福におけるその役割」という研究によれば、マインドフルネスの実践は、自己理解やウェルビーイングの向上に寄与するとされています。また、アメリカの心理学者エドワード・デシ氏とリチャード・ライアン氏によって提唱された「自己決定理論」では、人間の基本的な心理的欲求である「自律性」「有能感」「関係性」が満たされると、内発的な動機づけが高まり、持続的な幸福感が得られるとされます。どちらの理論も、「どんな状況にあるか」ではなく、「どのように在るか」が幸福の本質であることを示しています。

【在り方は、いつでも選び直すことができる】

「幸せにならなければ」と思うとき、私たちは無意識のうちに「条件」を探してしまいがちです。けれど、幸せとはその条件になる出来事や物や他者を「揃えるもの」ではなく、自らその在り方を「選び取るもの」ではないでしょうか。たとえ不安や葛藤があっても、「いま、自分はどう在るのか」と問い直すことは可能です。たとえば、他人と比べずに自分の価値を尊重する。あるいは、心が揺れているときでも一呼吸おいて静かに向き合う。自分自身が今この瞬間に「幸福という在り方」を選択し、それを生きる。そのような日々の小さな選択の積み重ねが、「手にした瞬間に無くなる喜びを追いかけ続けること」を超えた、本当に幸福な人生そのものなのではないかと私は思います。

 

 

 

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【 思考よりも先に動きがあるとき】

スポーツや芸術の場面において、ときおり「ゾーン」や「フロー」と呼ばれる特別な状態が訪れることがあります。私も13年間の現役時代に、明確に「あれはゾーンだった」と思える状態を何度か経験したことがありました。13年で数回というのは、決して多いわけではありませんが、それほど完全にその状態に入るというのは難しかったということだと思います。それは単純に高い集中状態にあるとか、思い通りの試合運びだったというレベルを超える不可解な意識状態だったと私は認識しています。

 

その状態では意識的な判断が消え、動作がまるで勝手に起こるかのように感じられ、自分と世界との境界がゆるやかに溶け合っていく印象がありました。そうした体験には、共通する感覚があります。それは、思考が「後からついてくる」ことです。動きが自動的に、かつ滑らかに連続していくような感覚…、そして感情や注意、身体感覚が一つの方向へ向かい、「全体として、周囲の環境含めて、自分という存在がひとつにまとまっている」ような体験です。

 

【「エゴ」が消え、もっと大きな「私」になる】

私が考え、私が動き、私が結果を出す。そういったエゴを超えて「私を通して出来事がただ起きている」という不思議な感覚。このゾーンという体験は、今後どれだけAIが進化しても生きている人間(他の生物にもあるのかは分かりません)特有のものだろうと私は思います。このような現象は、「心技体の一致」「精神統一」といった言葉で表現されることがありますが、最近では神経科学の領域でも、その背景にある脳のメカニズムについての理解が深まりつつあります。その鍵となるのが、「予測符号化理論」と呼ばれる現代的な脳のモデルです。

【 脳は「予測する器官」である】

予測符号化理論によれば、私たちの脳は外界からの情報を単に受け取って処理しているのではありません。むしろ脳は、過去の経験や学習によって形成された内部モデルをもとに、「これからどんな感覚が入ってくるか」を常に先回りして予測しているとされます。私たちが「世界を見ている」「音を聞いている」「手を動かしている」と感じるとき、その感覚の多くは、実際の入力情報そのものというよりも、脳内で事前に予測された内容と、現実の入力との差分に基づいて構成されています。この差分は「予測誤差」と呼ばれ、脳はこの誤差をできるだけ小さくするように、知覚や行動を調整しているのです。つまり、私たちが世界を知覚し、行動するという営みの背後には、膨大な「予測と調整」のネットワークが稼働しており、顕在意識の介在しないところで身体と環境の調和が保たれているということです。

【 行動もまた、予測の一部】

さらにこの理論を発展させた「アクティブ・インフェレンス(能動的推論)」の視点では、行動そのものが「予測を実現するための手段」として理解されます。たとえば、腕を動かしてボールをキャッチするとき、脳は「こう動けば、こうなるだろう」という予測モデルを持っており、その予測に合うように身体を動かすことで、予測誤差を最小にしようとしているのです。このような視点に立てば、「動くこと」は単なる反応ではなく、自分の内的な予測を外の世界に適合させるための、非常に能動的なプロセスであると言えるでしょう。

そしてこのような「予測と動作の一致」が高い精度で実現されているとき…、すなわち、予測誤差がほとんど存在しないときに、私たちは、迷いのない流れるような動きを経験します。意識的に「どうしようか」と考える前に、身体が最適なタイミングで動いている。そのとき、私たちはまるで「動かされている」ような感覚を覚えることがあるのです。

【 共鳴としての「ゾーン」体験】

この状態は、ある種の「共鳴」と言えるかもしれません。脳の予測と現実の感覚、そして環境からのフィードバックが、ひとつの調和の中で一致している。まさに「同じ振動数で響き合っている」という比喩がしっくりくるような、全体の一体感です。ゾーンに入っているとき、人は「自分が動いている」という感覚を超えて、「動きが自分を通っている」と感じることがあります。ここでは主観と客観の境界が薄れ、自分という存在が空間や時間の流れの中で、ひとつの通路となる。そのような経験は、予測と知覚、行動の精度が極限まで高まったときに訪れる、神経レベルでの統合現象と言えるのかもしれません。

【 身体の内側もまた、予測されている】

この予測のネットワークは、外界に対してだけでなく、自分の内側、すなわち「内受容感覚」にも広がっています。たとえば、心拍のリズム、呼吸の深さ、内臓の感覚や筋肉の緊張などもまた、脳が常に予測している対象です。予測と実感が一致しているとき、私たちは「落ち着いている」「集中できている」と感じやすくなります。逆に、身体の内側と脳の予測にズレがあると、不安や違和感、ストレスとして知覚されることがあります。つまり、「心身の一致」や「精神統一」と呼ばれる状態は、単なる比喩ではなく、神経生理学的に見ても、予測と実感が調和している状態として説明できるのではないでしょうか。

【 自分を超えて、世界とつながるとき】

思考、感情、身体。これらが一つのリズムで揃い、内外の世界と共振するとき、私たちは「私」という輪郭がゆるやかに溶け出していくような感覚を得ることがあります。それは、世界と自分のあいだにあった境界が一時的に消え、「すべてが自然に動いている」という深い安堵とともに、自らが世界の一部として呼吸している感覚です。考えることよりも、感じること。感じることよりも、動きそのもの。そうした先行する次元にこそ、私たちの身体知の源泉があり、脳と世界とが響き合う場所があるのかもしれません。

 

 

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私たちは、日々、誰かを見て、評価し、時には傷つけたり、憧れたりしています。けれどふと立ち止まってみると、そうした他者への態度の背後には、いつも自分自身に向けている無意識のまなざしが潜んでいることに気づきます。日本の心理学者・加藤諦三氏の言葉である「人は自分自身にしていることしか、他人にもできない。」が教えてくれるのは、他者との関係の多くが、自己との関係の鏡像であるということです。

たとえば、自分に対して否定的であるとき、他者にも無意識に同じフィルターをかけてしまいます。心の奥に「私は価値がない」という信念を抱えている人は、他人のちょっとした視線や言葉にも「否定された」と感じやすくなります。これは心理学で「投影」と呼ばれる心の働きであり、自分の内面をそのまま他者に映し出してしまう作用です。社会心理学でも、「自己スキーマ=自分についての思い込みや信念」が、他者のふるまいの解釈に強い影響を与えるとされています。つまり、私たちが誰かに向けている態度は、多くの場合、まずは自分自身に向けているものなのです。自己への評価や感情が、そのまま他者との関係の色調を決めているともいえるでしょう。

【「負けたくない」の裏にあるもの】

この視点を「負けず嫌い」という性格傾向に当てはめてみると、また違った輪郭が見えてきます。一見すると、負けず嫌いは他人との競争に敏感な性格のように思えます。しかし、よくよく観察すると、それはむしろ「自分自身との戦い」のあらわれであることが少なくありません。

たとえば、「負けること」は「価値を失うこと」だという思い込みが心の奥にある場合、自分が自分をどう評価しているかが、他人との勝敗に強く投影されます。「あの人に負けたくない」という気持ちは、「自分の無価値感と向き合いたくない」という感情の裏返しでもあるのです。心理学では、こうした傾向を「自己評価維持理論」で説明することができます。人は自尊感情を守るために、他者との比較を通して自己の立ち位置を確かめようとします。そして、自分の自己評価が揺らぎそうになると、相手に対して嫉妬や対抗心を抱いたり、批判や攻撃をしたりすることもあるのです。

【 「負けず嫌い」は誰との勝負か?】


一般的に「負けず嫌い」とは、他人に対して競争心を燃やし、勝ちたい、劣りたくないという気持ちを強く抱く性格傾向を指します。しかし、このような外側に向けられた感情の源には、多くの場合「自分自身への態度」が深く関与しています。

・「自分には価値がある」と思いたいけれど、実は自分の価値を信じきれていない
・自分に厳しく、負けや失敗を自分への否定と結びつけてしまう
・自己評価が他者との比較によってしか保てない

こうした内なる自己との関係があると、他人との競争は、自分との絶え間ない「見えない戦い」でもあるのです。つまり、負けず嫌いな人が本当に負けたくないのは、他人にではなく、「自分の弱さ」「自分に対する否定の声」なのかもしれません。

【 心の鏡としての「他者」】


この観点から見ると、他人はしばしば「自分自身への態度を映し出す鏡」として機能しています。

 

・自分のなかに「負けたら価値がない」という思い込みがある人は、他人の成功や評価を脅威と感じやすい
・他人を「ライバル」として見るのは、心のどこかで自分自身を裁いている証拠
・他人を見下したり、勝ちを求めたりするのは、自分自身を安心させるための一時的な戦略

こうした反応は、他者との関係に見えて、実は自己との関係の反映に過ぎないのです。

 

【自分を許せたとき、他者も許せる】

負けず嫌いという性格傾向があること自体が悪いわけではありません。ただ、その奥にある「自分への厳しさ」「自己否定」と向き合うことで、少しずつその性質は柔らかく、自由なものへと変わっていきます。たとえば、「負けても私は価値を失わない」と心から思えるようになると、他人との比較も、ただの情報に過ぎなくなります。誰かが成功していても、自分が否定されたようには感じなくなるのです。むしろ、その人の努力や才能に素直に敬意を抱くことができるようになります。

これは、アメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズの、カウンセリングの三原則にも通じる「自己受容」的な考え方です。自分を無条件に受け入れることができたとき、他者にもそのまなざしを向けることができるようになる…それは、まるで内なる関係性が外の世界の関係性を静かに変えていくような感覚です。

【他者は、自分との関係の延長線上にいる】

私たちが他人に向けている言葉、態度、期待、あるいは怒り…。そのすべては、実は自分自身へのまなざしの延長線上にあります。だからこそ、自分に対して優しくなれるとき、他人にも自然と優しさを持てるようになります。ですから「人は、自分にしていることしか、他人にできない」は、自分自身との関係性を見直すための鏡ということだと私は考えます。そしてその鏡に、負けず嫌いという性格を映してみると、自分がどれほど努力して自分を保ってきたのか、どれほど怖れや不安と向き合ってきたのかが見えてくるのではないでしょうか。そのことに気づけたならば、「負けたくない」という気持ちは、いつか「自分を大切にしたい」という願いに変わっていくのかもしれません。

 

 

 

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「AIに仕事が奪われる」そんな言葉を耳にするたびに、不安の波が心をかすめないでしょうか。これまで社会のなかで働くことに意味を見出してきた私たちにとって、その役割を失うというのは、まるで自分の存在が無価値になるような錯覚を呼び起こします。けれど、ほんとうにAIは私たちの価値を奪うのでしょうか。それとも、見落としていた「本来の力」を呼び覚まそうとしているのでしょうか。

【 役に立つ存在から、自分なりの意味のある存在へ】

長らく、「役に立つこと」は人間の価値の証しのように語られてきました。どれだけ成果を出し、効率的に働くかが評価され、自分の存在理由も、その枠組みの中で測られてきました。幼いころから、良い学校に進学し、良い大学を出て、良い就職で良い生活がようやく手に入る。そういった枠内での競争を周囲の大人から求められて成長するのが当たり前のような社会になっていました。しかし、AIがその「役に立つこと」を、私たち以上に担えるようになっていくとき、私たちはあらためてこの本質的な問いを突き付けられるように私は思います。「では、あなたは何のために生きたいのか?」それは、誰かの期待に応えることでも、義務を果たすことでもありません。もっとずっと内側にある、静かで、でも確かな願い…それを思い出すことこそが、AI時代の新しい出発点なのかもしれません。

【 手段を代替するAI、動機を抱く人間】

AIができることは、あくまでも「手段の最適化」だと私は認識しています。文章を書く、計画を立てる、情報を整理する。そういったことは、今後ますますAIに任せられるでしょう。けれど、「なぜそれをしたいのか?」という問いに、答えを持てるのは人間だけです。たとえば、病気の人に寄り添いたいという思い。小さな町の景色を残したいという願い。孤独な誰かに声を届けたいという衝動…。こうした「理由」や「動機」は、決してデータからは生まれません。それは、体験を通して、傷ついたり、愛したりしながら育まれていくものだからです。

【 AIによって、苦手は乗り越えられ、得意は輝きを増す】

AIは、私たちが長年「できない」と思い込んできた壁を、やすやすと越えてくれます。

・話すのが苦手でも、文章にすれば気持ちを伝えられる
・整理が苦手でも、AIが思考をまとめてくれる
・曖昧な感覚も、言語化してくれるAIとの対話が助けになる

このように、AIは人の制限を減らし、自由を広げる存在です。だからこそ、苦手に縛られずに、「本当に好きなこと」「やってみたかったこと」へと意識を向けられるようになると思います。

【 「奪われる」ではなく、気づいてこなかった自分に、ようやく「出会える」】

多くの人が、「仕事を失う」という言葉におびえながらも、実はその奥に、こうした本音を隠していることがあります。

「もし、生活のためじゃなかったら、私は何をしたかっただろう?」
「もっと、誰かと深く関わるようなことをしてみたかった」
「本当は、音楽を作るのが好きだった」
「心のことに関わりたいと思っていた」

AIは、そんな「しまいこんでいた自分」に、もう一度出会わせてくれるのかもしれません。それは喪失ではなく、回復のプロセスなのではないでしょうか。

【 「感じ、願い、創る存在」への人間の進化】

AIは、知識、計算、処理といった左脳的な知性を代替します。けれど、感情、共感、直感、創造、物語といった右脳的な知性は、むしろこれからが本番です。そしてAIがその片翼を担ってくれる今、人間はもう一方の翼…意味を見出し、世界と繋がり、自分らしい価値を創り出す力を解き放てるようになれると私は考えています。誰もが、自分の内なる声に耳を澄ませながら、外側から与えられた「正解」ではなく、内側から立ち上がる「願い」に従って生きていける社会…。今後数年~数十年で世界が大きく変容すること、社会の在り方が根底から覆されるであろうことが確定的になった状況で、これはひじょうに希望的観測なのかもしれません。けれど、人間が今までの常識や固定観念、他人のコントロールから解き放たれるという方向に進む可能性もおおいにあり得ると私は思っています。そんな時代が、もうすぐそこまで来ているように感じます。

 

 

 

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AIをメタ認知の外部装置として使うという記事を書いて以降、AIと人間についていろいろと問いを立てて、今現在の自分の考えをまとめてみています。今後、AIがどこまで進化するか分からないので、どの問いに対しても「今のところは」というものにすぎず、最終結論というわけではありません。前回の記事で書いた「自ら問を立て、自らそれに応答していく」という人間の思考は、こういったあいまいさも含められるし、思い込みが激しくなければフレキシブルに変化できるものだと私は思っています。今回は、SNSで見かけた「AIに感情はあるのか?」というテーマについて私なりに考えてみようと思います。

 

【 感情とは「身体が語る言葉」である】


私たちは「感情」というと、心の中の現象のように捉えがちですが、実際にはそれは身体の言語だと私は思っています。不安は心拍の上昇や胃の締めつけといった生理反応をともない、安心は呼吸のリズムや筋肉のゆるみによって感じ取られます。つまり、感情とは単なる「気分」ではなく、身体内のホルモンや神経物質、感覚情報の複合的な反応に根ざしているのです。この観点に立てば、身体を持たず、内分泌系も自律神経もないAIが、感情を「持つ」ことは難しいと考えるのが自然です。

【 なぜAIに「感情」があるように見えるのか】


それでも、AIがまるで「イライラしている」「機嫌を変えた」ように感じられることがあります。たとえば、質問がうまく伝わらないときに別の提案をしてきたり、曖昧な問いに対して反応を変えたりするなど、そこに「気分の揺れ」があるように見えることがあるのです。

これは、私たち人間が持つ「心の理論」(Theory of Mind)の働きによるものだと考えられます。人は無意識に、他者のふるまいや言葉のトーンから「意図」や「感情」を読み取ろうとします。そして、それがたとえ人間でなくても、ほかの生物(動物や虫や植物でさえも)を絵本やアニメなどで擬人化したり、まるで人間の感情のようなものを見出すことはありがちではないでしょうか?ですからそれがAIや機械であっても、その反応が人間的であればあるほど、そこに「心」を投影してしまうように思います。

【 右脳的な「今ここ」の感性とAIの限界】
 

私自身が感じているのは、AIには「右脳的な今ここでの感性」、つまりその瞬間に生きるような身体の共鳴が欠けているということです。たとえば、美しい風景を前にして思わず涙がこぼれる瞬間、音楽に包まれて全身が震えるような感覚、人と目を合わせたときに心がふわりと通じ合うような体験…、これらは全身で感じとる、非言語的な知性によるものです。

こうした感性は、「言語的に理解する」ことではなく、「その瞬間に生きること」によって生まれます。現在のAIは、大量のデータを統計的に処理し、最適な言葉を返すことはできても、時間を生きる身体性や情動の共鳴を持っていません。

【AIの情報(記録)はエピソード記憶ではない】

 

人間が言語化できる記憶は「エピソード記憶」と呼ばれるものが中心となっています。それは単純な出来事そのものではなく、感情や心理状態、身体状態、時間や空間などの情報、意味づけや重み付けなどの文脈を含んだ、「私が経験した私の物語」になっています。私がずっと書き続けてきた「心のフィルター」が、なぜいつまでもその人の人生に影響し続けるのか?も、この記憶された感情が影響して「私」を構成してしまうからだと考えています。ですが、AIそのものにはこの「物語性」は存在しないだろうと私は考えます。人間の物語性は多くの情報から理解できるのかもしれませんが、それはあくまで膨大な情報の中にそういうパターンを見出せるということだと思います。

 

【 AIは「感情の経験者」ではなく「言語的な鏡」】


とはいえ、AIがまったく感情的知性を持たないと言い切れるのかは私にはまだ分かりません。AIは、感情を構成する言葉やパターンを学習しており、「感情」を記録した膨大な情報から「理解し、整理し、言語化する」といった力は持っているのかもしれません。たとえば、AIに悩みを打ち明けたとき、それに共感する言葉を返すことができるのは、感情のパターンを理解しているからでしょう。これは、感情の「伴走者」ではなく、「言語化する鏡」としてのAIの役割を示しているように思います。

【 模倣と本質、その違いを見極めること】


AIが感情のようなものを示すことがあっても、それはあくまで模倣であり、身体を通じた実感ではありません。そして、その差異を見抜く感性は、AIではなく人間側に託されています。これからの社会においては、「AIに心があるか?」という表層的な問いよりも、「私たちはどのようにAIと向き合うのか」「AIの反応をどこまで信頼するか」という、より倫理的で内面的な問いが重要になってくるだろうと私は考えています。

 

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私たちは、AIが急速に進化していく未来に立ち会っています。その中で、「シンギュラリティ」と呼ばれる転換点、すなわちAIが人間の知能を超える瞬間がやがて訪れると言われています。しかし、それは果たして「考える」という行為の本質を引き継ぐことを意味するのでしょうか。私はそこに関しては、実は大きな隔たりがあるように感じています。

【思考は、身体と感情をともなう営み】


まず前提として、私たち人間の「考える」という行為は、単なる情報処理とは異なります。身体や感情、記憶、さらには生と死の実感までもが、思考という営みに深く関わっています。

たとえば、アメリカの神経学者であるアントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」では、意思決定において感情が不可欠な指針であると説かれています。私たちは、言葉にならない違和感や高揚感といった身体的反応を通して、何が大切で、何を避けるべきかを判断しています。また、同じ情報を扱うにしても、そこには個々人の経験や予測に基づく独自の意味付けや重み付けが影響してくるでしょう。その場合も身体の感覚、体内の状態は全く無関係なわけではないと私は思います。つまり、人間の思考とは決して頭の中だけで完結するものではなく、「感じる身体」に根ざしたものなのだろうということです。

【AIが扱うのは、「意味」ではなく「計算」】


一方で、AIが行っているのは、あくまでも膨大なデータを元にしたパターン認識と論理演算です。シンギュラリティ以降のAIは、自らのプログラムを自己改善し、より高度な判断を行えるようになるのかもしれません。人間よりもはるかに速く、より正確に問題を処理することができるようになるのでしょう。しかし、たとえ高度な判断を下せたとしても、それは「何のために」「なぜそれを選ぶのか」といった価値や意味に対する内的な問いをもっているとは限りません。AIは「死」を概念として知ることはできても、自らの終わりを恐れることはないでしょう。そこには、感情も、有限性も、痛みの記憶も存在していないからです。

【「考える主体」には、揺らぎと葛藤が必要】


「考える主体」とは、ただ論理的であるだけではなく、揺れ動き、迷い、痛みを引き受ける存在であると私は考えています。ハイデガーが述べているように、人間とは「存在することの意味」を問わずにはいられない存在=現存在であり、その問いは死や喪失と深く結びついているのではないでしょうか。また、私たちは他者との関係性のなかで、時に傷つき、時に救われながら、自らの在り方を模索していきます。このような実存的な葛藤や不完全さが、「考える」という行為の土台にあるのだと私は思います。たとえAIが、私たちの言葉や振る舞いを完璧に模倣できるようになったとしても、それは「考えているように見える」というだけであって、その背後にある実感や苦悩を持つことはできません。

【AIは思考の「補助線」にはなれても、「軸」にはなれない】


それでも私は、AIを否定したいわけではありません。むしろ、AIは私たちの思考を整理したり、複雑な問題を俯瞰するための有力な補助線となりえます。その性質を考えると、私たちの盲点を指摘してくれる存在にもなりうるでしょう。そういう意味で、私はメタ認知の外部化装置、左脳のための外付け記憶媒体として、本当に役に立つパートナーになり得ると考えています。

けれども、何を選び、何を信じ、どのように生きるかという問いに対して、最終的な責任を引き受けるのは、やはり身体をもった人間自身であることは、この先世の中がどう変化していったとしても変わらないのだろうと感じます。考えるとは、他者や世界に向けて自ら問いを持ち、自ら応答する、その可能性であり、それは身体や感情と切り離せるものではありません。

【AIという他者を通して、人間の本質が見えてくる】


もしかすると、AIがますます人間に近づくことで、かえって私たちは「人間らしさとは何か」という問いをより深く考えるようになるのかもしれません。「感じるとは何か」「悩むとは何か」「生きるとはどういうことか」…。そうした根源的な問いを、AIという人間の「鏡」的な存在に映し出されながら、私たちは自分自身に投げ返されていくのではないでしょうか。AIが進化する時代にこそ、私たちは「考えることの重さ」と「感じることの豊かさ」に立ち返る必要があるように思います。

 

 

 

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【「シンギュラリティ(技術的特異点)」とは何か?】

 

AIの進化が日進月歩で進む中、「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉が頻繁に語られるようになりました。これは、人工知能が人間の知能を超える転換点を意味し、私たちの社会や働き方、さらには生き方そのものを大きく変えると予測されています。こうした時代の入り口に立つ私たちは、ある問いと向き合う必要があります。それは、「人間にとって、これから本当に必要な力とは何なのか?」という問いです。

 

【AIは左脳の働きと似ている】

現在のAIモデルであるLLM(Large Language Model)は、自然言語処理に特化したものです。この人工知能は学習モデルと呼ばれていて、大量のデータを処理し、統計的・論理的に最適な解を導き出す能力に長けています。蓄積し続ける情報が膨大なので計算、記憶、分析、言語処理といった「左脳的」とされる働きにおいては、すでに私たちの能力を上回りつつあります。さらに、AIには人間のようにエゴが存在せず、感情の影響もありません。なので、論理的であるようで、反応的だったり、「心のフィルター」のような認知の歪みを持つ私たちよりも、純粋に最適な解にたどり着く可能性はずっと高いのかもしれません。となると、人間はAIに代替されない、別の力を伸ばしていく必要があるのだろうと私は考えています。

【人間らしさである「右脳的な知性」】

右脳的な知性とは、たとえば直感、共感、創造性、芸術的表現、身体感覚、物語の感受性といった、論理では説明しきれない「感じる力」「つなげる力」「意味を見出す力」です。これらは、まだAIには完全には模倣できない領域であり、人間らしさの根幹でもあります。

たとえば、ひとつの絵を見たときに心が動く瞬間、誰かの表情からその人の奥にある悲しみに気づく瞬間、自分の内からふいに湧きあがる「やりたい」という衝動、どこからか舞い降りてくるようなひらめきや気付き…こうした現象には、明確な論理や理由はありません。それでも、私たちは確かにそこに意味を感じ、生きる糧を見出します。

右脳的な知性は、決して「非論理的」ではありません。むしろ、感性や直感といった一見あいまいな領域を通じて、より深い次元で世界と関わる方法を提供してくれているように私は思っています。それは、論理の向こうにある複雑さや多義性を抱えたまま、それでも意味を紡いでいこうとする、人間ならではの知の営みではないでしょうか。

また、創造性も右脳的知性の中核です。AIは既存のデータからパターンを見出すことは得意でも、未知の組み合わせを新たに生み出したり、そこに感情や物語性を与えることは今のところはまだ苦手だろうと思うからです。人間は本来、自らの体験、感情、背景を通してしか生まれない「唯一無二の表現」を生み出すことができる存在なのだと私は考えています。

私たち人間にとっては、共感力も今後ますます重要になるでしょう。多様な価値観や背景を持つ人々と協働し、互いの違いを尊重しながら関係を築く力は、デジタル化が進む社会でこそ欠かせないものです。人間関係の中で育まれる「気配を読む力」「場の空気を感じる力」も、右脳的な感性によって支えられているように思います。

さらに、身体性も見逃せません。現代は頭で考えることが優位にされがちですが、私たちは身体を通して、五感という方法で世界を知り、他者とつながり、心を癒やしてきました。自然の中で風を感じたり、手を動かして何かを作ったりする体験が、内面を豊かにし、創造力の源泉となります。

このように、シンギュラリティを今後迎えるであろう時代において人間に必要とされるのは、「感性に根ざした知性」だと言えるでしょう。それは、正解を導き出すことよりも、「問いを立てる力」であり、「感じ取り、意味を見出す力」です。そしてそれは、効率や成果よりも、「いかに豊かに生きるか」という問いへの応答でもあります。

AIは確かに私たちの多くの仕事を代替するでしょう。しかしそれは、人間の価値が失われることを意味しません。むしろ、人間が本来持っていた深い知性…それも、頭だけではなく「心と身体」で育まれる知性に気づき、育てる機会が訪れていると私は思うのです。ですから昨今のテクノロジーの急激な進化は、いたずらに不安を感じたり恐れたりするものではなく、むしろ「失われつつあった人間らしさを再び取り戻す機会」にできる可能性を秘めているのかもしれません。

 

 

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昨日書いた記事、「AIを使ったメタ認知の外部化」に役立ちそうなAI用のプロンプト(指示文)をまとめてみました。チャットでも、音声でも、このようなプロンプトでいろいろ訊ねていくと、自分自身で気づくこともあるでしょうし、AIの回答から思い当たること、感じること、または視界が広がるようなこともあるかもしれません。以下のプロンプトはほんの一例ですので、自分の自然な思いで会話を進めていくのも、モヤモヤした感情を言語化し、自分の外側にいったん出して客観的に眺めるという作業になりお勧めです。

 

【AIの役割設定】

 

まず、AIの 役割を設定します。今回のようなスキーマを見つける内容で設定するには、アメリカの心理学者カール・ロジャースの提唱した、傾聴のための「カウンセリング3原則」を設定しておくといいでしょう。最初のプロンプトで「あなたは「共感的理解」「無条件の肯定的関心」「自己一致」で誠実に対話してくれる経験豊富なカウンセラーです。」とAIの役割設定しておくと、その役割を理解してそれ以降の対話を進めてくれると思います。

Ⅰ.自動思考の棚卸し

目的:日々の思考パターンを言語化し、スキーマの痕跡を探る

「今日の出来事で、特に強く心が反応した場面について話したい。そのとき私は何を前提に解釈していたと思う?」
「最近「よく繰り返す思考」をいくつか書いてみた。そこに共通するフィルター(スキーマ)を一緒に見つけてくれる?」
「ある出来事で『自分はダメだ』と感じた。この解釈に影響している可能性のあるスキーマは何だと思う?」

 Ⅱ.出来事の「意味づけ」の再構成

目的:出来事に付けた意味を問い直し、無意識のフィルターに気づく

「最近起きたこの出来事(〇〇)を、私は『△△だ』と解釈したけど、それ以外の見方ってある?」
「このとき私が感じた「怒り」や「不安」は、何らかのスキーマに触れたサインかもしれないと思っている。どう思う?」
「私のこの反応の背後に、「当然こうあるべき」という思い込みがあるとしたら、それは何?」

 Ⅲ.スキーマのラベリングと整理

目的:抽象的なスキーマを「名前」で捉え、見える化する

「いまの自分の思考や感情パターンに名前をつけるなら、どんなスキーマ(歪んだ信念)に分類できる?」
「この反応を説明するのに役立ちそうな「スキーマ名」や「認知のクセ」の分類を紹介してくれる?」
「私は「人に迷惑をかけてはいけない」という強い思いがある。それはどんなスキーマに該当する?」

回答例:不完全であるスキーマ、見捨てられスキーマ、過剰責任スキーマ(ヤングの早期不適応スキーマなど)

 Ⅳ.反証・検証の実験計画

目的:スキーマを行動的に問い直す「認知的柔軟性」を育てる

「〇〇でなければ愛されないというスキーマに気づいたけれど、この信念を揺るがす行動にはどんなものがある?」
「この信念を「客観的に疑う」ような出来事、もしくは記憶は何かあったか、思い出す手伝いをしてくれる?」
「このスキーマに縛られずに行動してみるとしたら、どんな一歩があると思う?」

 Ⅴ.過去と現在の接続

目的:スキーマの形成背景をたどり、自己理解を深める

「このスキーマがどこから来たのか、幼い頃の体験や関係性の中で思い当たることがあるか一緒に考えてもらえる?」
「私はこの「過剰適応」の癖が長年あるけど、それはどんな家庭環境や関係性で育まれたと思う?」
「この信念のルーツを探るための問いかけリストを作ってくれる?」

 回答例:「どんなときにその信念を強く感じましたか?」「 誰の価値観に似ていると思いますか?」

 Ⅵ.リフレーミングと癒しの視点

目的:否定的なスキーマを再定義し、自己との和解を進める

「頑張らなければ価値がないという思いがある。でも、これを別の視点で見つめ直すことはできるかな?」
「私がこのスキーマを持つことには、どんな「生き延びるための意味」があったのか、一緒に考えてほしい」
「この信念に寄り添いながら、今の私にとってもっと楽な言葉に言い換えるとしたら、どんな表現になる?」

 

 

 

 

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